遠くのあなたを掴みたい

鹿嶋 雲丹

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第15話 林先生と契約を交わす陽君

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 もう一つの大口案件取引相手である林先生から声をかけられたのは、一年生の時だ。
 季節は、冬に入ったばかりの頃だった。
『私は男性として産まれましたが心は女性です。それを隠す気はまったくありません。どんな些細なことでもいいです。苦しさを感じたら、私でも誰でもいいので頼ってください。私は保健室の先生が見つかるまでは常駐していますが、本来はカウンセラーです』
 背の高い、すらりとした美人の先生。
 去年の九月……僕が一年時の二学期からやってきた保健室の先生は、全校生徒が集められた体育館での自己紹介でそう言ったのだ。
 ただでさえ新しい先生は見た目がよくてざわついていたのに、さらなるどよめきでうるさいくらいになった。
 僕にとっては、新しい先生の見た目や性別なんてどうでも良かった。
 それより気になったのは、この先生の『目立たないはずの存在にさえも気がつく力』だった。
 性別なんてのは、このご時世だ、もはやなんでもありだろ。
 女子は保健室に行きにくくなったかもしれないけど、体と心の性別の違いに戸惑っている生徒がいたら、先生はこの上なく頼りになる。
 先生に、なぜ僕は女子から敬遠されるんでしょうか? って訊いてみようかな。
 そうしたら、いったいどんな答えが返ってくるだろう?
 ちらりと頭の隅に湧いた、僕のふざけた願いが叶う日は来なかった。
 林先生が、予想外に女子生徒からも男子生徒からも人気者になってしまったからだ。
 原因はおそらく、カラッとした性格が滲み出ているのと美人だから、だろう。
 いいよな、面がいいってのはよ。
『あら、こんなところで密談?』
 そのいい面が、田口先生と僕の前に現れた。
 九月の末に行われた文化祭から、二ヶ月が過ぎた頃だ。
 場所は、二週間おきに田口先生に定期連絡をしていた図書館のベンチだった。
『は、林先生、密談なんてそんな……僕はたまたま村上君を見かけたから、声をかけただけですよ』
 田口先生、相変わらず嘘つくの下手だな。ほら、林先生笑っちゃってるじゃん。
『じゃあ、田口先生さようなら。またね』
 僕は早々に田口先生をこの場から去らせる判断を下した。
 定期連絡で伝えるような情報はなかったし、僕が林先生と二人で話をしたかったからだった。
『うん、もう暗いから気をつけて帰るんだよ、さようなら』
 こっちをちらりと見てくる田口先生の視線を無視して、僕はいつも通りにこりともせずに、足早に去っていく田口先生の背を見送った。
『これで落ち着いて話ができますね、どうぞ』
『君は私と話をしたかったの? 村上君?』
 林先生は間を開けもせず、僕のま横に座った。
『先生は人気者だからね……僕はなかなか保健室に行く用事もないし』
『私の観察期間は終わったのかしら?』
 さすが林先生だ……バレてたか。
『まあね……夏休み中だったあの時、先生に声をかけられたのは僕も驚いたよ』
『私は職業柄、人の気配には敏感なのよ』
 職業柄? いや、違うだろ? まさか自分で気づいてないとかないよな?
『僕は生まれつき存在感が薄いんだ。そんな僕が気配を消して物陰にいたのに気がつくなんて、職業云々の問題じゃないよね』
『そうだね……思いつく理由があるとすれば、私がかつて自分なんか消えてしまえばいいと思っていたから……かな?』
 消えてしまえばいい……か……
 僕は小さく折りたたんだカラー刷りのチラシをポケットから取り出して、林先生に渡した。
『三年前、うちの学校の保護者……母親が一人行方不明になってるんだ……先生、知ってた?』
『いいえ……知らなかったわ』
『それ、当時町中で配られてたビラなんだ。生徒は当時二年生、時期は夏、天候は雨だった』
 行方不明の母親の情報が、山盛り掲載されているビラ。
 林先生は、それらのどこかに引っかかりを覚えるんじゃないか? 
 そんな憶測が当たっているかどうかを確認するために、僕はちらりと先生を盗み見た。
 先生の視線は、ある一点で数秒止まっていた。
 やっぱり……さすが林先生、アレに気がついたんだな。
『どこまで掴んでるの?』
 林先生は、ビラを元のように折りたたんで僕に返してきた。
『教頭が、成績の足りない生徒の母親を、女として校長に斡旋してるところまで』
『なるほど……それで、田口先生と情報を共有してるってわけね』
『田口先生は依頼主でもあるんだ。僕は生徒側の視点から気づいた事があれば報告して、先生が気づいたことは教えてもらう……それに田口先生は、教頭の毒を少し食らってるしね。ちなみに情報のことだけど、全部は共有していないよ……僕がこの件を気にしてることは、田口先生には言ってないから……でも、田口先生はこの事件が起きた当時うちの学校にいたから、話せば思い出すだろうけどね』
『あの傘……持ち手が珍しいキャラクターのデザインだったからよく覚えてるわ……もう、ビニール傘と一緒に捨てられてしまったでしょうね』
『あのデザインの傘、今はもう売られていないんだ。かといって、絶対にそうだという確証はない。僕が現物あれを盗んでしまったら、足がつく可能性がある……無駄に疑われたくないんだ、まだ』
『いつ、本気を出すの?』
『来年。ちょっと気になってる保護者がいるから』
『私も田口先生みたいに、村上君の雇い主になれるのかしら』
 しめた。
 正直、情報源として考えると、田口先生はかなり頼りない。保健室の先生であり、気配に敏感な林先生の方がまだ期待できる。
『田口先生からは報酬をもらってるんだけど、林先生からはいらないよ。情報をギブテクってことで』
『それは田口先生も一緒でしょ? 彼は村上君になにを渡しているの?』
『金目のない、僕が単純に興味のある情報だよ……で、林先生はどうする?』
『わかったわ、でも一つ条件がある。私にも、田口先生と同じ報酬を要求して。フェアじゃないから』
 いらないって言ってるのに、わざわざ報酬を払いたいわけ? まあ、いいけど。
『先生、歳いくつ?』
『四十五よ』
『ふぅん……さすが、そうは見えないね……田口先生より少し歳上くらいかと思ってたよ。で、結婚しているの? 指輪はしていないみたいだけど、単純に指輪が嫌いな人もいるからね』
『今は恋人募集中よ……勿論、男性のね』
『よし、じゃあ決まりだ。先生の希望通り、田口先生と同じ報酬を要求する。定期連絡の時、毎回僕に恋人ができたかを教えて』
 林先生はにこりと笑った。
『いい趣味してるわね、村上君。田口先生は気の毒だけど』
『田口先生にはプレッシャーを与えるくらいしないと、危機感もなにも抱かずに一生あのままだろ……もったいないじゃん。あの先生、いい人だからさ』
 林先生は、スッと立ち上がった。
『いいのは趣味だけじゃないのね……じゃあ、契約成立で……私との定期連絡は田口先生と同じ二週間おきでいいかしら? 時間は彼より少し早めで』
 なるほど……林先生は僕が田口先生とここで会ってる頻度まで知っているのか。僕達はお互いに観察し合ってたってわけだ。
『わかった。それで行こう』
 僕からの返事を聞いた林先生は、笑って頷くと出入口に向かった。
 図書館の閉館を告げる放送の中、颯爽と歩く林先生の後ろ姿は格好良く見える。
 スタイルのいい人が姿勢よく歩くのは……いい。僕の場合はスタイルからしてダメだからな……
 僕は手にしていた文庫本をリュックに詰め込みながら、己にダメ出しをする自分に少し鬱陶しさを感じていた。
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