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第二章 綺麗じゃないから

優しくしないで

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 唐突に始まった禁欲生活は、想像を絶する程の苦痛を私に与えた。

 例えば夜に眠ろうとした時。
 体が火照り、耐え難い衝動を生む。それを理性によって押し留めていると、まるで体中を内側から引っ張られているかのような苦痛と不快感が生まれる。

 身悶えした。汗が止まらなかった。
 病院で検査した時は体に異常が無いと言われた。そんなの信じられない。風邪を引いて高い熱が出た時みたいな苦痛がずっとある。

 本当に苦しいけど、我慢するしかない。
 これはハルくんを裏切った罰なんだ。そう思ったら、これくらい耐えられる。

 目を閉じて、眠りを待つだけ。
 すると不思議なもので、ちょっとずつ意識が薄れる。私が安堵して眠気に身を委ねると、それは唐突に始まる。

 ──痛い。苦しい。怖い。

 心の奥底に刻まれたトラウマ。
 時間が経っても忘れられない恐怖。

 ──やだ。やめて。誰か助けて。

 綺麗だった私が、終わった日のこと。

「──ハルくんッ!」

 酷い悪夢を見ていたのだと気が付くのは、いつも目を覚ました後だ。

「……また、あの夢」

 私の目に映ったのは自分の部屋。
 体は起き上がり、手を伸ばしている。

 助けを求めた手だ。
 この手を掴み、救い出してくれる人は現れなかった。

「……」

 恐る恐る手を引き、肩を抱いた。
 液体に触れたような感触があり、慌てて手を離す。すぐに手のひらを見て、液体の正体が汗だったという当たり前のことに安堵した。

「……ハルくん」

 名前を呼んで、ハッとした。
 私が彼に縋る資格なんて無い。

 汚い。気持ち悪い。
 私自身でさえそう思う。

 どうして見捨てないの?
 どうして……まだ優しくしてくれるの?
 
「……シャワー浴びよう」

 布団から出て浴室へ向かう。
 そして汗を流す間、ふと頭に浮かんだ言葉を呟いた。

「……ハルくんが、デート」

 信じられない。坂下さんと話してるところなんて見たことない。なんで急に……。

「……違う」

 私が泣く資格なんて無い。
 分かってたことだ。あの日、快楽に身を委ねた瞬間にはもう決まっていたことだ。

「……諦めなくちゃ」

 自分に言い聞かせる。
 
「……早く、諦めてよ」

 大丈夫。辛いのは今だけだ。
 きっと時間が解決してくれる。

「……それって、どうなの?」

 ハルくんが居ない日々なんて想像することもできない。無理に考えると、温かいシャワーを浴びているはずなのに、身体が震えた。

 嫌だ。離れたくない。
 無理だよ。それはできない。
 
 相反する言葉が頭の中でぶつかる。
 目眩がした。とても痛くて、苦しかった。

「……会いたい」

 初恋が終わらない。
 ドロドロのグチャグチャで、もはや修復は不可能だと分かっているのに、心がそれを受け入れることを拒んでいる。

「……ハルくんのせいだ」

 諦めたい。だから突き放して欲しい。
 そんなの嫌だ。ずっと一緒に居たいよ。
 
「……優しくしないでよ」

 冷たくして欲しい。嫌って欲しい。
 絶対に嫌だ。そんなの耐えられないよ。

 グチャグチャだった。
 自分の中にふたつの人格があるような感覚があった。

「……ハルくん」

 悪い方の私が、お腹に手を当てた。
 その手が身体を撫でるようにして下腹部へ向かう。私は久々の感覚にゾクリとした。

「ダメッ!」

 良い方の私が、その手を掴んで止めた。
 
「もう二度と、裏切れないよ……」

 手の甲にシャワーとは違う水滴が落ちた。
 私は気が狂いそうになる衝動を必死に抑えて、浴室から出る。そして──

 気が付いたらハルくんの部屋だった。
 私はいつの間にか彼のベッドで寝ていた。

(……なんで? 何が起きたの?)

 ハルくんは混乱する私に背を向けたまま、昔の話を始めた。
 その声を聞く度に心が落ち着いた。あれだけ苦しかった感覚とか、衝動とか、魔法みたいに引っ込んだ。

「……ハルくん、大人っぽくなったよね」

 私は何の脈絡も無い言葉を口にした。

「そうか?」
「昔は私の方がお姉ちゃんだった」
「そんなことないだろ」
「あるよ。よく怪我して泣いてた」
「何歳の時だよ」
「五歳くらい?」
「それはノーカン」
「小学生の時も、よくケンカしてた」
「……やめろ。それ黒歴史だから」

 困ったような声。
 それを聞いて、私は笑った。

(……あれ?)

 普通に笑えた。
 当たり前のことなのに、驚いてしまった。

「逆に優愛は変わらないな」
「そんなことないよ」

 私は唇を尖らせた。
 ハルくんは微かに肩を揺らした。

 その後、思い出話を続けた。
 二人の記憶だけは綺麗なままで、それを確認する度に嬉しくなった。

「……あのさ」

 やがて、彼が少し小さな声で言う。

「遠慮とか、要らないから」

 ……。

「俺にできることは、なんでもやる」

 ……やめてよ。

「それだけ。言いたかった」

 ……そういうこと、言わないでよ。

「ちょっとお茶飲んでくる。優愛は飲む?」
「……平気」
「そっか」

 ハルくんは腰を上げると、部屋を出た。
 その後、ドタバタという特徴的な足音が聞こえた。

 部屋に静寂が生まれる。
 だけど、不安の類は全く現れない。

(……ハルくんの匂いがする)

 ただベッドで横になっているだけ。
 それなのに、まるで彼に全身を包まれているような気持ちになる。

(……落ち着く)

 これが匂いだけじゃなかったら、どうなるのだろう。
 もしも彼が抱き締めてくれたら、どうなってしまうのだろう。

(……私の理性、残るかな?)

 不純な発想が浮かんでドン引きする。

(……ダメだよ。ハルくんは、坂下さんと付き合ってるんだから)

 お似合いの二人だと思う。
 世界一かっこいいハルくんに釣り合うのは、今の学校では坂下さんくらいだ。

(……祝福しよう)

 べつに恋人だけが全てじゃない。
 幼馴染として、これまで通り、仲良くしたい。

 だから、この気持ちはダメだ。
 自分自身の行動と矛盾していることは分かってるけど、とにかくダメなんだ。

 忘れよう。諦めよう。
 だからお願い。私に優しくしないで。もっと突き放して。

(……ハルくん)

 私は無意識に布団を摑み、抱き寄せた。
 ハルくんの匂いが濃くなって、頭がくらくらする。

 我ながら変態っぽい。
 いや、どう考えても変態なんだ。

 私は汚い。
 ハルくんの隣に立つ資格は無い。

(……終わりにしなくちゃ)

 ギュッと唇を嚙む。
 その直後、熱い雫が頬を伝う。

(……全部、終わりに)

 強烈な眠気が生まれた。
 不眠症みたいな状態だった私は、その感覚に抗うことができなかった。

 この日、私は悪夢を見なかった。
 やがて心地よい朝を迎えられたのに、最初に感じたのは、虚しい気持ちだった。
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