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第十八話
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深夜の廊下は、昼間蓄えられた火山の熱が石壁からじわじわと放出され、サウナのような蒸し暑さに包まれている。
エリアンは、普段使っているものより二回りほど大きい、ずっしりと重いガラスのデキャンタを両手に抱えて歩いていた。中には、ヴァレリウスの注文通り、通常の二倍の濃度に調整した特製ハーブ水がたっぷりと満たされている。
「……さすがに、二倍となると重いですね」
エリアンは一度立ち止まり、デキャンタを抱え直した。
中には、鎮静効果の高い『氷晶草』の雫に加えて、リラックス効果のある『夢見の花びら』を隠し味に忍ばせてある。マッサージでほぐれた筋肉を、内側からも完全に休ませるための、エリアンなりの完璧な処方だ。
皇帝の寝室の前に辿り着くと、扉の隙間から、陽炎のような熱気が漏れ出していた。
「陛下。エリアンです。……お約束の、二倍の量を持ってきました」
返事はなかった。けれど、重厚な扉がわずかに開いているのは「入れ」という合図だろう。
エリアンが足を踏み入れると、室内は昼間よりも暗く、窓から差し込む赤い月光が床を怪しく照らしていた。
部屋の中央にある巨大な天蓋付き寝台。その端に、ヴァレリウスは腰掛けていた。
昼間の威厳ある軍服は脱ぎ捨てられ、ゆったりとした漆黒の寝衣を一枚羽織っているだけだ。その胸元は大きく開かれ、夕方のマッサージで塗り込んだ香油の残り香が、彼の高い体温に温められて甘く香っている。
「……本当に、持ってきたのか」
ヴァレリウスの声は、いつもより低く、どこか喉が鳴るような響きを含んでいた。
彼は顔を上げなかった。漆黒の髪がほどかれ、いつもは鋭い彼の横顔を柔らかく隠している。
「もちろんです。陛下が『二倍持ってこい』とおっしゃったのではないですか。はい、どうぞ」
エリアンは重いデキャンタをサイドテーブルに置き、手際よく銀の杯に注ぎ分けた。
カラン、と氷晶石の粉末が溶ける涼やかな音が響く。
「まずは一杯。一気に飲まずに、ゆっくり喉を湿らせてください」
エリアンが杯を差し出すと、ヴァレリウスは迷うように一度だけ指を動かし、それから無造作にその杯を受け取った。
指先が触れ合う。
ヴァレリウスの手は、まだ夕方のマッサージの余熱を残しているかのように熱い。エリアンはその熱を反射的に避けようとせず、むしろヴァレリウスの顔色を伺うように覗き込んだ。
「……陛下? やはり、まだお顔が赤いですよ。熱が引いていないのでしょうか」
「……お前のせいだ」
「えっ、私のせい? ……あ、そうか。香油の配合が少し強すぎたのかもしれませんね。皮膚の血行が良くなりすぎて……」
「そうではない! 貴様、本当に……」
ヴァレリウスは吐き捨てるように言うと、一気にハーブ水を飲み干した。
冷たい液体が喉を通り、胃に落ちていく。その瞬間だけは、体内の猛火が静まるのを感じる。だが、目の前で自分の顔を真剣に心配そうに覗き込んでいる銀髪の青年を視界に入れた途端、再び心臓の鼓動が激しくなるのだ。
「おかわり、いりますか?」
「……いらん。いや、……注げ」
支離滅裂な返事をしながら、ヴァレリウスは杯を突き出した。
エリアンは不思議そうにしながらも、再び丁寧に水を注ぐ。
「陛下。……髪、ほどいている方が素敵ですよ。いつもは少し、怖いですから」
エリアンの何気ない一言が、夜の静寂に落ちた。
ヴァレリウスは杯を持ったまま、固まった。
これまで彼にかけられてきた言葉は、畏怖か、懇願か、あるいは呪詛だった。外見を「素敵だ」などと、それも本人の前で、これほど無防備に告げる者など、この城の二十年間で一人もいなかった。
「……貴様は、私を怖くないのか。この竜の血が、いつお前を焼き尽くすかもわからんのだぞ」
「怖い、ですか? うーん……。最初は少し圧倒されましたけど、今は『大きな、熱を出した大型犬』みたいな感じがしています」
「……大型犬だと?」
「はい。不器用で、本当は優しいのに、熱のせいで上手く表現できないだけなのかなって。……マリスさんも、ゼフィール様も、そう思っているはずですよ」
エリアンはそう言うと、ヴァレリウスの足元に置かれていた予備の枕を手に取り、彼の背中にそっと添えた。
「さあ、飲み終えたら横になってください。二倍の量にしましたから、今夜はいつもより深く眠れるはずです。私も、陛下が眠りにつくまでここにいますから」
「……ここに、いるのか?」
「はい。副作用が出ないか見守るのも、薬師の責任ですから。……あ、お邪魔でしたか?」
首を傾げるエリアン。
ヴァレリウスは、もう言葉を返す気力も失っていた。この青年の「実務的な献身」には、どんな防御も通用しないのだ。
彼は深く溜息をつくと、言われるがままに背後の枕に身を預けた。
「……勝手にしろ。ただし、私が眠るまでは、その……どこにも行くな」
「はい。約束します」
エリアンは床に直接腰を下ろし、サイドテーブルの明かりを少しだけ落とした。
薄暗い部屋の中に、ハーブの香りと、二人の規則正しい呼吸音だけが混ざり合う。
ヴァレリウスは横たわりながら、自分の隣に座り、熱心に薬草のノートを広げ始めたエリアンの後姿を見つめた。
竜の熱。
それは彼を孤独にするための呪いだった。
けれど、今夜のこの熱は、不思議と彼を孤独にはさせなかった。
むしろ、この青年を自分の傍に繋ぎ止めるための、心地よい理由にすら思えてくる。
「…………」
数分後、ヴァレリウスの瞼がゆっくりと落ちていく。
エリアンの調合した『夢見の花びら』の効果が、ついに猛々しい皇帝を、深い眠りの淵へと誘っていった。
エリアンは、ヴァレリウスの寝息が安定したのを確認すると、そっとペンを置いた。
月光に照らされたヴァレリウスの寝顔は、昼間の険しさが嘘のように穏やかで、少しだけ幼くも見えた。
「おやすみなさい、陛下。……明日の朝は、今日よりずっと涼しくなりますように」
エリアンは、ヴァレリウスの額から落ちた一房の黒髪を、指先でそっと避けた。
触れた皮膚はまだ熱かったが、その熱はもう、エリアンを焼くことはなかった。
夜が更けていく。
二人の心根は、火山の深淵で、誰にも気づかれぬよう密やかに絡み合っていた。
エリアンは、普段使っているものより二回りほど大きい、ずっしりと重いガラスのデキャンタを両手に抱えて歩いていた。中には、ヴァレリウスの注文通り、通常の二倍の濃度に調整した特製ハーブ水がたっぷりと満たされている。
「……さすがに、二倍となると重いですね」
エリアンは一度立ち止まり、デキャンタを抱え直した。
中には、鎮静効果の高い『氷晶草』の雫に加えて、リラックス効果のある『夢見の花びら』を隠し味に忍ばせてある。マッサージでほぐれた筋肉を、内側からも完全に休ませるための、エリアンなりの完璧な処方だ。
皇帝の寝室の前に辿り着くと、扉の隙間から、陽炎のような熱気が漏れ出していた。
「陛下。エリアンです。……お約束の、二倍の量を持ってきました」
返事はなかった。けれど、重厚な扉がわずかに開いているのは「入れ」という合図だろう。
エリアンが足を踏み入れると、室内は昼間よりも暗く、窓から差し込む赤い月光が床を怪しく照らしていた。
部屋の中央にある巨大な天蓋付き寝台。その端に、ヴァレリウスは腰掛けていた。
昼間の威厳ある軍服は脱ぎ捨てられ、ゆったりとした漆黒の寝衣を一枚羽織っているだけだ。その胸元は大きく開かれ、夕方のマッサージで塗り込んだ香油の残り香が、彼の高い体温に温められて甘く香っている。
「……本当に、持ってきたのか」
ヴァレリウスの声は、いつもより低く、どこか喉が鳴るような響きを含んでいた。
彼は顔を上げなかった。漆黒の髪がほどかれ、いつもは鋭い彼の横顔を柔らかく隠している。
「もちろんです。陛下が『二倍持ってこい』とおっしゃったのではないですか。はい、どうぞ」
エリアンは重いデキャンタをサイドテーブルに置き、手際よく銀の杯に注ぎ分けた。
カラン、と氷晶石の粉末が溶ける涼やかな音が響く。
「まずは一杯。一気に飲まずに、ゆっくり喉を湿らせてください」
エリアンが杯を差し出すと、ヴァレリウスは迷うように一度だけ指を動かし、それから無造作にその杯を受け取った。
指先が触れ合う。
ヴァレリウスの手は、まだ夕方のマッサージの余熱を残しているかのように熱い。エリアンはその熱を反射的に避けようとせず、むしろヴァレリウスの顔色を伺うように覗き込んだ。
「……陛下? やはり、まだお顔が赤いですよ。熱が引いていないのでしょうか」
「……お前のせいだ」
「えっ、私のせい? ……あ、そうか。香油の配合が少し強すぎたのかもしれませんね。皮膚の血行が良くなりすぎて……」
「そうではない! 貴様、本当に……」
ヴァレリウスは吐き捨てるように言うと、一気にハーブ水を飲み干した。
冷たい液体が喉を通り、胃に落ちていく。その瞬間だけは、体内の猛火が静まるのを感じる。だが、目の前で自分の顔を真剣に心配そうに覗き込んでいる銀髪の青年を視界に入れた途端、再び心臓の鼓動が激しくなるのだ。
「おかわり、いりますか?」
「……いらん。いや、……注げ」
支離滅裂な返事をしながら、ヴァレリウスは杯を突き出した。
エリアンは不思議そうにしながらも、再び丁寧に水を注ぐ。
「陛下。……髪、ほどいている方が素敵ですよ。いつもは少し、怖いですから」
エリアンの何気ない一言が、夜の静寂に落ちた。
ヴァレリウスは杯を持ったまま、固まった。
これまで彼にかけられてきた言葉は、畏怖か、懇願か、あるいは呪詛だった。外見を「素敵だ」などと、それも本人の前で、これほど無防備に告げる者など、この城の二十年間で一人もいなかった。
「……貴様は、私を怖くないのか。この竜の血が、いつお前を焼き尽くすかもわからんのだぞ」
「怖い、ですか? うーん……。最初は少し圧倒されましたけど、今は『大きな、熱を出した大型犬』みたいな感じがしています」
「……大型犬だと?」
「はい。不器用で、本当は優しいのに、熱のせいで上手く表現できないだけなのかなって。……マリスさんも、ゼフィール様も、そう思っているはずですよ」
エリアンはそう言うと、ヴァレリウスの足元に置かれていた予備の枕を手に取り、彼の背中にそっと添えた。
「さあ、飲み終えたら横になってください。二倍の量にしましたから、今夜はいつもより深く眠れるはずです。私も、陛下が眠りにつくまでここにいますから」
「……ここに、いるのか?」
「はい。副作用が出ないか見守るのも、薬師の責任ですから。……あ、お邪魔でしたか?」
首を傾げるエリアン。
ヴァレリウスは、もう言葉を返す気力も失っていた。この青年の「実務的な献身」には、どんな防御も通用しないのだ。
彼は深く溜息をつくと、言われるがままに背後の枕に身を預けた。
「……勝手にしろ。ただし、私が眠るまでは、その……どこにも行くな」
「はい。約束します」
エリアンは床に直接腰を下ろし、サイドテーブルの明かりを少しだけ落とした。
薄暗い部屋の中に、ハーブの香りと、二人の規則正しい呼吸音だけが混ざり合う。
ヴァレリウスは横たわりながら、自分の隣に座り、熱心に薬草のノートを広げ始めたエリアンの後姿を見つめた。
竜の熱。
それは彼を孤独にするための呪いだった。
けれど、今夜のこの熱は、不思議と彼を孤独にはさせなかった。
むしろ、この青年を自分の傍に繋ぎ止めるための、心地よい理由にすら思えてくる。
「…………」
数分後、ヴァレリウスの瞼がゆっくりと落ちていく。
エリアンの調合した『夢見の花びら』の効果が、ついに猛々しい皇帝を、深い眠りの淵へと誘っていった。
エリアンは、ヴァレリウスの寝息が安定したのを確認すると、そっとペンを置いた。
月光に照らされたヴァレリウスの寝顔は、昼間の険しさが嘘のように穏やかで、少しだけ幼くも見えた。
「おやすみなさい、陛下。……明日の朝は、今日よりずっと涼しくなりますように」
エリアンは、ヴァレリウスの額から落ちた一房の黒髪を、指先でそっと避けた。
触れた皮膚はまだ熱かったが、その熱はもう、エリアンを焼くことはなかった。
夜が更けていく。
二人の心根は、火山の深淵で、誰にも気づかれぬよう密やかに絡み合っていた。
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