銀鷲と銀の腕章

河原巽

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22.二枚のハンカチ

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 ある日の晩、カレンは読書に耽っていた。
 ソフィアから借りた小説に初めて目を通して以降、揺れ動く心の内が繊細に描かれた恋愛小説の世界観にすっかり没入してしまっている。
 子爵令嬢でいた頃に手にした読み物と言えば偉人の伝記や歴史書等、元々屋敷にあったものくらいで恋愛小説の存在すら知らなかった。職員寮の食堂で漏れ聞こえる会話から「そんなものがあるのね」と知ったほどで、ソフィアから貸してもらわなければずっと手に取ることはなかったかもしれない。

 一冊目は騎士と村娘の恋物語で、苦難に見舞われるヒロインとヒーローの切ない心情にカレンの涙腺が緩んだのは一度や二度のことではなかった。
 現在着手している二冊目の本は、王女と敵国の王子の婚約が結ばれるところから始まった。互いが母国の思惑に翻弄される展開が続き、ハラハラしっぱなしだ。
 ページをめくると挿絵が挿入されていた。正装したヒロインとヒーローがダンスを踊る場面を絵にしたもので、ドレスやシャンデリアの描写が美しい。
 挿絵を堪能してから本文に目を落とす。敵国同士故になかなか顔を合わせる機会のない彼女らが人目を憚らずに接触出来て、尚且つ背景に流れる音楽のお陰で二人だけの密談を交わせる特別な瞬間がこのダンスシーンだった。

――『明確な恋心とは呼べなくても、必ず君を守り、幸せにするから』
――王子が王女の耳元で誓いの言葉を囁く。

 物語を読むときは作り物の世界として俯瞰で見下ろすカレンだが、この描写を目にした瞬間にどきりと心臓を弾ませた。数日前の出来事が脳裏に蘇ったからだ。
 触れ合ってもいないのにじんわりと感じる熱、耳元で揺れる空気と吐息混じりの声、離れ際に漂う残り香。
 レグデンバーによってもたらされたそのいずれもが鮮明に思い出される。
 物語のヒロインは羞恥に頬を染めて俯いてしまうが、今のカレンにはその気持ちがよくわかる。囁かれた言葉に違いはあれど、同じ経験をするだけでこんなにも感情移入出来るものなのか、と冷静に分析する自分がいた。
 しかし詳細に思い出してしまったせいか、じんわりと顔が熱くなる。ぱたぱたと掌を扇いで頬の熱を逃していると控えめなノック音が響いた。

「カレン! 完成したわ!」

 こんな時間に訪れてくる者は一人しかいない。
 迷わず開けると空色の瞳に興奮を宿したソフィアが立っていて、潜めながらも力強い声で用件を告げてきた。すぐにピンと来て部屋に通す。

「ごめんね、こんな時間に。どうしてもすぐに見て欲しくて」

 今更ながらに申し訳なさそうな表情を浮かべる姿が微笑ましくて、気にしないで、と言って首を横に振った。

「カレンの率直な感想を聞かせてくれる?」
「えぇ、わかった」

 テーブルの脇に立ったソフィアは小さな手提げ鞄から二枚のハンカチを取り出して広げた。一枚は純白、もう一枚は薄灰色と生地の色は異なるが、四隅に刺繍された赤紫色の薔薇は同柄で見るからに揃いのハンカチだとわかる。
 並べて置かれた二枚をよく見るために身を屈める。ハンカチに咲く八輪の薔薇は遠目に見れば赤紫色の一言で言い表せるが、近くで観察するとそれぞれに異なった色の糸が使われていた。

「糸の色を薔薇ごとに変えてあるのね」
「そうなの。ちぐはぐでまとまりがないかしら?」
「そんなことないわ。少しずつ違っているから開花から成熟までを表しているようで美しいわ」

 純白地の薔薇は明るめの色、薄灰地の薔薇は重みのある色で、同柄であっても受ける印象はまるで違う。

「純白のハンカチは若々しく咲き誇っている薔薇みたい。薄灰色のハンカチは逞しい力強さを感じるわね。同じモチーフなのに雰囲気が違っていて、どちらも素敵だと思う」
「本当に?」
「本当に。生地も突っ張っていないし、細かく面も埋まっているし、素晴らしい仕上がりよ」

 街で育ったというソフィアは家事や雑事も自ら行っていたと聞く。
 細かい作業に慣れていて、刺繍も経験を積めばきっと上達は早いと思っていた。まさに彼女の練習が実を結んだ結果だと言える。

「ありがとう、カレン。あなたのお陰で完成まで諦めずに頑張れた」
「そう言ってもらえると私も嬉しいわ」

 朗らかな表情で薔薇の刺繍を撫でるソフィアを見て、ある思いが湧き起こる。

(尋ねてみても大丈夫かしら……?)

 以前にも同じことを考えて、でも結局訊けずじまいだったこと。

「そのハンカチは、どなたかへの贈り物?」

 意を決して問い掛けてみると彼女はパッと破顔した。

「そうなの、わかる? 贈り物なんて初めてで受け取っていただけるか不安だったの。でもカレンが褒めてくれたんだから自信を持って渡すわ」

 すんなりと、それも喜々として答えてもらえるとは思っていなかったので拍子抜けしてしまう。こんなにも簡単なことだったのか、と。
 知らない間に大役を担っていたようだが、迷う背中を押せたならカレンも嬉しい。

「きっと喜んでいただけるわよ」
「そうあって欲しいわ。無事お渡し出来たら報告するから!」

 彼女の幸運を祈って、書き物机の引き出しから小さな紙袋を取り出した。

「これは私からソフィアへの贈り物よ」
「え、何? どうしたの?」

 戸惑いながらも受け取ってくれたので、開けて欲しい、と頼んでみた。
 カサリと乾いた音を立てて紙袋を覗いたソフィアの瞳が大きく見開いて、カレンは笑いを溢さずにいられなかった。

「ねぇカレン、これって……あのとき買っていたリボン? そうよね、綺麗な青色だったわ。でもこんな刺繍……これカレンが刺してくれたの? ねぇそうよね?」
「いつもお世話になっているお礼よ。気に入ってもらえると嬉しいのだけど」
「やだ、もう。こんなの聞いてないわ」

 リボンとカレンに何度も視線を行き来させるソフィアの口調はいつもよりも早口で興奮気味だった。しかしリボンを持つ手は慎重で、刺繍部分に触れないように広げている。

「ありがとう、すごく嬉しい。お礼を言いたいのはこっちの方なのに」

 一転してしんみりとした言い方に胸が締め付けられる思いだった。
 カレンと同じように、ソフィアもまた二人の出会いを喜んでくれていると伝わってきたから。

「本当に可愛らしいわ。いつか私にもリボンに刺繍するコツを教えてね」

 絶対に約束よ、と付け足した親友の笑顔に何度も救われてきた。
 彼女のハンカチが喜ばれますように、と心の中で祈った。
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