前世で僕を裏切ったはずの恋人が、生まれ変わっても離してくれない

めがねあざらし

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10、偽りの日々、そして(後)

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 夜の帳が降りる。
 暗く沈んだ寝室の中で、リアンは静かに天井を仰いでいた。

 カイオスの腕が、まるで監獄の鉄格子のように自分を抱いている。
 すぐ隣には、穏やかな寝息を立てる男の気配。
 それが今は、何よりも重く感じられる。

(……僕は、ここから出なければならない)

 そう胸の奥で繰り返し唱えても、腕の重みは消えない。
 それどころか、心に沈む不安がじわじわと膨らんでいく。

 静寂の中、リアンはゆっくりと身じろぎした。
 注意深く、慎重に。

 カイオスの腕を抜け出す。
 寝台の縁にそっと足を下ろし、指先にかすかな冷気が触れた。

 足枷はない。
 信頼を演じ続けた結果——今夜だけは、拘束を解かれていた。

(今しか、ない)

 床板がきしむ。
 その音が妙に大きく感じられて、リアンの心臓は強く脈打った。
  寝返りを打つ気配に、身がすくむ。
 けれど、カイオスは再び静かな寝息を立て始めた。

(……まだ眠ってる)

 月明かりが窓から差し込む。
 その光に照らされた鳥籠の中、ノアが小さく羽をふるわせた。

「……静かにして」

 囁く声に応えるように、ノアは小さく首を傾げる。
 リアンの目が、部屋の隅をとらえた。

 そこにあるのは、短剣。
 カイオスが日常的に持ち歩いているそれが、今夜に限って無造作に置かれていた。

 迷いはない。
 リアンは音を立てぬよう、それにそっと手を伸ばす。

——冷たい刃が、掌に馴染む。

 そのまま寝室の奥、机の上へと進む。
 そこには、見慣れた宝石箱。
 鏡面に触れた指先に、かすかな震えが走る。

 途端に、静寂を切り裂くような囁きが降りた。

「……リアン」

 映り込んだ白銀の髪。
 宝石箱の中から、ネヴェリアの姿が浮かび上がる。

「……ネヴェリア」

 低く、感情を抑えた声が漏れた。
 緊張と期待と、不安と恐れ。すべてを混ぜ合わせたような声音。

「教えたとおりにするのよ、リアン」
「……分かった」

 指に、短剣の刃を押し当てる。
 肌が割け、鮮やかな赤が滲む。

 ポタ……ポタ……

 落ちた血が、宝石箱の鏡面を染めていく。
 その瞬間、鏡は深紅に染まり、淡い光が周囲に広がった。

 ネヴェリアの姿が、鏡の中で揺らぎながらもはっきりと映る。
 そして——彼女の指先が、鏡から伸びてリアンへと触れる。

「……よくできたわ、リアン」

 微笑みは、どこまでも艶やかで、どこか艶めいていた。

「これで、あなたは〝魔術の片鱗〟を得たわ」

 リアンの掌に、じんわりとした熱が宿る。
 肌の奥に流れ込んでくる、見えない力の気配。

「……これは……」
「ほんの小さな魔の力。でも、それで〝影を薄くする〟ことができるわ」

 驚きに目を見開いたリアンに、ネヴェリアは優雅に微笑む。

「その力があれば、誰にも気づかれずにこの部屋を抜けられる」
「……どうすれば」
「血の契約を結んだ今なら、言葉だけで術を起動できるわ」


 そう言って、彼女は手を差し出す。
月光のように白い指。

「——唱えなさい。〝私は、気配を消す〟と」

リアンは、一度だけ深く息を吸い込み、瞼を閉じた。
そして、静かに言葉を紡ぐ。

「……私は、気配を消す」

 ——瞬間。

 部屋の空気が、わずかに揺らぐ。
 時の流れが、すっと沈んだような感覚。

 体が軽くなる。足音すら、吸い込まれていくような錯覚。

「……いい子ね」

 ネヴェリアの囁きに、リアンは静かに頷いた。
 扉に手をかけた指先には、ほんのりと魔力の余韻が残っている。
 その温もりが、恐れをかき消すようにリアンの背を押した。

 ——カチャリ。

 ゆっくりと扉が開かれた。
 廊下の先には、眠りに包まれた王城の静寂。
 魔術の気配に護られて、リアンの足音は影の中へ溶けていく。

 (……今なら、行ける)

 早鐘を打つ鼓動を押し殺しながら、リアンは廊下を渡っていく。
 広い回廊の壁に灯されたランプが揺れていた。

 (あの扉の先……その先にあるのは……)

 自由。
 ただそれだけを信じて、進む。

 だが、そう簡単にはいかなかった。

「——誰だ」

 声が響く。
 兵士の声。

 リアンの呼吸が一瞬止まった。

(見つかった……⁉)

 反射的に影へと身を隠す。

 兵士の足音が近づき、そして止まる。

「……気のせいか?」
「静かにしろ。何か気配が……」

 言葉が落ちたその瞬間、ネヴェリアの囁きがリアンの耳に届く。

「……心を閉ざして、影と同化しなさい」

 リアンは息を潜め、目を閉じた。
 自分の存在を内に内に押し込んでいく。

 足音が、遠ざかっていく。

 ——やり過ごした。

 リアンは、恐る恐る顔を上げた。

(……まだ、いける)

 次の目標は、城の裏手。
 ネヴェリアの導きに従い、リアンは急ぎ足で歩を進めた。

 やがて、風の匂いが変わる。
 夜の湿気を含んだ潮の香りが、かすかに鼻先をかすめた。

 (——海……!)

 そして、見つけた。
 人目につかぬ、小さな裏門。

 手をかけ、押す。

 キィ……とわずかに軋んだ音がしたが、鍵はかかっていない。

 扉の向こうには、星明りの下に広がる闇と、淡く煌めく水平線。
 夜の海が、そこにあった。

 リアンは、そっと息を呑む。
 自由が、目の前にある——。

 だが——

「リアン」

 低く、張りつめた声が、空気を切り裂いた。

 背中に冷気が走る。
 この声を、聞き間違えるはずがなかった。

 振り向く。

 そこにいたのは、闇の中で金の瞳を光らせる男——カイオス。

「遅い散歩だな」

 静かな声の中に、確かな怒りが潜んでいる。

 リアンの指が震え、思わず首筋の刻印に手をやった。
 その痕が、彼を繋ぎ止める楔のように熱を持っている気がした。

「お前は、どこへ行くつもりだった?」
「……どこへでも。あなたのいない場所へ」

 そう吐き捨てる声は、震えていた。

「また、私を置いて行くのか」

 カイオスの足音が、地を叩くように響く。
 リアンは逃げようと一歩引く。
 けれど、その一歩の背後には——海。

「お前の言葉を信じた私が愚かだったというなら……」

 カイオスの瞳が、氷のように冷たく細められる。

「今度こそ——お前を二度と出さない」
「……っ!」

 リアンは、背を翻して走り出す。
 海へ向かって。

 夜風が髪を揺らす。
 砂利を踏みしめる音が、やけに生々しく響いた。
 背後からカイオスの怒声が飛ぶ。

「リアン!」

(行く……! 僕は、逃げる……!)

 目の前に広がる夜の海。
 潮の匂いが、胸の奥の痛みを少しだけ洗い流してくれる気がした。

 けれど——あの声と、その気配は、すぐ後ろに迫っていた。
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