私を騙したあなたへ ―― 記憶を盗んだのは、あなたでした。

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23話【深紅の覚醒 ―― 愛を宿した瞳と、父が隠した偽りの聖域】

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 最後の夕陽に焼かれた空が、石畳に禍々しいほど長い影を落としていた。  黒ずくめの男たちの影は、まるで意思を持った飢えた獣のようにゆらりと揺れ、二人に忍び寄る絶対的な脅威を具現化したかのようだった。

 「……待って、蓮さん。ここ、私……見覚えがあるわ」  灯台へと続く苔むした急な坂道を駆け上がりながら、彩花は突如として激しい眩暈(めまい)に襲われた。視界が激しく歪み、脳の奥底を直接針で刺されるような鋭い痛みが走る。

 脳裏に明滅する、数日前の不自然な断片――風見と共にこの場所を訪れた記憶。しかし、その記憶は分厚い曇りガラス越しのように白濁し、今の今まで「別の場所」として認識から排除されていた。  ――なぜ、今の今まで忘れていたの?  ――あの時、理沙が「疲れが取れるから」と笑って淹れてくれた、あの少し苦いハーブティーのせいなの……?

 彩花は戦慄し、全身の血が引くのを感じた。理沙は親友として隣で微笑みながら、クロノスの命令で彩花の食事や飲み物に記憶操作薬「ネメシス」を密かに混入させていたのだ。図書館で古地図を調べるまでこの場所に辿り着けなかったのは、偶然ではない。理沙の手によって、彩花の思考そのものが、この灯台を「ただの寂れた観光名所」と思い込むよう、巧妙に誘導・封印されていたのだ。

「理沙……あなた、私に何を……」  喉の奥が絶望で震える。だが、今の彩花にはその悲しみに浸っている時間は一秒たりともなかった。背後から迫る「死神」の足音が、彼女を容赦なく現実へと引き戻す。

 フードで顔を隠した男たちは無言のまま、冷徹な機械のように動かない。しかし、彼らの目だけが闇の奥で冷たい刃物のように鋭く光り、隠しようのない確固たる殺意を放っていた。その視線を受け止めながら、彩花は蓮の手を壊れ物を扱うかのように強く握りしめた。

 蓮は静かに言い放った。恐怖を押し殺した声には、まだ微かな震えが含まれていたが、その瞳には彩花を何があっても守り抜くという、透明で確かな意思が宿っている。

「我々の正体を知る必要はない。桐谷蓮、お前を連れ帰るよう命令を受けている。抵抗は無意味だ」  リーダー・鬼塚の低い、地を這うような声が響くと同時に、男たちが一斉に蓮へと飛びかかった。

 次の瞬間、蓮の体は思考よりも先に、風のようにしなやかに動いた。影のように滑り、踊るように跳躍し、迫る拳を紙一重でかわしながら、逆に男たちの急所を突いて体勢を崩していく。その動きは、あまりに洗練されたプロの体捌き――人格を書き換えられ「涼太」として生かされていた空白の日々、クロノスの訓練施設で無意識のうちに身体に叩き込まれた実戦技術が、皮肉にも今、愛する者を守るための防衛本能として身体能力と共に覚醒したのだ。彩花には、それがまるで別人の、戦うために最適化された「未知の蓮」のように感じられ、驚愕に目を見開いた。

 蓮は一瞬の間に二人の男を手際よく投げ飛ばし、石畳に鋭い音と共に叩きつけた。

「蓮さん……!」

 彩花の声が震え、絶望的な夕闇の中に悲鳴のように響き渡る。その時――ふいに、彩花の脳裏に、かつて父が遺した慈愛に満ちた横顔が浮かんだ。

『彩花、お前には私たちがまだ解明できていない、秘められた力がある。いつか、誰かを心から守りたいと願う時、その力が目覚めるだろう』

 愛する蓮を再び失うことへの、魂の奥底からの根源的な恐怖。そして、何としても彼を救い出したいという混じりけのない純粋な意志が、理沙の手によって体内に取り込まれていた薬物を「未知の力」へと変質させ、父の遺言を「深紅の灯火」へと変えて爆発させた。

 ――守りたい。今度は、私が蓮さんを救うの!

 彩花の瞳が、突如として燃えるような禍々しくも美しい深紅に輝いた。体中を制御不能な奔流のような熱が走り、心臓が破裂しそうなほど強く、激しく跳ねる。海風すら彼女の周囲を中心に不可視の渦を巻き、柔らかな髪を天へと持ち上げる。

 次の瞬間、彩花は重力から解き放たれたかのように、地面から信じられないほど軽やかに浮かび上がった。その体は疾風を纏うかのように、舞うように回転しながら、蓮に背後から襲いかかっていた大男の一人に、稲妻のような鋭い回し蹴りを叩き込んだ。華麗で、速く、美しく、そして見る者を戦慄させるほど恐ろしい動きだった。

 蓮はその光景に驚愕し、一瞬だけ息を呑んだが、すぐさま彩花へと駆け寄り、剥き出しの戦闘本能で彼女を抱き寄せる。

「彩花……今の力は一体……!? 大丈夫か!?」

 抱きしめる蓮の腕の中で、彩花は急激に意識が遠のく感覚と戦いながら、決意の震えと共に強く頷いた。蓮の安全を確認した途端、彩花の瞳の赤みは引き、力は急速に霧散していった。同時に、全身を焼くような激しい熱感と、骨の髄まで軋むような凄まじい疲労が彼女を襲う。それは、代償を厭わずに放たれた「命を削るほどの愛」の証明だった。

「大丈夫……。父さんの言葉の意味が、やっと分かった気がする。……私、蓮さんと一緒に、この運命と戦える!」

 蓮は直感的に理解した。この不可解な力こそ、奥野博士が、残酷な世界から彩花を守り、そして未来を切り拓くために託した最後の希望なのだと。

 その時だった。  古びた灯台の、錆びついた鉄の入口から、眩い一筋の光が溢れ出した。退路がないほどに二人を追い詰めていた黒ずくめの男たちが、その予期せぬ光に照らされ、一瞬だけ動きを止める。蓮はそのわずかな隙を逃さなかった。彩花の手を強く握って、灯台の闇の奥へと滑り込んだ。

 灯台内部は深い薄闇に沈み、埃と潮の匂いが交じり合った、重苦しい空気が流れていた。螺旋階段を駆け上がった先に広がった空間を見た瞬間、蓮は衝撃に打たれ息を呑んだ。

 そこは、かつて彼が、恩師である奥野博士に連れられ、幾度となく議論を戦わせた――あの「博士の書斎」が、完璧に再現されていたのだ。重厚なマホガニーの机。使い込まれた革張りの椅子。壁を埋め尽くす難解な書物。 「ここは……奥野先生の書斎だ……。どうして、こんな場所に……」

 蓮の声が震えた。しかし、理沙の認識阻害が解けた今の彩花の目には、その風景の裏側に潜む「真実の禍々しさ」がはっきりと見えていた。

「……違う。蓮さん、見て。ここは、お父さんの書斎なんかじゃないわ……」

 蓮は彩花の視線に従い、壁の一部に触れた。指先に伝わる不自然な金属の冷たさ。 「この部屋の壁は、本棚を模した特殊な防音パネルだ。そして、この机の下……隠されているが、これは被験者用の拘束具の痕跡だ」

 彩花は息を呑んだ。理沙に薬を盛られてまで遠ざけられていた場所。そこは、恩師が蓮を救おうとした聖域であると同時に、クロノスが二人を「実験体」として弄んでいた、呪われた処刑場でもあったのだ。

「先生は……僕の壊れかけた精神を守るために、この残酷な実験室の風景の上に、最も慕っていた『先生の書斎』の記憶を、強力な暗示で『上書き』してくれたんだ。僕を救うために……最期の最期まで、僕の心を……」

 奥野博士の究極の慈愛と、理沙が手を染めた残酷な裏切り。二つの「愛」が交錯するこの部屋で、二人はついに逃げられない真実の最前線に立たされた。

 その時。不気味な静寂を破るように、重厚な扉の向こう側、螺旋階段の下から複数の軍靴の足音が、隠しきれない殺意と共に、再び響き始めた。

「まずい。鬼塚たちが、この『偽装』を完全に見破り始めた……!」

 蓮は、記憶を取り戻したばかりの不安定な身体を支え、愛する者を守るために、灯台の前から続くこの閉ざされた実験室という、絶望的に不利な足場と、自らの覚醒した知性だけを武器に、戦いに挑まなければならなかった。  絶望的な夕闇の中、二人の運命を懸けた、最初の戦いの火蓋が、今、切って落とされようとしていた。
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