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第九章 運命の二人
196、番解除 2
しおりを挟むあれからどれだけの時間が経ったのだろう。
俺の頭はいつになく冴えていた。久しぶりに自分の思考に向き合う。
座り込んでいる足もお尻もだいぶ冷たい。時折聞こえるあの青年の喘ぎ声と発情の甘い香り、あそこで桜は彼を抱いている。すごく辛い、桜も俺を思ってこんな気持ちで過ごしてきたのか?
一度目は見ず知らずのアルファ、ただの行きずりの関係、それでも俺の精神状態を考えて許してくれた。アルファが自分の番の浮気を許すなんて聞いたことがない。桜だって俺と変わらない高校生だった、それなのにあの状況を克服していた。
そして極めつけは、結婚を約束までしていたのに、目の前から消えて違う男と婚約。その男とは二度の発情期を過ごしている、桜のオメガでいながら、すごく酷いことをしてきた。その全ての時にどうしても抗えない事情があったけど、そんなの桜には関係ない。
そんなことがあったのに、諦めずに俺の番でいてくれた桜。今の俺の苦しみなんて桜が味わってきた苦しみのどれだけになるんだ? だから俺がここで苦しいとか、悲しいとか、悲観的なことを言ってはいけないし、泣く資格すらない。
それに桜はただ俺の願望を叶えてくれただけ。
そう、桜の卒業の日に言ったじゃないか、俺のことは忘れて好きな人を作れと、それを実行しただけ。俺が桜を恨めしく思うなんてお門違いだ。桜が離婚の手続きをするまで、俺はおとなしい人形に戻ればいいんだ。いつ離婚になるんだろう、あのオメガと入籍したいだろうし、案外すぐなのかもしれない。それならそれで良かった。だって狂っていく俺を見せたくない。
番に捨てられたオメガの末路は、綺麗なものではない、きっとこれからどんどん痩せていく、衰えていく、狂っていく。そんな汚い姿、愛している相手に見せたくない。
俺は……桜を愛している。
この数ヶ月、桜の箱庭でずっと機械のように『好き』って言葉だけを言い続けた。でも本当は愛していたのだと気がついた。だけど、俺の罪を考えるとその言葉は許されないと思った。
なんで、今この瞬間まで、番でいた間にもっと沢山愛しているって言わなかったのだろう、後悔してももう遅い。
俺は立ち上がり、どこか寝室の声の届かないところに行かなければと思った。でもこの広いマンションには、バカでかいリビングと寝室しかない。他に個室といえば、バスルームと衣装部屋がある。バスルームはきっと発情期中は頻繁に使うだろうから、衣装部屋に入ればいいか。
荷物をいれるだけなのに、六畳はある部屋だ。俺一人ならそこで生活できる。二人の世界に俺がいたら萎えるだろう。それに俺も桜が他の人と仲良くしているところを見られる精神力はない。二人の前で泣き出してしまったら申し訳ない。
だけどその部屋に入って、しまったと思った。そこには桜の服や私物があるから当たり前のように番の、いや、元番のいい香りで充満している。
まずいっ、こんな香りを嗅いでいたら、俺は何をしでかすかわからない。ただでさえ精神が不安定になっている今、桜の匂いは俺の特効薬だ。だが、俺がそれを嗅ぐ資格は無くなったのだし、今後その匂いに触れることもなくなるなら、一時の対処法で求めてはいけない。
それは甘い媚薬だった。
そこの部屋は諦めて、玄関隣のシューズルームに入った。あまり履かないような靴が置いてあるだけだから、まだましだ。その部屋は二畳ほどで、一人篭るにはちょうどいい。靴に囲まれる中、座り込んで壁に持たれるようにして俺は眠った。
どれくらい眠っていたかは、その部屋には時計もないし、明かりもつけていなかったからわからなかったが、家中をバタバタ歩く音がして目が覚めた。
「良太、良太! くそっ、どこだ!」
えっ、なんで怒っているの?
俺何かしたかな、二人の邪魔にならないように、そっと息を殺して眠っていたし、ここのドアは頑丈で、二人のフェロモンの匂いも届かなくて、やっと落ち着けていた。だから、俺が怒られるようなことが想像つかない。
「さくら、良太君ならどこかでかくれんぼしているだけでしょ? 僕、まだ発情しているんだけどっ!」
いろんなドアを開ける音が聞こえる。いよいよここに近づいてきた、俺は怖くなって涙が出てきた。
ばたんっ! 部屋に明かりが入ってきた。
「ひっ」
俺は思わず声が漏れた、桜が凄い勢いで扉を開けたから、その音にもビクってしてしまった。
「こんなところで何している? ここじゃ、家の中にお前の匂いが届かなくて焦るだろう?」
桜の怖い声が低く響く。
「ご、ごめんなさいっ。二人の邪魔をしないように、大人しくしていた」
桜が座り込んでいる俺を抱き上げた。その手を喜ぶのもつかの間、あのオメガの匂いをつけた桜に涙が出てきた。お願いだ、邪魔しないから、俺にその匂いを嗅がせないでと、言えなかった言葉を無理やり飲み込んだ。
「なぜ泣いている? こんなところじゃ風邪をひく、リビングは温めてあるからそこで休め」
なぜ泣いているって、それを桜が言うの? わからないわけないのに。
「下ろして、邪魔にならないようにしているから、ほっといて」
「お前は体が弱いんだから、こんなに冷たくして倒れられたら迷惑だ。まだ俺の嫁だ、勝手なことをするな。ここは休む場所じゃない」
有無を言わさず、暖房の効いたリビングのソファに下ろされた。
あの青年は、桜を充電して発情が少し落ち着いたのかキッチンで水を飲んでいた。裸だった、パッと見ただけだけど身体中にキスマークが見えて、俺はすぐに目線を外してソファに座った。
「良太君、急に来てごめんね。桜の精液のおかげで、そろそろ落ち着くと思うから、そしたらまた桜は返すよね。僕と番にはなったけど、まだ君は桜の奥さんだから」
「えっ」
なんかあっさりした人だな。
番になったことでの余裕がそう言えるのかな、元番の嫁の前で、堂々と裸で話している。俺の発情中は意識が定まって人と話せなかった。初めて他のオメガの発情を見たから知らなかっただけで、発情も時間が経つとあんな風に理性が働くのかな。
それに俺は番でいた時でも人前で、桜の前でさえも真っ裸で歩くことはできなかった。
そういう奔放な隠し事のないこの人だからこそ、桜に選ばれたんだろうな。発情の仕方も、振る舞いも何一つ自分と似ているところがない、綺麗なオメガ。本来はこういう人が好きなのだろう、桜はただ運命だっただけで好きでもないタイプの俺と二年以上一緒にいたなんて、申し訳なくなってきた。
「……お前は良太に裸を見せるな、寝室で待っていろ、すぐ行くから」
もう独占欲も出ているんだ。たとえオメガにでも番の裸は見せられない、俺の時もそうだった。お願いだからそんな会話を聞かせないで。
「ごめん、桜、もう行ってあげて」
「良太、体が冷えている。今温かいもの持ってくるから、少し待っていろ」
「いい! 大丈夫だからっ、お願い、俺のことは一人でできるから」
「何言っているんだ? お前ここにきて自主的になにか口にしたことあったか? 自分から行動起こせないのくらい知っている、いいから言うことを聞け」
それを言われたら何も言えない。でも、本当に何もいらないから一人にしてほしい。まだ、この家にいなければいけないなら。
桜がココアを入れてきた。
甘いものはほっとする。俺がそれを口に入れるのを見ていた桜に、もう大丈夫だと言わなきゃ、隣にいるだけで涙が出そうになるのを堪えて伝えた。
「ありがとう、もう大丈夫、もう邪魔しないから、いってあげて」
「あいつが落ち着いたら、また様子見にくるから。ご飯は二人で食べよう」
そう言って寝室へ入っていった。そしてここにいたらやはりあのオメガの喘ぎ声が聞こえてきた。
『うっ、ぐっ、んんんっ』
俺は嗚咽を、一生懸命にタオルを噛んで抑えた。この気持ちはなんて表現するのだろう、この現実はいつ終わるのだろう。せめて彼の発情期が終わるまで、お願いだから俺に話しかけないでほしい。
途中から桜の香りが強くなった。彼のヒートに合わせてラットが始まったのだろう。俺もさくらのラットに合わせて、強制発情状態になってきた。
「はぁ、はぁ、あっ、あっ」
嫌なのに、一人の発情ほど嫌なものはないのに。番解除されてもなお、俺は桜の香りにあてられる。
「あっ、桜っ、桜っ、イクッ」
少し前を触っただけで、吐精した。はしたない自分の体が嫌になる。タオルケットを全身にかぶって、口と耳を塞ぎその場を耐え忍んだ。
死にたい、初めて意識してそう思った。番解除の衰弱はどれくらいで訪れるだろう。どうか、今すぐ俺の息を止めて欲しい。我儘だけど、勝手だけど、俺はとてもこの現実に耐えられそうもない。
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