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第十一話
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その日の朝、エリアンはヴァレリウスに連れられ、城の北側に位置する静かな一角へとやってきた。
黒鱗宮の中でも特に風通しが良く、それでいて火山の熱気が直接入り込まない絶妙な場所だ。目の前にある、彫刻の施された重厚な扉を指して、ヴァレリウスが不機嫌そうに喉を鳴らした。
「……開けてみろ」
「はい? ここは確か、古い備品庫だとうかがっていましたが」
エリアンが首を傾げながら扉を押し開けると、そこには想像もしなかった光景が広がっていた。
かつての埃っぽさは微塵もなく、磨き上げられた黒大理石の床が、窓から差し込む陽光を反射して輝いている。壁一面には作り付けの棚が並び、そこには既に、エリアンが愛用していたものよりも数段質の良い乳鉢や、色とりどりの試験管、さらには見たこともないほど透明度の高いガラス瓶が整然と並べられていた。
「わあ……! これは、その、なんですか?」
「見ればわかるだろう。……調合室だ」
ヴァレリウスは腕を組み、横を向いたままぶっきらぼうに答える。
エリアンは吸い寄せられるように部屋の中へ足を踏み入れた。
鼻腔をくすぐるのは、新調された杉の棚の清々しい香りと、どこか懐かしい乾燥ハーブの匂い。中央に置かれた大きな作業机は、エリアンの身長に合わせ、少しだけ低く調整されているようだった。
「私の……。私だけの調合室、ですか?」
「お前が厨房を占拠するせいで、料理長が毎朝泣き言を言いに来る。……迷惑だからな、これからはここで勝手にしろ」
ヴァレリウスの言葉とは裏腹に、部屋の隅々には細やかな配慮が感じられた。
植物の成長を促すための「光熱石」が天井に埋め込まれ、奥には薬草を乾燥させるための風通しの良いスペースまで確保されている。
エリアンは震える指先で、一番近くの棚に置かれた青いガラス瓶に触れた。
ひんやりとした感触が、指先から心地よく伝わってくる。
「陛下、ありがとうございます……! こんなに立派な場所をいただけるなんて。実家では、煮炊きの合間に隅っこを借りるのが精一杯でしたから」
「…………」
ヴァレリウスは無言のまま、エリアンの喜ぶ姿をじっと見つめていた。
エリアンが興奮して棚から棚へと駆け寄るたびに、柔らかな銀髪がふわりと舞う。
その姿を見ていると、ヴァレリウスの胸の奥にある「竜の熱」が、攻撃的な激しさではなく、暖炉の火のような穏やかな温もりへと変わっていくのがわかった。
「……この秤、すごい! 風の魔力が込められていますね。一粒の種よりも軽い重さが測れます」
「お前の作る薬は、分量が狂えばそれこそ毒になる。……手元が狂って私を殺されては困るからな」
そんな軽口を叩きながらも、ヴァレリウスは一歩、また一歩とエリアンに近づいた。
彼が近づくだけで、部屋の温度が二度ほど上がる。エリアンはその熱を自然に受け入れながら、振り返ってヴァレリウスを見上げた。
「大丈夫ですよ。今の私は、陛下を治すのが世界で一番楽しいんです。……毒にするなんて、もったいない」
屈託のない笑顔。
ヴァレリウスは不意に、エリアンの小さな頭に大きな掌を置いた。
熱い。けれど、エリアンはその熱から逃げようとはせず、むしろ猫のように気持ちよさそうに目を細める。
「陛下の手は、いつも温かくていいですね。冬の薬草を温めるのに、ちょうど良さそうです」
「……お前、私は人間湯たんぽではないぞ」
「ふふ、贅沢な湯たんぽです」
その時、廊下から軽快な足音が聞こえ、ゼフィールが顔を出した。
彼は部屋の様子を一瞥すると、楽しそうに指を鳴らした。
「おやおや、やっぱりここでしたか。陛下、仕事の時間ですよ。……お熱いのは外気だけで十分なんですけどね」
「ゼフィール。……後で訓練場の整備を三倍にしておけ」
「ひえっ、厳しい。エリアン君、助けてよ」
ゼフィールが笑いながらエリアンの肩に手を置こうとした瞬間、ヴァレリウスがその腕をむんずと掴んで阻止した。
「……私の伴侶に気安く触れるなと言ったはずだ」
「あいたた! わかりましたよ。陛下、顔が怖い。……エリアン君、新しい道具が欲しくなったら僕に言ってね。陛下に内緒で、こっそり最高のやつを仕入れてあげるから」
ウインクをして去っていくゼフィール。
ヴァレリウスは忌々しげに舌打ちをしたが、エリアンに向けた視線には、もう鋭さはなかった。
「……エリアン。必要なものがあれば、何でもマリスに言え。……お前をここに繋ぎ止めるためなら、金などいくらでも出す」
「繋ぎ止める、だなんて。どこにも行きませんよ。ここは、私の大好きな植物と……。それから、少しだけ面白い陛下がいる場所ですから」
エリアンはそう言って、大切そうに使い込まれた乳鉢を新しい机の上に置いた。
古い道具と、新しい部屋。
それは、エリアンにとってここが本当の「居場所」になりつつある証だった。
ヴァレリウスが仕事に戻った後、エリアンは一人、窓を開けた。
火山の煙が空高く昇っていく。
その荒々しい景色の中に、自分のための城ができたような気がして、エリアンの胸は期待に膨らんだ。
「さて。まずは、陛下の眠りがもっと深くなるような、新しい枕用の香草を試作してみようかな」
エリアンの新しい日々が、この小さな調合室から、ゆっくりと、そして確実に回り始めていた。
黒鱗宮の中でも特に風通しが良く、それでいて火山の熱気が直接入り込まない絶妙な場所だ。目の前にある、彫刻の施された重厚な扉を指して、ヴァレリウスが不機嫌そうに喉を鳴らした。
「……開けてみろ」
「はい? ここは確か、古い備品庫だとうかがっていましたが」
エリアンが首を傾げながら扉を押し開けると、そこには想像もしなかった光景が広がっていた。
かつての埃っぽさは微塵もなく、磨き上げられた黒大理石の床が、窓から差し込む陽光を反射して輝いている。壁一面には作り付けの棚が並び、そこには既に、エリアンが愛用していたものよりも数段質の良い乳鉢や、色とりどりの試験管、さらには見たこともないほど透明度の高いガラス瓶が整然と並べられていた。
「わあ……! これは、その、なんですか?」
「見ればわかるだろう。……調合室だ」
ヴァレリウスは腕を組み、横を向いたままぶっきらぼうに答える。
エリアンは吸い寄せられるように部屋の中へ足を踏み入れた。
鼻腔をくすぐるのは、新調された杉の棚の清々しい香りと、どこか懐かしい乾燥ハーブの匂い。中央に置かれた大きな作業机は、エリアンの身長に合わせ、少しだけ低く調整されているようだった。
「私の……。私だけの調合室、ですか?」
「お前が厨房を占拠するせいで、料理長が毎朝泣き言を言いに来る。……迷惑だからな、これからはここで勝手にしろ」
ヴァレリウスの言葉とは裏腹に、部屋の隅々には細やかな配慮が感じられた。
植物の成長を促すための「光熱石」が天井に埋め込まれ、奥には薬草を乾燥させるための風通しの良いスペースまで確保されている。
エリアンは震える指先で、一番近くの棚に置かれた青いガラス瓶に触れた。
ひんやりとした感触が、指先から心地よく伝わってくる。
「陛下、ありがとうございます……! こんなに立派な場所をいただけるなんて。実家では、煮炊きの合間に隅っこを借りるのが精一杯でしたから」
「…………」
ヴァレリウスは無言のまま、エリアンの喜ぶ姿をじっと見つめていた。
エリアンが興奮して棚から棚へと駆け寄るたびに、柔らかな銀髪がふわりと舞う。
その姿を見ていると、ヴァレリウスの胸の奥にある「竜の熱」が、攻撃的な激しさではなく、暖炉の火のような穏やかな温もりへと変わっていくのがわかった。
「……この秤、すごい! 風の魔力が込められていますね。一粒の種よりも軽い重さが測れます」
「お前の作る薬は、分量が狂えばそれこそ毒になる。……手元が狂って私を殺されては困るからな」
そんな軽口を叩きながらも、ヴァレリウスは一歩、また一歩とエリアンに近づいた。
彼が近づくだけで、部屋の温度が二度ほど上がる。エリアンはその熱を自然に受け入れながら、振り返ってヴァレリウスを見上げた。
「大丈夫ですよ。今の私は、陛下を治すのが世界で一番楽しいんです。……毒にするなんて、もったいない」
屈託のない笑顔。
ヴァレリウスは不意に、エリアンの小さな頭に大きな掌を置いた。
熱い。けれど、エリアンはその熱から逃げようとはせず、むしろ猫のように気持ちよさそうに目を細める。
「陛下の手は、いつも温かくていいですね。冬の薬草を温めるのに、ちょうど良さそうです」
「……お前、私は人間湯たんぽではないぞ」
「ふふ、贅沢な湯たんぽです」
その時、廊下から軽快な足音が聞こえ、ゼフィールが顔を出した。
彼は部屋の様子を一瞥すると、楽しそうに指を鳴らした。
「おやおや、やっぱりここでしたか。陛下、仕事の時間ですよ。……お熱いのは外気だけで十分なんですけどね」
「ゼフィール。……後で訓練場の整備を三倍にしておけ」
「ひえっ、厳しい。エリアン君、助けてよ」
ゼフィールが笑いながらエリアンの肩に手を置こうとした瞬間、ヴァレリウスがその腕をむんずと掴んで阻止した。
「……私の伴侶に気安く触れるなと言ったはずだ」
「あいたた! わかりましたよ。陛下、顔が怖い。……エリアン君、新しい道具が欲しくなったら僕に言ってね。陛下に内緒で、こっそり最高のやつを仕入れてあげるから」
ウインクをして去っていくゼフィール。
ヴァレリウスは忌々しげに舌打ちをしたが、エリアンに向けた視線には、もう鋭さはなかった。
「……エリアン。必要なものがあれば、何でもマリスに言え。……お前をここに繋ぎ止めるためなら、金などいくらでも出す」
「繋ぎ止める、だなんて。どこにも行きませんよ。ここは、私の大好きな植物と……。それから、少しだけ面白い陛下がいる場所ですから」
エリアンはそう言って、大切そうに使い込まれた乳鉢を新しい机の上に置いた。
古い道具と、新しい部屋。
それは、エリアンにとってここが本当の「居場所」になりつつある証だった。
ヴァレリウスが仕事に戻った後、エリアンは一人、窓を開けた。
火山の煙が空高く昇っていく。
その荒々しい景色の中に、自分のための城ができたような気がして、エリアンの胸は期待に膨らんだ。
「さて。まずは、陛下の眠りがもっと深くなるような、新しい枕用の香草を試作してみようかな」
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