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中村聖士は鬼門社長の言葉を胸に、夜道を急いでいた。自分の車を駆って、月田優の先回りを試みる。
(彼女ただ一人が、『透き通る剣の風』を外に持ち出した。どうにかしなくては)
自宅住所は把握できており、駅まで徒歩だということも分かっている。だから、最寄り駅までのどこかで待てばよい。なるべく人通りの多い、明るいルートを選ぼうとするだろう。ならばそのルートの過程で、最も人通りが少なく、暗い場所で待機するのがよい。
中規模河川の橋の近く、V字に入り込んだ位置にちょうど乗用車を駐められるスペースがあった。昨晩から断続的に降った雨で、川は増水していた。時折、渦巻くような轟音が耳に届く。
待機を始めてからおよそ二十分後。読みが的中したことを知り、中村はほくそ笑んだ。ルームミラーを通じて人影を捉え、それが月田優だと分かった。彼女がしばらく過ぎ行くのを見届けたあと、中村は車を出た。そしていきなり駆け足をし、息を切らせる演技に入る。
「あー、いた? 月田優さんじゃありませんか」
名前を呼んで相手の足止めに成功。不思議そうな目でこちらを振り返る彼女に追い付くと、両膝に手を添えて乱れた呼吸を落ち着かせる、これまた演技をやってみせた。
「ああ、よかった。月田さん、私ですよ」
「……あ、中村さん。バイトで指導をしていただいた……」
あまり豊富でない明かりの中、目を細めて誰何する表情だった月田は、頬を緩めた。
「何か御用でしょうか? ひょっとして、私、バイト先に忘れ物でも?」
「いえ。そういうのとは違います。実を言いますと、先ほど、ちょっとしたトラブルが発生した模様でして。私も今日はもう帰るところだったのですが、鬼門社長に呼び止められ、本の回収を頼まれたのですよ」
「その本て、『透き通る剣の風』ですか? どうしてまた……できあがって、あとはお披露目を待つだけというところまで来たのに」
「看過できないミスが見つかったとかどうとか」
「へえー。何ページの何行目ですか?」
興味津々に聞いてくる月田。中村が答えるのを待って、今にも本を取り出し、該当箇所の確認を始めかねない雰囲気だ。
「いや、とにかく回収をだね」
「回収には協力します。私が自分で持っていきますから、安心してください。途中、電車の中でそのミスのところを読んでみたいわ」
「……しかとは覚えていないんだ。見れば分かると思う。だから本を出してくれないか」
中村の要請に、月田はまた少し不思議そうな目つきをしたが、とりあえずという風に鞄を抱えると、中を覗き込んだ。じきに問題の本を手にした彼女は、中村に渡そうとせず、「おおよそ何ページぐらいかは覚えてるでしょう? そうじゃなきゃ、最初から見て行かなくちゃ」と言った。
「確か……二六〇ページ前後だったような」
出任せを口にした中村。次の瞬間、月田の顔が厳しいものになる。
「嘘。この本は二百二十九ページまでしかないわ」
「じゃあ二二〇ページ前後だよ、きっと」
「二と六を記憶違いするなんて、あまりないと思いますけど」
明らかに不信感を募らせている。月田の表情から読み取った中村は突如、強硬手段に出た。手を伸ばし、月田の胸元と鞄の間にある本を奪いに掛かる。
が、月田はおっとりした外見からは想像不可能なほど素早く、後ずさった。そしてくるりと向きを換えると、懸命に走り出した。だが、足の方はそんなに速くない。鞄の中に本を入れようかどうしようか、迷いながら走っている感じだ。
追い掛けていた中村は、ちょうど橋の中程で彼女の肩を掴むことに成功した。いや、中村は掴んだつもりだったが、実際は押してしまっていた。背後から急に押された月田はバランスを崩し、つんのめるように数歩、進んだ。その勢いで欄干から上半身を乗り出す格好になる。さらに、結局仕舞わずにいた『透き通る剣の風』を川に落としそうになった。
保持しようと腕を抱え直す月田。それが――本への愛着が、彼女の命取りになった。
「あっ、おい」
中村が短く叫んだときには、月田優の姿は橋下の水流に飲み込まれていた。
* *
パソコンと携帯電話をいじっていた僕は大きく伸びをし、左右の首筋を自ら叩いた。傍らにはいくつかの本が並び、一冊は開いてある。
自宅アパートでやり残した仕事に精を出して、二時間強が過ぎていた。かつて高値が付いていたが今は安定していない書物や、「何となくいい感じだな、高く売れるかな」という直感で買い入れた品物は、その場ですぐに販売サイトにアップすることはしない。早く売りたい気持ちもあるが、じっくり調べてから、もしくは自分自身が読んでみてから、じっくり値付けしたい気持ちが上回る。この辺りの行動は、小笠原さんから見れば理解しがたいものらしい。
「どっちかってえと、おまえは古書店やる方が向いてるかもな」
そう言われたこともある。せどりと古書店とでどこが違うのかと思ったが、本への愛着の強弱が違うということらしい。
(古書店と古本屋の違いも、小笠原さんから教えてもらったけな。あれはいつ頃だったか。聞いてみるかな)
どうでもよい回想をしていた僕の耳に、ブザーとノックの音が続けざまに聞こえた。
「はい、ただいま」
来訪者に聞こえているかどうか怪しいぼそぼそ声で応じつつ、僕は上っ張りを羽織った。あまりみっともない格好では応対もできやしない。商売道具の携帯電話を握ったまま、サンダルを引っ掛け、土間に立つ。
「夜分に済みません、**便です。宛先不明で戻って来てるお届け物があるのですが、確認をしていただけないかと」
「え、そんなはずは」
ここ数日の間に発送した品物は、ほとんどが常連さん相手だった。お初の人も入るにはいたが、全員、受け取ったというメールをもらっている。
だから、そんなことがある訳がないという気持ちが先に立ち、夜の訪問者の正体をまるで確かめずに、ドアを開けてしまった。
そこに立っていたのは、一人のやせた中年男性。宅配便業者の配達員ぽいなりをしていたが、どことなく妙な印象を醸し出していた。全然日焼けをしていない。新人配達員ならあり得るか。でも変だった。
その勘は当たっていた。
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