冷酷宰相様のわかりにくい溺愛~役立たずと虐められ、権力者へのハニトラ要員にされましたが、すっかり気に入られてしまったようです~

小達出みかん

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いつかあいつに天罰が下りますように

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 バートの部屋から出て厨房に戻ると、皆ヘンリエッタを避けるようにして歩いている。好奇心と同情の混ざった視線を感じる。何が起きたか、皆知っているのだ。けれど誰も助けてくれるどころか、そのことに触れもしない。腫物にさわるような態度で洗濯籠を持たされて、ヘンリエッタは打たれて痛むお尻を我慢しながら、一人庭へ向かった。
(ああ、またあざになっちゃったかな)
 お尻を叩かれるのはこれが初めてではない。バートの虫の居所が悪かったり、『そういう気分』だった時は遠慮なくやられる。だからあざが治りきらずに、ヘンリエッタのお尻も手も、常に痛みが上書きされていく。
 座るたびに痛みが走るので、否が応でも、一日に何度もバートの顔を思い出すことになる。
 何度もあの顔を思い浮かべるたびに、心の中まで踏み荒らされて、消えない泥がしみついていくような気がする。しかしヘンリエッタは、その泥が広がる前にぎゅっと拳を握った。
(――殺してやりたい)
 そうできればいいのに。でも、今のヘンリエッタにはできない。だから手を合わせて祈る。
(神様、いつかあの男に天罰が下りますように)
組み合わせた手を開いて、ヘンリエッタは重たいため息をついた。若い娘のものとは思えない、深いあきらめの混じった、まるで老人のようなため息だった。
――長年虐待され続けて、ヘンリエッタは心の中にくすぶる怒りも恨みも、うまく押し込む術を身に着けていた。とにかく手を動かして、食べ物にありつかないといけないからだ。
(……いけない。さぼってると思われちゃう。早く仕事に戻ろう)
 この屋敷の事実上の権力者、バートの母である未亡人デリラは、ヘンリエッタが仕事をさぼっているとみなせば容赦なく食事を抜く。
(あの人、今日は出かけているけど――そろそろ帰ってくる時刻だし)
気を抜くわけにはいかない。ヘンリエッタは手を動かして家畜にえさをやり、洗濯籠を抱えて裏の戸口から出た。この屋敷は、城下町の一角にあり、どの戸口から出てもいかめしい石造りのお屋敷の塀ばかりだった。ヘンリエッタはひとりもくもくと、お店の集まる城の近くを目指して歩き出した。
(働くのは好き――だって、ちゃんと役に立っているってことだもの)
 ヘンリエッタが餌をあげるから、家畜たちは飢えないですむ。ヘンリエッタが洗濯物を取りにいくから、みんなが洗濯済みの服に袖を通せる。
 たとえ誰も感謝してくれなくても、行った仕事は事実として残る。
(私は、のろまなクズなんかじゃない……ないんだから)
だからヘンリエッタは、毎日休まず働き続けていた。そして街中の街頭にふと目を止め、その下で立ち止まった。
(でも、働くより好きな事は――)
すると、うにゃんと声がして、ヘンリエッタの足元に、痩せた子猫がまとわりついた。
 今日初めて、ヘンリエッタは微笑んだ。
「よかった、待っててくれたのね。遅くなってごめん」
 ヘンリエッタはしゃがんで、隠しておいた家畜の残りの餌を、そっと出して子猫にやった。餌を食べ終えると、子猫は小さな体でヘンリエッタの膝の上によじ登る。子猫が頭をヘンリエッタの膝小僧にこすりつける。小さくて柔らかな、命の感触。
「よしよし……いい子ね、きみはいい子」
 そう言いながら、ヘンリエッタは子猫の頭を撫でた。
 家畜の餌の残りをこうしてあげている事がバレれば、もちろんヘンリエッタはきつい罰を受けるだろう。けれど、ヘンリエッタはこの行為を止めることはできなかった。
「ごめんね、これだけで。もっとたくさんあればいいのだけど」
 この時間だけが唯一、ヘンリエッタが身の上の事を忘れて微笑むことができる時間だったからだ。
(この子にやさしくすると――餌をあげると――その時だけでも、なんだかほっとする)
 自分より小さくか弱いものに愛情を注いでいると、不思議とその瞬間だけは、つらい事を忘れ満ち足りた気持ちになれるのだった。
自分に与えられる事のなかった優しさを、他者に与えることによって生じる、小さい心の平安。
未来に夢を見れないヘンリエッタは、必死にその片鱗を抱きしめて、なんとか今を生きていた。
(君がいて、よかった……)
 そっと子猫に頬を寄せたその時。ぴゃっと白い子猫はヘンリエッタの膝から飛び出した。
「うにゃあん!」
 びっくりしたような声を上げ、子猫が走っていく。
「あっ……まって、どうしたの」
 こんな事は初めてで、心配になったヘンリエッタは思わず子猫を追った。子猫は通りを渡って、建物と建物のうらびれた隙間へと入り込む。
(あ、やだ……ここ、良くない場所だ)
 酒場に娼館がつらなる通りだった。まずいと思ったヘンリエッタは引き返したかったが、子猫の安否が気になった。薄暗いその通りに目を走らせると――子猫は壁際でぴたりと動きを止めていた。
(――危ない。この路地から出してあげないと)
 止まっているすきに抱き上げてしまおうと、ヘンリエッタは子猫に寄っていった。すると、子猫の後ろに、何か金色のものが落ちているのを見つけた。
(これ――懐中時計? 貴重品じゃない)
 ヘンリエッタはそれを拾い上げて顔を上げた。そして、子猫の視線の先にあるものに気が付いて、びくっと驚いた。
(あ……男の人? 倒れてる……?)
 壁にもたれて、死んだように目を閉じ座っている男性がいた。バートよりもずっと年上の、大人の男性だった。
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