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第三章 私だけを見て

4.上書き

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「待って。私、冷静だよ」

 部屋を出る寸前に手首を掴まれた。

「……今の完全に部屋を出る流れだったろ」
「そんなの知らない」

 俺は溜息を吐きそうになった。
 それをグッと堪えて振り返ると、チクリと胸が痛んだ。

「私、本気だよ」

 優愛が、目に涙を浮かべて言う。

「おかしくなったみたいな言い方、しないでよ」

 落ち着いて考える時間が欲しい。
 だけど優愛がそれを与えてくれない。

「分かった」

 最初に折れたのは、俺の方だった。

「一旦、部屋に戻ろう」
「……ありがと」

 優愛は満足そうに微笑んだ。
 それから二人で部屋に戻り、ドアを閉めたところで互いに動きを止める。

「……手首」
「手首? ……あっ、ごめん」

 優愛が慌てて手を離した。
 俺は軽い痺れを感じながら、彼女を見ないようにしてベッドまで歩いた。

「……ん」

 隣をポンと叩く。
 やがて微かに甘い香りがして、ベッドが沈む感覚が俺に伝わった。

「……」
「……」

 沈黙。
 そりゃそうだ。何を話せば良いんだよ。分かるわけないだろ。

「……あのさ」

 とりあえず声を出す。
 それから俺は大きく息を吸って、

「……ビックリした」
「……うん、だよね」

 なんだこの会話。
 違うだろ。こうじゃなくて……。

「優愛は、どうしたいんだよ」
「ハルくんと一緒に居たい」

 悩む俺とは正反対に、優愛はハッキリと答えた。

「この先も、ずっと一緒に居たい」

 ほんの少し前ならば、嬉しくて涙が出たと思う。
 今でも嬉しい気持ちはある。ぶっちゃけ心の中には「そうなんじゃないか」という思いがあったけれど、言葉にされると、やはり違う。

 だけど今は頭痛の方が強い。
 だってダメだろ。今じゃないだろ。今は、違うだろ。

「迷惑なのは分かるよ」

 優愛が言う。

「だけど、もう二度とハルくんに噓吐かないって決めたから」

 次々と言葉を口に出す。

「輝夜ちゃんと別れてとは言わないよ。流石に、そこまでは言えない」

 俺は唇を嚙み、必死に頭を働かせた。

「条件付きなら、どうかな? 例えば、この部屋に居る間だけ、とかさ」

 しかし、俺が考える速度よりも優愛が喋るペースの方がずっと早い。

「私、結構お得だよ」

 俺が返事をしないせいか、優愛の声に少しずつ焦りの色が混じる。

「エッチなこと、とかさ」
「やめろ」

 俺は頭を抱えた。
 優愛の話を表面的に捉えるならば、嫉妬なのだと思う。

 絶対に違う。他にも理由があるはずだ。
 ただの嫉妬で、こんなにも必死になるはずがない。

 根拠は今の発言だ。
 もしも優愛が冷静ならば、今の話題を口にするわけがない。

「そんなに、輝夜ちゃんのことが大事?」

 優愛が言う。

「会ったばっかりじゃんか」

 その声は微かに震えていた。

「……私の方が、ずっと一緒だったじゃんか」

 何か言葉を返すべきだ。
 だけど、何を言っても優愛の地雷を踏むような気がして、何も言えない。

 ふと不自然な音が聞こえて目を向ける。
 そして俺は言葉を失った。今度こそ、頭が真っ白になった。

「どう、かな?」

 優愛が上の服を脱いだ。

「見た目は普通……でしょ?」

 彼女は白い肌と黒い下着を晒し、少し照れた様子で言った。

「私がリードするよ。輝夜ちゃんのこと、全部、上書きしちゃうくらいに。それに、ハルくんが思ってるより、大したこと無いよ。任せてくれたら、直ぐ終わるから」

 紅潮した頬と、少し上ずった声。
 俺の知る優愛からは絶対に出てこないような言葉。

(……まさか)

 やっと気が付いた。
 ここ数日、優愛は禁欲していた。

 俺には想像することしかできないが……それは、あの純粋だった優愛が不特定多数に体を許してしまう程に強い欲求だ。

 俺は大きく息を吸い込む。
 そして、考えるよりも先に体が動いた。

「ハルくん!?」

 驚いた声。
 それを聞いた後で必死に言い訳を考える。

 俺は優愛を支えると決めた。
 彼女を元通りにするために、できることを全部やると決めた。

 ……その後は、どうなる?
 優愛が元通りになった後は、どうなる?

 きっと今日みたいに会う機会は徐々に減る。
 少しずつ距離が離れて、いつか会わなくなる日が来る。

 大人になれば感情を制御できるようになる。
 今この瞬間、俺達を間違えさせている衝動は、きっと時間が経てば消える。

 だから──今だけ。
 今だけは、壊すよりも、こっちを選びたい。

「……これが、限界」

 俺は、抱き寄せた優愛に向かって言う。

「……これ以上は、無理」

 こんなことで性欲を発散できるとは思わない。
 だけど今の俺には、他に何も思い浮かばなかった。

「……だからこれで、満足して欲しい」

 背中に回した手に力を込めた。
 心臓が痛い。全身が熱い。その両方が、きっと優愛に伝わってしまっている。

「卑怯者」

 優愛はボソリと言って、俺の胸を押した。
 抵抗された……? 疑問に思いながら体を離す。

 優愛は俺に背を向けてベッドの上に座った。

「後ろからが良い」

 そして、まさかのリクエストを口にした。

「……」

 俺は大きく息を吸う。
 それを溜息に変えた後、彼女の要求にこたえた。

「……あはは、ほんとにやってくれるんだ」

 優愛は肩を揺らした。
 それから俺の手に触れて、強く握り締める。

「……あーあ、浮気しちゃったね」

 否定できない。
 もっと考える時間があれば、もっと上手いやり方を選べたはずだ。

 だけど結局──俺は、最低な選択をした。

「ハルくん、すごいドキドキしてる」

 優愛が幸せそうな声で言う。

「ね、私のも触ってみてよ」
「触らねぇよ」
「えー、ここまでやったのに?」
「……追い出すぞ」
「えっへっへ、できないくせに」

 優愛は笑った後、ぽつりと呟くような声で言う。

「……輝夜ちゃんとも、こういうことするの?」

 その直後、

「まぁ、するよね」

 優愛はごまかすように早口で言う。

「付き合ってるんだもんね」

 その声を聞いて、俺は……。

「してない」
「……え?」
「まだ、キスだけ」

 言った後で失言だったと気が付いた。
 俺も冷静じゃない。身体に伝わる熱のせいか、夜の闇のせいか、頭が回らない。

「終わり」

 最後の理性を振り絞って声を出す。

「次に何か喋ったら、本当に追い出す」
「……」

 優愛は溜息を吐いた。
 また、卑怯者と言われたような気がした。
 
 それから──
 優愛の寝息が聞こえるまで、俺は一歩も動けなかった。
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