遠くのあなたを掴みたい

鹿嶋 雲丹

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第14話 ピンチヒッターの林先生

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 差していた黒い日傘を閉じると、途端に眩しいほどに輝く夏の陽射しが私を照りつけた。
「えっ……と……あなたが林先生……」
 新しい赴任先は、とある公立高校だった。
 まじまじと私を見る男性はこの学校の教頭だ。
 まあ、その反応には慣れている。予め手にしているだろう私のデータは、男性としての私のものなのだから。
「はい、林優希と申します。びっくりされたでしょう? 履歴書には、あえて昔の写真を使っているので」
「そ、そうですね……その、失礼だが非常に女性らしいというか……」
 合っていますよ、その感覚は。
「私は男性の体で産まれましたが、心は女性なんですよ。体にメスは入れたくなかったので、いじったのは声だけなんですけどね。この胸はパッド、喉仏はスカーフを巻けば隠せますから」
 興味津々といったようにちらちらと喉元や胸元を見てくる教頭に、私はにこやかに説明する。
 疑わしい視線を向けられるのは気持ち悪いから、性別に関しては真っ先に相手に伝えるようにしていた。
 私には、事実を隠したいという気持ちは微塵もない。
 私の身長は一七三センチある。男性としては標準的、女性としては高身長にあたるだろう。
 化粧は派手すぎずナチュラルなものに、背の半ばまであるストレートの髪はハーフアップにした。
 初めての職場を訪れるのに選んだスーツは、ネイビーのパンツスーツ。もちろん、女性用のものだ。スカーフもそれに合わせた色合いのものを選んでいる。
「はあ、そうなんですか……まあ、とりあえず校長室へ行きましょう……それにしてもこんな中途半端な時期なのに来てもらえて良かったですよ、急に体調を崩されたようでね」
 七月の末の今、高校は夏休み中だ。
 急に体調を崩したらしい養護教諭……保健室の先生のピンチヒッターとして、私に声がかかったのだ。だが、いくら心は女性だとはいえ、保健室の先生はやはり女性の方が好ましいだろう。
「その外見でしたら、林先生がメインでも大丈夫だと思いますがね」
「いえいえ、私はあくまでサポート役ですから、保健室に常駐する役は女性の先生にお任せしますよ」
「そうですか……さ、どうぞ」
 教頭は校長室というプレートが上部に示されている部屋のドアをノックしてドアを開けた。
「えっ……と……」
 部屋の中にいた校長と思しき人物は、教頭と同じように戸惑ったようなリアクションをとる。
 私は心中でやれやれと思いながら、私の事情を手短に説明した。
 それを聞いた校長は、興味深そうな視線で私を眺める。
 なんだろう、慣れているはずなのに、妙に不快感を感じる視線だ。
「まあ、とりあえず座って話しましょう……いや、正直あまりに綺麗なので生徒の保護者の方かと思ったんですよ」
「保護者の方が、夏休みに校長室にお見えになるんですか?」
「ええ、まあ、進路のことや素行のこととかね、あえて私に相談したいっておっしゃる親御さんもいるんですよ」
 ふうん、あえて、ね……なんだかグレーな香りがするような……それは勘繰り過ぎか……
「前任の先生は体調不良と聞きましたが、深刻なものなんですか?」
「どうもそうらしいんだ……生徒の悩みを聞きすぎてノイローゼにでもなったのかな、アハハ」
「そうですか……きっと生徒さんから信頼される、いい先生だったのでしょうね」
 私は顔も知らない前任の先生に思いを馳せた。
「ちょっとおせっかいが過ぎたんです」
「おせっかいですか?」
「あ、いや、そういう感じの先生だったんですよ……では、保健室を案内しましょうか」
「案内は私がしますよ……校長は忙しいので、今日はこれで失礼させて頂きます」
「わかりました、二学期からよろしくお願いします」
 私は思いっきり営業スマイルを浮かべた。
「生徒と保護者の健康を守るため、一緒に頑張りましょう」
 校長もそんな私に合わせるかのように、にこりと笑った。

 二階にある校長室を出て一階にある保健室に移動する時、廊下の影の部分に一人の生徒がいることに気がついた。
 きっと補習授業を受けに来たのだろう。私より背が低く、華奢な雰囲気の男子生徒だった。
 存在感が薄いのが、逆に気になった。
「ここです、暑いのでエアコンを入れてあります」
 案内された保健室の開けられた扉から、冷えた空気が流れてくる。
「お気遣い頂きありがとうございます……本当に、毎日暑くて嫌になりますね」
 私は口を動かしながら、保健室の中を見回した。
 机にはノートパソコンが一台置いてある。カーテンの向こうには、白いシーツがかけられたベッドが2台。
 かすかに消毒液の匂いが漂うような、清潔感のある、よくある学校の保健室そのものだった。
「パソコンのキーワードは、二学期に先生が正式に着任してから伝えます」
「はい、わかりました」
「なにか聞きたいことなどありますか?」
「この袖机、新品なんですね」
 いかにも使い古された色の机にセッティングされた、真っ白なキャビネットが妙に浮いて見えた。
 近づいてよく見ると、よくある鍵のかかるタイプのものだ。
「ええ、新しい先生の為にね、袖机くらいは新しいものにしようかっていう話になりまして」
「そうなんですか、お気遣いありがとうございます……ところで、前任の先生からなにか引き継ぎとかありませんか? 生徒さんからとても信頼されていたようですから、なにかあるのではないかと思ったんですけれど」
「いや、特に聞いていないですね」
 そうなのか……というかこの教頭、前任の先生とちゃんと話をしたんだろうか? それともそれすらできないほど急に具合が悪くなってしまったのだろうか?
 私は教頭に促されて、生徒用ではない玄関に向かった。
 あの存在感の薄い男子生徒の姿が、再び視線の端に入る。
「さようなら、暑いから気をつけてね」
 私はすれ違いざま、物陰にいる彼に小さな声でそう告げた。
「今、なにか言いましたか?」
「いいえ、なにも……今日は補習授業が?」
「うちは夏休みの間、補習授業はしていないんですよ……もし生徒がいたとしたら、部活動かなにかじゃないですか?」
 なるほど、では彼はどこかの文化部に所属しているのだな……気に留めておこう。
 私は玄関先で教頭に頭を下げ、傘立てに置いていた日傘を手に取った。
 その傘立ての横に、古びたビニール傘が十本ほど白いビニールテープで括られている。
「置き傘、ですか」
「そうなんですよ、きっと帰りに雨が上がってると持ち帰るのを忘れてしまうんでしょうね。処分しないとどんどん増えてしまって……じゃあ、また始業式の日に」
「はい、失礼します」
 括られているビニール傘の中に、一本だけ婦人ものの傘があった。
 保護者か、女性教諭の忘れ物か。
 ビニール傘とて、一度は誰かの手に取られその人の役にたっただろうに。だが、それでも忘れられてしまうのだ。必要ではないと判断された時点で。
 まだ高い夏の陽射しの中、私は少しだけ虚しさを抱えながら歩いたのだった。
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