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第八話
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その日の朝、エリアンはいつものように夜明けと共に跳ね起き、中庭へと駆け出した。
まだひんやりとした朝霧が立ち込める中、黒い土の上にしゃがみ込み、数日前に植えた苗の状態を一つずつ確認していく。
指先に触れる土は、地下を通る火山の脈動を受けて、生き物のように温かい。
「あ……」
エリアンの唇から、感嘆の吐息が漏れた。
幾重にも重なった黒い灰の隙間から、たった一輪、鮮やかな朱色の花が顔を出していた。
それは彼が「火喰い鳥の羽草」と名付けた、過酷な熱帯域にのみ自生する珍しい薬草だった。細長い花弁は、まるで今にも羽ばたきそうな鳥の羽のように繊細に波打っている。
「咲いてくれたんですね。……おはよう、お利口さん」
エリアンは愛おしげにその花を指先でなぞった。
実家の冷たい屋根裏部屋では、どれだけ手を尽くしても花が咲くことはなかった。太陽の光すら十分に届かない場所で、彼はただ植物が枯れていくのを見守ることしかできなかったのだ。
けれど今、この「死の山」と呼ばれた場所で、自分の手が命を繋ぎ止めた。
胸の奥に、じわりと温かい何かが広がっていく。
「エリアン様、朝早くからお元気ですこと」
後ろを振り返ると、マリスが手際よく並べたティーセットと共に立っていた。
彼女の腕には、エリアンが昨日教えた「冷感リネン」がしっかりと巻かれている。
「マリス様、見てください! 花が咲いたんです」
「おや、まあ。……この不毛の地で、これほど美しい色が拝めるとは思いませんでしたわ」
マリスは眼鏡の奥の瞳を和らげ、エリアンの隣に膝をついた。
彼女が差し出したのは、香ばしく焼き上げられたスコーンと、昨日エリアンが図書室で見つけた古いレシピを元に彼女が再現した「白山羊のミルクティー」だ。
「陛下にも、このお花を見せてあげたいですね。……あ、でも、陛下はお忙しいでしょうか」
「さあ、どうでしょうね。近頃の陛下は、以前よりも早く執務を切り上げられることが増えたようですし」
マリスは意味深に微笑むと、エリアンの髪についた小さな灰を優しく払った。
――その直後のことだった。
中庭へと通じる石造りの大階段を、重厚な靴音が踏み鳴らした。
「……騒がしいな」
現れたのは、上質な黒の軍服に身を包んだヴァレリウスだった。
彼の纏う熱量は、朝の涼気を一瞬で塗り替えるほどに強烈だ。しかし、その顔に昨日のような険しさはなく、どこか所在なげに視線を彷徨わせている。
「陛下! 見てください、花が咲きました!」
エリアンは満面の笑みでヴァレリウスを手招きした。
皇帝がこんな泥だらけの場所に降りてくるはずがない、とマリスは一瞬身構えたが、ヴァレリウスは躊躇うことなく土の上に足を踏み入れた。
「……これが、お前の言っていた草か」
ヴァレリウスは大きな体を折り曲げ、エリアンの隣に腰を下ろした。
二人の肩が触れ合うほどの距離。
エリアンは、ヴァレリウスの体から放たれる熱が、朝の風に混じって心地よく感じられることに驚いていた。それは暴力的な熱ではなく、どこか守られているような安心感を伴う温度だった。
「はい。この花は夜になると微かに発光して、周囲の魔力を浄化してくれるんです。陛下、少しだけ手をかざしてみてください」
ヴァレリウスは言われるがまま、朱色の花弁に大きな掌を近づけた。
その瞬間、花が震えるように光を放ち、ヴァレリウスの指先から溢れ出ていた過剰な熱を、しなやかに吸い取っていく。
「……熱が、吸い込まれていく。妙な感覚だ」
「この子は熱が好物なんです。陛下がここにいてくださるだけで、この花はもっと元気に育ちますよ」
エリアンは楽しそうに笑いながら、ヴァレリウスの顔を覗き込んだ。
皇帝は、自分が「誰かの役に立っている」という事実に戸惑っているようだった。彼はこれまで、その強すぎる力ゆえに、触れるものすべてを焼き尽くし、遠ざけて生きてきたのだ。
「私がいれば、育つと言うのか」
「もちろんです! 陛下は、この庭にとって最高の日輪(ひのわ)ですから」
屈託のないその言葉が、ヴァレリウスの胸の深くに、真っ直ぐに突き刺さった。
彼は言葉を失い、ただじっとエリアンの横顔を見つめた。
朝日に透ける銀色の髪。土で汚れた小さな鼻先。そして、自分を畏れることなく、対等な「人間」として見つめてくる若草色の瞳。
「……お前は、本当に」
ヴァレリウスが何かを言いかけた時、遠くからゼフィールの茶化すような声が響いた。
「おやおや、陛下。また朝から庭園デートですか? 演習の開始時間を一時間も過ぎていますが」
ゼフィールが階段の上からひらひらと手を振っている。
ヴァレリウスは瞬時に不機嫌そうな表情に戻り、勢いよく立ち上がった。
「……余計な世話だ。今行く」
彼は一度だけエリアンに視線を戻すと、ぶっきらぼうに付け加えた。
「……今夜も、あのハーブ水を用意しておけ。昨日の実が、まだ足りなかった」
「はい、陛下! たくさん用意してお待ちしています」
エリアンが元気に返事をするのを聞き届け、ヴァレリウスは大股で階段を上がっていった。
その後ろ姿を見送りながら、エリアンはふふ、と喉を鳴らす。
「マリス様、陛下はきっとイチゴがお好きなんですね」
「……ええ、きっと左様でしょうね。あるいは、その水を運んでくる『誰かさん』のことが、お気に召したのかもしれませんわ」
マリスの言葉の意味を測りかね、エリアンは不思議そうに首を傾げた。
けれど、自分の植えた花が、あの不器用な皇帝の心を少しだけ穏やかにしたのだとしたら。
それは、どんな高価な報酬よりも、エリアンの心を弾ませる出来事だった。
朝の光を浴びて、朱色の花はさらに輝きを増していく。
二人の間に流れる空気は、火山の熱を孕みながらも、春の訪れのような優しさに満ちていた。
まだひんやりとした朝霧が立ち込める中、黒い土の上にしゃがみ込み、数日前に植えた苗の状態を一つずつ確認していく。
指先に触れる土は、地下を通る火山の脈動を受けて、生き物のように温かい。
「あ……」
エリアンの唇から、感嘆の吐息が漏れた。
幾重にも重なった黒い灰の隙間から、たった一輪、鮮やかな朱色の花が顔を出していた。
それは彼が「火喰い鳥の羽草」と名付けた、過酷な熱帯域にのみ自生する珍しい薬草だった。細長い花弁は、まるで今にも羽ばたきそうな鳥の羽のように繊細に波打っている。
「咲いてくれたんですね。……おはよう、お利口さん」
エリアンは愛おしげにその花を指先でなぞった。
実家の冷たい屋根裏部屋では、どれだけ手を尽くしても花が咲くことはなかった。太陽の光すら十分に届かない場所で、彼はただ植物が枯れていくのを見守ることしかできなかったのだ。
けれど今、この「死の山」と呼ばれた場所で、自分の手が命を繋ぎ止めた。
胸の奥に、じわりと温かい何かが広がっていく。
「エリアン様、朝早くからお元気ですこと」
後ろを振り返ると、マリスが手際よく並べたティーセットと共に立っていた。
彼女の腕には、エリアンが昨日教えた「冷感リネン」がしっかりと巻かれている。
「マリス様、見てください! 花が咲いたんです」
「おや、まあ。……この不毛の地で、これほど美しい色が拝めるとは思いませんでしたわ」
マリスは眼鏡の奥の瞳を和らげ、エリアンの隣に膝をついた。
彼女が差し出したのは、香ばしく焼き上げられたスコーンと、昨日エリアンが図書室で見つけた古いレシピを元に彼女が再現した「白山羊のミルクティー」だ。
「陛下にも、このお花を見せてあげたいですね。……あ、でも、陛下はお忙しいでしょうか」
「さあ、どうでしょうね。近頃の陛下は、以前よりも早く執務を切り上げられることが増えたようですし」
マリスは意味深に微笑むと、エリアンの髪についた小さな灰を優しく払った。
――その直後のことだった。
中庭へと通じる石造りの大階段を、重厚な靴音が踏み鳴らした。
「……騒がしいな」
現れたのは、上質な黒の軍服に身を包んだヴァレリウスだった。
彼の纏う熱量は、朝の涼気を一瞬で塗り替えるほどに強烈だ。しかし、その顔に昨日のような険しさはなく、どこか所在なげに視線を彷徨わせている。
「陛下! 見てください、花が咲きました!」
エリアンは満面の笑みでヴァレリウスを手招きした。
皇帝がこんな泥だらけの場所に降りてくるはずがない、とマリスは一瞬身構えたが、ヴァレリウスは躊躇うことなく土の上に足を踏み入れた。
「……これが、お前の言っていた草か」
ヴァレリウスは大きな体を折り曲げ、エリアンの隣に腰を下ろした。
二人の肩が触れ合うほどの距離。
エリアンは、ヴァレリウスの体から放たれる熱が、朝の風に混じって心地よく感じられることに驚いていた。それは暴力的な熱ではなく、どこか守られているような安心感を伴う温度だった。
「はい。この花は夜になると微かに発光して、周囲の魔力を浄化してくれるんです。陛下、少しだけ手をかざしてみてください」
ヴァレリウスは言われるがまま、朱色の花弁に大きな掌を近づけた。
その瞬間、花が震えるように光を放ち、ヴァレリウスの指先から溢れ出ていた過剰な熱を、しなやかに吸い取っていく。
「……熱が、吸い込まれていく。妙な感覚だ」
「この子は熱が好物なんです。陛下がここにいてくださるだけで、この花はもっと元気に育ちますよ」
エリアンは楽しそうに笑いながら、ヴァレリウスの顔を覗き込んだ。
皇帝は、自分が「誰かの役に立っている」という事実に戸惑っているようだった。彼はこれまで、その強すぎる力ゆえに、触れるものすべてを焼き尽くし、遠ざけて生きてきたのだ。
「私がいれば、育つと言うのか」
「もちろんです! 陛下は、この庭にとって最高の日輪(ひのわ)ですから」
屈託のないその言葉が、ヴァレリウスの胸の深くに、真っ直ぐに突き刺さった。
彼は言葉を失い、ただじっとエリアンの横顔を見つめた。
朝日に透ける銀色の髪。土で汚れた小さな鼻先。そして、自分を畏れることなく、対等な「人間」として見つめてくる若草色の瞳。
「……お前は、本当に」
ヴァレリウスが何かを言いかけた時、遠くからゼフィールの茶化すような声が響いた。
「おやおや、陛下。また朝から庭園デートですか? 演習の開始時間を一時間も過ぎていますが」
ゼフィールが階段の上からひらひらと手を振っている。
ヴァレリウスは瞬時に不機嫌そうな表情に戻り、勢いよく立ち上がった。
「……余計な世話だ。今行く」
彼は一度だけエリアンに視線を戻すと、ぶっきらぼうに付け加えた。
「……今夜も、あのハーブ水を用意しておけ。昨日の実が、まだ足りなかった」
「はい、陛下! たくさん用意してお待ちしています」
エリアンが元気に返事をするのを聞き届け、ヴァレリウスは大股で階段を上がっていった。
その後ろ姿を見送りながら、エリアンはふふ、と喉を鳴らす。
「マリス様、陛下はきっとイチゴがお好きなんですね」
「……ええ、きっと左様でしょうね。あるいは、その水を運んでくる『誰かさん』のことが、お気に召したのかもしれませんわ」
マリスの言葉の意味を測りかね、エリアンは不思議そうに首を傾げた。
けれど、自分の植えた花が、あの不器用な皇帝の心を少しだけ穏やかにしたのだとしたら。
それは、どんな高価な報酬よりも、エリアンの心を弾ませる出来事だった。
朝の光を浴びて、朱色の花はさらに輝きを増していく。
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