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第二話
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異世界に来て三日間の殆どを藁ベッドの上で過ごした。何度も目を閉じたり開けたりして、目の前の光景が変わらないか試したが、どうにもならなかった。
四日目からは、丈が短い麻の和服を、帯びじゃなくボタンで留めて、チャックのついたぶかぶかのズボンをよれた革のブーツにインして、三泊した建物の中庭らしき場所に設置された石の台所で、魚を開いて干す作業を身振り手振り教えられた。
その間私は、ここがどことか、なぜこの作業をしなければならないのかとか、言葉が通じない云々関係なく、誰にも聞けなかった。
最初に教えられた食事をするところと、お手洗いと、お風呂と、寝床以外の場所に行くのが怖くて、空風コトリを探すことも出来ず、学校で経験した一人ぼっちなんて比じゃないほどの孤独に震え上がり、言われるがまま手を動かした。
はじめは、魚なんて捌いたことがないため、失敗し続けてものすごく怒鳴られたが、ある種ものすごい集中力を発揮していたからか、一週間もすれば流れるような包丁さばきになった自分を褒めてやりたい。
おかげで知らぬ間に独り立ちして、本格的に中庭に一人取り残されてしまったのだが……。
異世界って何?外国じゃないの?拉致された?空風さんはなんで普通に話が出来るの?帰りたい!夢だよこんなのっ!
静寂の中だと思考も回る。何度魚臭い手で自分の頬を抓り、目を擦って痛みに悶えたことか。
帰りたい帰りたいこれは夢これは夢と念仏のように唱えながら魚を捌き続けること二週間。
ダメだ。なんでかわからないけどここ地球じゃないわ。未知の世界だ。
もうまるっきり異世界でしかない出来事に何度か遭遇した私は、そのたびに驚き、しかし誰にも言葉が通じないため、答えを得ることも出来ず、一人静かに心臓をバクバクさせるしかなくて。
嘆き疲れた。
母さん父さん弟よ。今ならまだ面白おかしく話せるかもしれないから。どうか早めに助けてください。お願い。出来るだけ早く。出来ればでいいから。もう最悪毎日私の帰還を願ってほしい。同じ星は見れないけれど、同じ願いだけでも持ってて欲しい。
私は、もう頑張って帰るというよりも、どうにか救助しておくれという人任せな考えに移行していた。いろいろ考えても苦しいだけで、どうこう出来る気もしない。現実から逃避することも結構疲れる。
夜中急に泣きそうになることはあるが、こうして魚と向き合っているときは、ここで起きた出来事を、家族にどう伝えるか考えたりして、いろいろ紛らわせた。
こんなところは異世界だ。
と感じた出来事。
一つ目。
『こんにちは。ここ置いとくから』
と毎朝魚を持ってきてくれる不愛想なおばさんが爬虫類だ。
行商人か、お手伝いさんか、私の元へ魚を運んでくる三角巾をかぶってエプロンをした恰幅の良いおばさんが、ただのおばさんなときもあれば、お尻の辺りからトカゲのような尻尾を出し、長い舌をピロピロさせて、緑の鱗に覆われた腕のときもある。
初めて半分爬虫類半分おばさん状態を見たときは、腰が抜けた。
失礼なことをしてしまったが、ごく普通の日常を過ごしているだけのおばさんには、私が何で驚いたのかわからなかったはずだ。
ものすごく怪訝な顔をされただけですんだし。
二つ目。
建物はメルヘンだが、建ってる場所が……。
私が寝泊まりしている女子寮は、ものすごく広大な敷地の隅にあるらしく、加工してない木そのものな柱と梁に、藁で編んだ壁と床、屋根は大きな葉っぱが瓦屋根のように重なって出来ている。森の魔女が建てた家っぽいというか、自然を生かした作りになっていた。
同じ敷地内に立つ、渡り廊下で繋がっている本邸や、別邸らしき建物もここと似たような平屋だが、壁の藁の編み方が複雑だったり、屋根の葉っぱの並べ方が鳥の羽のようだったりと、少し凝った造りになっていた。
全体的には日本家屋で、灯や、ガラス窓は洋風だったりする。みんなが着ている服も、和服っぽいかと思いきやレースやチャックやボタンが付いていたりして、和と洋が混じっている。
そういえば、空風コトリを連れて行った美青年や髭のおじさんは、一際豪華な服を着ていたから、ここの主とか、何かしら立場ある人なのかもしれない。
とまあそれは置いといて。置いておいちゃいけないけど置いといて。
私が驚いたのは、いつも作業している正面の生垣にある、裏口と思われる小さな門が開いた瞬間、その先に、地面も道もお隣の建物も何もなくて、いきなり空が見えたことだ。
門が開いてすぐ青空と雲。
ん?と首を傾げた私は、四つん這いでその門の外を覗いてみた。すると、やはり目の前は空しかなくて。下を見ると、生い茂る葉と巨大な枝があった。
地面が見えない。巨大な枝の上に点々と建物の屋根が見えるけれど……地面……ない。
まさか、東京タワー並……は言い過ぎか……通天閣ぐらいある大木の上に居るのだろうか。いや。もう少し大きいの?京都タワー?いやいやそんなのどうでもいい。ん?もしかしたら不思議の国的な感じで、私の体が小さくなったの?
私は、ぐるぐるよくわからないことを考えながらその場で気絶した。さすがに心臓バクバクや腰が抜けるだけでは済まなかった。
そして夢を見た。
転校したクラスで、隣の席の子に話しかける夢だった。
ああ……私、なんで言葉が通じるのに、何も言えなかったんだろう。前の友達と似た子が居ないかさがしたり、きっかけを待ったり……。
前の学校に居たときも、誘ってもらうのが当たり前だったし……。でもどうすればよかったんだろう。
どうすれば――
気が付くと裏門の前で朝を迎えていた。夢の中で膨らんだ後悔が胸に残ったままの最悪な目覚めだった。
それで、どうにもやるせないというか、夢うつつな半端状態だった私は、朝、魚を運んでくるおばさんに向かって、おばさんがいつも言う言葉を
『こにちゃわ~』
言ってみた。
いつも眉間に皺を寄せているおばさんが驚いた顔でこっちを見た。もちろん私も驚いた。これが三つ目の驚き……こんなところは異世界だっていう話は逸れたけど、いいや。
とにかく私は言ってしまった。何語かわからない言葉を、よくわからない人に言ってしまった。
すると
『こんにちは。なんだ。いつも何にも言わないもんだからツバング人の奴隷かと思ってたよ。でもよくよく考えたらこんなところに奴隷なんて来られるわけないもんね』
おばさんがかなり長めに返して来た。
ますます何言ってるかわからない。
しかし、ふいに訪れたこのやわらかな空気を壊したくない。何か言わなければとあせった私は
「あのっすみません。何言ってるのかわからなくてっ」
身振り手振りそう言ったが、所詮日本語。うーん?と首を傾げられてしまった。やっぱり通じない。空風コトリみたいにはいかない。
『あんた。もしかした山域の奥から来たとかかい?確か違う言語を使う種族が居るとか聞いたことあったような……って通じない……んだよね?』
おばさんは私の肩をポンポンっと叩いてにっこり笑った。人のよさそうな暖かい笑みだった。
『まあ大変だろうけどがんばんな。ほれっコレあげるよ』
私の掌に、何か固い小さな物をポムっと握らせ、ゆっくり発音するおばさん。
『あげる』
おばさんに促されて手を開くと、飴玉?のような丸い小さな包み紙が二つ掌にのっていた。
『あげる』
おばさんがもう一度そう言った。
私は、心の中で吹き荒れる嵐のような感動に、自然と頭を下げた。
『そういうときはありがとうって言うんだよ。ありがとう。ほら言ってみな』
顔を上げると、おばさんが私の口を指差し、次に自分の口を指差し、パクパク動かした。
『ありがとう』
頭を下げながら、ゆっくり発音するおばさんの姿に、私はもうなんだか泣きそうになりながら必死にその言葉を聞き取って返した。
『ありぃがとぉう』
ぎこちない私の言葉に、おばさんはうんうんと頷いた。
『じゃあまたね』
帰っていくおばさんの後姿を、私は誇らしいというか、そういう気持ちで見送った。
何週間か前に、校門で空風コトリにキッパリ言ったときよりも、地に足の着いた心地……地……ないけど。
弟よ。これが背水の陣だ。
私はもしかしたら一歩。いや。足踏みかもしれないが、動けたことを家族に報告したいと思った。
四日目からは、丈が短い麻の和服を、帯びじゃなくボタンで留めて、チャックのついたぶかぶかのズボンをよれた革のブーツにインして、三泊した建物の中庭らしき場所に設置された石の台所で、魚を開いて干す作業を身振り手振り教えられた。
その間私は、ここがどことか、なぜこの作業をしなければならないのかとか、言葉が通じない云々関係なく、誰にも聞けなかった。
最初に教えられた食事をするところと、お手洗いと、お風呂と、寝床以外の場所に行くのが怖くて、空風コトリを探すことも出来ず、学校で経験した一人ぼっちなんて比じゃないほどの孤独に震え上がり、言われるがまま手を動かした。
はじめは、魚なんて捌いたことがないため、失敗し続けてものすごく怒鳴られたが、ある種ものすごい集中力を発揮していたからか、一週間もすれば流れるような包丁さばきになった自分を褒めてやりたい。
おかげで知らぬ間に独り立ちして、本格的に中庭に一人取り残されてしまったのだが……。
異世界って何?外国じゃないの?拉致された?空風さんはなんで普通に話が出来るの?帰りたい!夢だよこんなのっ!
静寂の中だと思考も回る。何度魚臭い手で自分の頬を抓り、目を擦って痛みに悶えたことか。
帰りたい帰りたいこれは夢これは夢と念仏のように唱えながら魚を捌き続けること二週間。
ダメだ。なんでかわからないけどここ地球じゃないわ。未知の世界だ。
もうまるっきり異世界でしかない出来事に何度か遭遇した私は、そのたびに驚き、しかし誰にも言葉が通じないため、答えを得ることも出来ず、一人静かに心臓をバクバクさせるしかなくて。
嘆き疲れた。
母さん父さん弟よ。今ならまだ面白おかしく話せるかもしれないから。どうか早めに助けてください。お願い。出来るだけ早く。出来ればでいいから。もう最悪毎日私の帰還を願ってほしい。同じ星は見れないけれど、同じ願いだけでも持ってて欲しい。
私は、もう頑張って帰るというよりも、どうにか救助しておくれという人任せな考えに移行していた。いろいろ考えても苦しいだけで、どうこう出来る気もしない。現実から逃避することも結構疲れる。
夜中急に泣きそうになることはあるが、こうして魚と向き合っているときは、ここで起きた出来事を、家族にどう伝えるか考えたりして、いろいろ紛らわせた。
こんなところは異世界だ。
と感じた出来事。
一つ目。
『こんにちは。ここ置いとくから』
と毎朝魚を持ってきてくれる不愛想なおばさんが爬虫類だ。
行商人か、お手伝いさんか、私の元へ魚を運んでくる三角巾をかぶってエプロンをした恰幅の良いおばさんが、ただのおばさんなときもあれば、お尻の辺りからトカゲのような尻尾を出し、長い舌をピロピロさせて、緑の鱗に覆われた腕のときもある。
初めて半分爬虫類半分おばさん状態を見たときは、腰が抜けた。
失礼なことをしてしまったが、ごく普通の日常を過ごしているだけのおばさんには、私が何で驚いたのかわからなかったはずだ。
ものすごく怪訝な顔をされただけですんだし。
二つ目。
建物はメルヘンだが、建ってる場所が……。
私が寝泊まりしている女子寮は、ものすごく広大な敷地の隅にあるらしく、加工してない木そのものな柱と梁に、藁で編んだ壁と床、屋根は大きな葉っぱが瓦屋根のように重なって出来ている。森の魔女が建てた家っぽいというか、自然を生かした作りになっていた。
同じ敷地内に立つ、渡り廊下で繋がっている本邸や、別邸らしき建物もここと似たような平屋だが、壁の藁の編み方が複雑だったり、屋根の葉っぱの並べ方が鳥の羽のようだったりと、少し凝った造りになっていた。
全体的には日本家屋で、灯や、ガラス窓は洋風だったりする。みんなが着ている服も、和服っぽいかと思いきやレースやチャックやボタンが付いていたりして、和と洋が混じっている。
そういえば、空風コトリを連れて行った美青年や髭のおじさんは、一際豪華な服を着ていたから、ここの主とか、何かしら立場ある人なのかもしれない。
とまあそれは置いといて。置いておいちゃいけないけど置いといて。
私が驚いたのは、いつも作業している正面の生垣にある、裏口と思われる小さな門が開いた瞬間、その先に、地面も道もお隣の建物も何もなくて、いきなり空が見えたことだ。
門が開いてすぐ青空と雲。
ん?と首を傾げた私は、四つん這いでその門の外を覗いてみた。すると、やはり目の前は空しかなくて。下を見ると、生い茂る葉と巨大な枝があった。
地面が見えない。巨大な枝の上に点々と建物の屋根が見えるけれど……地面……ない。
まさか、東京タワー並……は言い過ぎか……通天閣ぐらいある大木の上に居るのだろうか。いや。もう少し大きいの?京都タワー?いやいやそんなのどうでもいい。ん?もしかしたら不思議の国的な感じで、私の体が小さくなったの?
私は、ぐるぐるよくわからないことを考えながらその場で気絶した。さすがに心臓バクバクや腰が抜けるだけでは済まなかった。
そして夢を見た。
転校したクラスで、隣の席の子に話しかける夢だった。
ああ……私、なんで言葉が通じるのに、何も言えなかったんだろう。前の友達と似た子が居ないかさがしたり、きっかけを待ったり……。
前の学校に居たときも、誘ってもらうのが当たり前だったし……。でもどうすればよかったんだろう。
どうすれば――
気が付くと裏門の前で朝を迎えていた。夢の中で膨らんだ後悔が胸に残ったままの最悪な目覚めだった。
それで、どうにもやるせないというか、夢うつつな半端状態だった私は、朝、魚を運んでくるおばさんに向かって、おばさんがいつも言う言葉を
『こにちゃわ~』
言ってみた。
いつも眉間に皺を寄せているおばさんが驚いた顔でこっちを見た。もちろん私も驚いた。これが三つ目の驚き……こんなところは異世界だっていう話は逸れたけど、いいや。
とにかく私は言ってしまった。何語かわからない言葉を、よくわからない人に言ってしまった。
すると
『こんにちは。なんだ。いつも何にも言わないもんだからツバング人の奴隷かと思ってたよ。でもよくよく考えたらこんなところに奴隷なんて来られるわけないもんね』
おばさんがかなり長めに返して来た。
ますます何言ってるかわからない。
しかし、ふいに訪れたこのやわらかな空気を壊したくない。何か言わなければとあせった私は
「あのっすみません。何言ってるのかわからなくてっ」
身振り手振りそう言ったが、所詮日本語。うーん?と首を傾げられてしまった。やっぱり通じない。空風コトリみたいにはいかない。
『あんた。もしかした山域の奥から来たとかかい?確か違う言語を使う種族が居るとか聞いたことあったような……って通じない……んだよね?』
おばさんは私の肩をポンポンっと叩いてにっこり笑った。人のよさそうな暖かい笑みだった。
『まあ大変だろうけどがんばんな。ほれっコレあげるよ』
私の掌に、何か固い小さな物をポムっと握らせ、ゆっくり発音するおばさん。
『あげる』
おばさんに促されて手を開くと、飴玉?のような丸い小さな包み紙が二つ掌にのっていた。
『あげる』
おばさんがもう一度そう言った。
私は、心の中で吹き荒れる嵐のような感動に、自然と頭を下げた。
『そういうときはありがとうって言うんだよ。ありがとう。ほら言ってみな』
顔を上げると、おばさんが私の口を指差し、次に自分の口を指差し、パクパク動かした。
『ありがとう』
頭を下げながら、ゆっくり発音するおばさんの姿に、私はもうなんだか泣きそうになりながら必死にその言葉を聞き取って返した。
『ありぃがとぉう』
ぎこちない私の言葉に、おばさんはうんうんと頷いた。
『じゃあまたね』
帰っていくおばさんの後姿を、私は誇らしいというか、そういう気持ちで見送った。
何週間か前に、校門で空風コトリにキッパリ言ったときよりも、地に足の着いた心地……地……ないけど。
弟よ。これが背水の陣だ。
私はもしかしたら一歩。いや。足踏みかもしれないが、動けたことを家族に報告したいと思った。
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