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その童貞は返却可能か否か
第1話
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「俺、童貞なんだよね」
ぽそりと落とされた爆弾に澪は目を瞠った。
大学の仲間内の飲み会の場、騒がしい居酒屋の片隅で突然この男は何を告白しているのだろう、と。
◆
バイト終わりで飲み会に駆け付けた澪は三々五々に盛り上がりを見せる座敷席の壁際で、空腹に耐え切れず飲食に勤しんでいた。手を付けずに放置されているおつまみを黙々と胃に収め、酔わない程度にピーチサワーを流し込む。友人たちの輪の中に飛び込む前にバイトで疲れた身体に気力と体力を補いたかった。
そんな折、澪の視界に影が落ちた。ちらりと流した横目に映ったのは雫の滴るグラスとそれを持つ長い指。
「こんばんは、羽島さん」
そう言ってぺちゃんこの座布団に腰を落としたのは八重仁基だった。
「隣いい?」
もう座っているくせに今更尋ねてくる。澪は口内のポテトを咀嚼しながら頷くことで返事をした。
「めっちゃ食ってるね」
「うん、バイト先から直行したからお腹空いてて」
ごくりと嚥下して答えると八重は「お疲れ様」と微笑んだ。しかし澪はそれに対して曖昧に「うん」としか返せない。
だって彼とは別段親しくないから。
澪の知る八重仁基という男は率先して輪の中心に立ったり、声を張り上げて仲間を呼び集めるようなタイプではない。常に一歩引いていて輪を外から見ている、でも気付けばちゃんといるようなそんな感じ。
外見も目が隠れるほどではないけれど短くもない黒髪に、どこか隔たりを感じさせる銀縁の眼鏡を掛けていて、派手さもなく大人しい印象を受ける。
実際に仲間内で集まっているときにも澪と八重が熱心に言葉を交わすようなことはなく、せいぜい相槌を打ったり笑い合ったりするくらいで友達の友達といった距離感だった。
だから周囲に誰もいないこのタイミングで隣にやってくることに内心で驚いていた。
「バイトって何してるの?」
「飲食系だよ。八重くんはバイトは?」
「俺もしてる。楽器屋で週四」
「え、そうなんだ」
理知的な眼鏡に引きずられてか、書店員辺りが似合いそうだなと思いかけたところで意外な答えを返されてまたも驚かされる。
「もしかして楽器弾けたりする?」
「中学からキーボードやってるよ」
そうなんだ、と呟きながら彼の長い指を見る。白くすらっとした指は繊細そうで鍵盤を叩く姿は様になるに違いない。
「どんな曲を弾くの?」
「好きだなと思ったら何でも。クラシックでもJ-POPでもアニソンでも」
「へぇぇ、すごいね」
心の底から感心の声が漏れた。小学校でリコーダーを吹いて以来、楽器に触れたことのない澪には遠い世界の話だ。
仄かな興味が沸き起こった。
周囲の喧騒から取り残された座敷席の片隅で、八重がぽつりぽつりと落とす話を肴に澪は空腹を満たしていく。それは存外心地良く、さほど親しくない間柄を忘れさせるような時間だった。
ピーチサワーのグラスが空になり、箸をぱちりと下ろしたとき、唐突にそれは投下された。
「俺、童貞なんだよね」
周囲には聞こえないけれど澪には届く程度の音量で、ぽそりと放たれた謎の言葉。その双眸はしっかりと澪を捉えていた。
(……は?)
目の前のこの男は何を言っているんだろう。
本来、堂々と明かすべきではないだろう事情を、この騒がしい居酒屋の一室で、よりによって関係の薄い自分に向けて。
全く意味がわからなかった。
「そ、そうなんだ……」
「うん」
爆弾投下した張本人はけろっとしていて、澪の方が戸惑ってしまった。
八重は目立つ印象ではないけれど、整った顔をしているように思う。眼鏡の奥の切れ長な瞳と、すっと通った鼻筋。細身の身体にシャープな顎のラインは、言われてみれば芸術家タイプかもしれない。
童貞か経験済みかを問われたら後者を選んでしまいそうなくらいにはこなれた雰囲気を醸しているので明かされた内容にも驚きはあるのだが、やはり打ち明けられたという事実そのものが受け入れがたい。
「だからしたいんだよね」
「……なにを?」
「セックス」
しかし彼の爆撃は一度に留まらなかった。
澪はぎょっとして周囲に視線を泳がせる。幸い、友人たちは好き好きに盛り上がっていて片隅に残された二人のことなど気にも留めていない。だからと言って平然と話せるほど澪は豪胆ではなく。自然と八重に顔を寄せる形になって小声で窘めた。
「そ、そういうことはあんまり公の場で言わない方が」
「だからさ、羽島さん」
「え?」
「俺とセックスしない?」
息の掛かる距離で八重はふっと笑って、そう囁いた。
ぽそりと落とされた爆弾に澪は目を瞠った。
大学の仲間内の飲み会の場、騒がしい居酒屋の片隅で突然この男は何を告白しているのだろう、と。
◆
バイト終わりで飲み会に駆け付けた澪は三々五々に盛り上がりを見せる座敷席の壁際で、空腹に耐え切れず飲食に勤しんでいた。手を付けずに放置されているおつまみを黙々と胃に収め、酔わない程度にピーチサワーを流し込む。友人たちの輪の中に飛び込む前にバイトで疲れた身体に気力と体力を補いたかった。
そんな折、澪の視界に影が落ちた。ちらりと流した横目に映ったのは雫の滴るグラスとそれを持つ長い指。
「こんばんは、羽島さん」
そう言ってぺちゃんこの座布団に腰を落としたのは八重仁基だった。
「隣いい?」
もう座っているくせに今更尋ねてくる。澪は口内のポテトを咀嚼しながら頷くことで返事をした。
「めっちゃ食ってるね」
「うん、バイト先から直行したからお腹空いてて」
ごくりと嚥下して答えると八重は「お疲れ様」と微笑んだ。しかし澪はそれに対して曖昧に「うん」としか返せない。
だって彼とは別段親しくないから。
澪の知る八重仁基という男は率先して輪の中心に立ったり、声を張り上げて仲間を呼び集めるようなタイプではない。常に一歩引いていて輪を外から見ている、でも気付けばちゃんといるようなそんな感じ。
外見も目が隠れるほどではないけれど短くもない黒髪に、どこか隔たりを感じさせる銀縁の眼鏡を掛けていて、派手さもなく大人しい印象を受ける。
実際に仲間内で集まっているときにも澪と八重が熱心に言葉を交わすようなことはなく、せいぜい相槌を打ったり笑い合ったりするくらいで友達の友達といった距離感だった。
だから周囲に誰もいないこのタイミングで隣にやってくることに内心で驚いていた。
「バイトって何してるの?」
「飲食系だよ。八重くんはバイトは?」
「俺もしてる。楽器屋で週四」
「え、そうなんだ」
理知的な眼鏡に引きずられてか、書店員辺りが似合いそうだなと思いかけたところで意外な答えを返されてまたも驚かされる。
「もしかして楽器弾けたりする?」
「中学からキーボードやってるよ」
そうなんだ、と呟きながら彼の長い指を見る。白くすらっとした指は繊細そうで鍵盤を叩く姿は様になるに違いない。
「どんな曲を弾くの?」
「好きだなと思ったら何でも。クラシックでもJ-POPでもアニソンでも」
「へぇぇ、すごいね」
心の底から感心の声が漏れた。小学校でリコーダーを吹いて以来、楽器に触れたことのない澪には遠い世界の話だ。
仄かな興味が沸き起こった。
周囲の喧騒から取り残された座敷席の片隅で、八重がぽつりぽつりと落とす話を肴に澪は空腹を満たしていく。それは存外心地良く、さほど親しくない間柄を忘れさせるような時間だった。
ピーチサワーのグラスが空になり、箸をぱちりと下ろしたとき、唐突にそれは投下された。
「俺、童貞なんだよね」
周囲には聞こえないけれど澪には届く程度の音量で、ぽそりと放たれた謎の言葉。その双眸はしっかりと澪を捉えていた。
(……は?)
目の前のこの男は何を言っているんだろう。
本来、堂々と明かすべきではないだろう事情を、この騒がしい居酒屋の一室で、よりによって関係の薄い自分に向けて。
全く意味がわからなかった。
「そ、そうなんだ……」
「うん」
爆弾投下した張本人はけろっとしていて、澪の方が戸惑ってしまった。
八重は目立つ印象ではないけれど、整った顔をしているように思う。眼鏡の奥の切れ長な瞳と、すっと通った鼻筋。細身の身体にシャープな顎のラインは、言われてみれば芸術家タイプかもしれない。
童貞か経験済みかを問われたら後者を選んでしまいそうなくらいにはこなれた雰囲気を醸しているので明かされた内容にも驚きはあるのだが、やはり打ち明けられたという事実そのものが受け入れがたい。
「だからしたいんだよね」
「……なにを?」
「セックス」
しかし彼の爆撃は一度に留まらなかった。
澪はぎょっとして周囲に視線を泳がせる。幸い、友人たちは好き好きに盛り上がっていて片隅に残された二人のことなど気にも留めていない。だからと言って平然と話せるほど澪は豪胆ではなく。自然と八重に顔を寄せる形になって小声で窘めた。
「そ、そういうことはあんまり公の場で言わない方が」
「だからさ、羽島さん」
「え?」
「俺とセックスしない?」
息の掛かる距離で八重はふっと笑って、そう囁いた。
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