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11、逃亡(前)
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月明かりに照らされた石畳を、リアンは無我夢中で駆け抜ける。
濡れた足音が静かな夜に響き、肺は焼けつくように喘いでいた。
それでも——立ち止まることなど、許されなかった。
(あと少し……もう少しだけ、前へ)
視界の端に、白い波頭が揺れる。
夜の帳に沈んだ海が、黒い光をまとって広がっていた。
そこへ続く坂道を、もつれそうになる脚を必死に動かし、リアンは駆け上がる。
背後からは、あの気配が、確かに迫っていた。
「リアン……!」
名を呼ぶ声が届く。
振り返れば、終わる。囚われる。すべてを失う。
——それが、わかっていた。
だからこそ、走るしかなかった。
途切れそうな呼吸を無理やり繋ぎながら、短剣を強く抱える。
今のリアンを守れるのは、それだけだった。
(行くしかない……この足が動くうちは)
ついに波打ち際へと飛び込んだ瞬間、冷たい海水が足を絡め取る。
刹那、視界が揺らいだ。
皮膚を撫でていく水の感触が、何かを剥がすように全身を包み込む。
(これは……)
足元から伝わる感覚が、あまりにも懐かしい。
海には慣れているはずだ。けれど、まるで違う。
そう——ここにいた。かつて、何度も。
波が触れるたび、心の奥底に封じていたものが、少しずつ目を覚ましていく。
——光の揺れる、深い海の底。
珊瑚の陰に身を潜めるようにして、ひそやかに暮らす人魚たち。
その群れの中で、ひとりの青年がこちらを見ていた。
『リアン、人間なんて信じるものじゃないよ』
柔らかくも鋭い声だった。
彼はリアンの親友であり、幼き頃から共に過ごしてきた仲間——。
『お前は夢を見ているだけだ。彼らは、いつか必ず裏切る』
(違う……カイオスは……違う)
『リアン……どうして、魔女と契約なんて……!』
(大丈夫。彼は僕を……ちゃんと、愛してくれている)
『駄目だ、リアン。人は、必ず裏切る……!』
繰り返されるその声は、深海よりも冷たく心に刺さった。
それでもリアンは、カイオスのもとへ向かうことをやめなかった。
——夜の海辺。白い月光が波打ち際を揺らしている。
「来てくれたんだな」
砂浜に佇むカイオスが、どこか安堵したように微笑む。
リアンは、そっと海面から顔を上げた。
「来るよ。……だって、約束したから」
夜の潮風が、二人の間をすり抜けていく。
波の音に包まれながら、リアンは静かに手を伸ばした。
「お前を、愛している」
まっすぐに差し出されたその言葉。
カイオスの瞳が、誓うようにこちらを見つめている。
リアンもまた、かすかな笑みを返す。
「僕も……」
「リアン……」
情熱を隠しきれない囁きが、唇からこぼれた。
人魚だった頃のリアンは、差し出されたその手を、確かに握り返していた。
唇が重なり、抱き合う。
寄せては返す波音が、過去の記憶を揺さぶる。
(……これは?)
懐かしい、はずなのに。
今になってようやく、全貌を取り戻してゆく記憶。
(そうだ、僕は……)
生まれ育ったのは海の中。
家族がいて、仲間がいて。幾度も警告を受けた。
——人間を信じるな。
それでも、リアンは選んだ。
カイオスを。
彼の言葉を、愛を、温もりを。
「愛している、リアン……共に」
幾度も囁かれた、その言葉。
信じた。何度でも信じようとした。そして、最後には——失った。
目の前のカイオスの瞳が、揺れている。
現実に立つ彼と、記憶の中の彼が、重なっていく。
「リアン……!」
呼び声に、現実へと引き戻された。
——ざぶん。
水音とともに、冷えた海が跳ねた。
リアンの身体は、強い腕に引き寄せられる。
カイオスの腕の中に、沈むように抱きすくめられた。
「嫌だ……! 離せ……‼ お前なんか……嫌いだ……っ!」
リアンは喉を振り絞り、叫ぶ。
短剣を握りしめたまま、カイオスの胸を押し返そうとするが、その腕は——
まるで鉄のように硬く、意志を以て自分を逃がそうとしない。
「……お前が、私を憎んでもいい」
掠れた声が、リアンの耳元で震えた。
「どれだけ呪ってもいい……それでも構わない……!」
必死に身をよじるリアン。
暴れる足が海を蹴り、波が高く跳ねる。
けれど、カイオスの抱擁は揺るがない。
荒い息を吐きながら、それでも尚、離さずにいる。
「……私は、もう二度と……お前を失えないんだ……!」
その声には、苦悶と執着が溶けていた。
(今更……今さら、そんな言葉……! どうして、どうして……あの時に言ってくれなかった……)
涙が、視界をぼやかす。
それが怒りからなのか、恐怖からなのか。あるいは、ただの諦念なのか。
リアン自身にも、もはや判別がつかなかった。
——次の瞬間。
カイオスはリアンをさらに強く抱き寄せ、濡れた首筋に熱い唇を押し当てる。
「や……めろ……っ!」
湿った髪が絡み合い、肌に貼りつく。
海水が二人の身体を這い、冷たいはずのその感触すら、どこか熱を孕んでいた。
(……違う……これは、違う……)
たしかに、前世とは異なる時間だ。
けれど、腕の力も、体温も、執着の重さも——
あの頃と、何も変わらず、リアンの全身を包み込んでくる。
抗う心とは裏腹に、忘れかけていた感覚が蘇っていく。
リアンは、強く唇を噛みしめた。
(僕は……どうすれば……)
手元には、カイオスの短剣がある。
掌に収まるその重みが、まるで決断を強いてくるようだった。
荒く息をつきながら、リアンは柄を握る手に力を込める。
——『殺すのよ……リアン』
甘く、それでいて鋭い囁きが、耳の奥を撫でた。
(……ネヴェリア……?)
リアンは息を呑む。
背後で、白銀の髪が夜風に揺れるのが見えた。
「リアン……!」
海に反響するように、カイオスの声が響く。
けれど、リアンの足は動かない。
凍りついたように、その場に立ち尽くしていた。
「あなたの声は、もうリアンには届かない」
——その瞬間、風が強く吹き抜けた。
濡れた足音が静かな夜に響き、肺は焼けつくように喘いでいた。
それでも——立ち止まることなど、許されなかった。
(あと少し……もう少しだけ、前へ)
視界の端に、白い波頭が揺れる。
夜の帳に沈んだ海が、黒い光をまとって広がっていた。
そこへ続く坂道を、もつれそうになる脚を必死に動かし、リアンは駆け上がる。
背後からは、あの気配が、確かに迫っていた。
「リアン……!」
名を呼ぶ声が届く。
振り返れば、終わる。囚われる。すべてを失う。
——それが、わかっていた。
だからこそ、走るしかなかった。
途切れそうな呼吸を無理やり繋ぎながら、短剣を強く抱える。
今のリアンを守れるのは、それだけだった。
(行くしかない……この足が動くうちは)
ついに波打ち際へと飛び込んだ瞬間、冷たい海水が足を絡め取る。
刹那、視界が揺らいだ。
皮膚を撫でていく水の感触が、何かを剥がすように全身を包み込む。
(これは……)
足元から伝わる感覚が、あまりにも懐かしい。
海には慣れているはずだ。けれど、まるで違う。
そう——ここにいた。かつて、何度も。
波が触れるたび、心の奥底に封じていたものが、少しずつ目を覚ましていく。
——光の揺れる、深い海の底。
珊瑚の陰に身を潜めるようにして、ひそやかに暮らす人魚たち。
その群れの中で、ひとりの青年がこちらを見ていた。
『リアン、人間なんて信じるものじゃないよ』
柔らかくも鋭い声だった。
彼はリアンの親友であり、幼き頃から共に過ごしてきた仲間——。
『お前は夢を見ているだけだ。彼らは、いつか必ず裏切る』
(違う……カイオスは……違う)
『リアン……どうして、魔女と契約なんて……!』
(大丈夫。彼は僕を……ちゃんと、愛してくれている)
『駄目だ、リアン。人は、必ず裏切る……!』
繰り返されるその声は、深海よりも冷たく心に刺さった。
それでもリアンは、カイオスのもとへ向かうことをやめなかった。
——夜の海辺。白い月光が波打ち際を揺らしている。
「来てくれたんだな」
砂浜に佇むカイオスが、どこか安堵したように微笑む。
リアンは、そっと海面から顔を上げた。
「来るよ。……だって、約束したから」
夜の潮風が、二人の間をすり抜けていく。
波の音に包まれながら、リアンは静かに手を伸ばした。
「お前を、愛している」
まっすぐに差し出されたその言葉。
カイオスの瞳が、誓うようにこちらを見つめている。
リアンもまた、かすかな笑みを返す。
「僕も……」
「リアン……」
情熱を隠しきれない囁きが、唇からこぼれた。
人魚だった頃のリアンは、差し出されたその手を、確かに握り返していた。
唇が重なり、抱き合う。
寄せては返す波音が、過去の記憶を揺さぶる。
(……これは?)
懐かしい、はずなのに。
今になってようやく、全貌を取り戻してゆく記憶。
(そうだ、僕は……)
生まれ育ったのは海の中。
家族がいて、仲間がいて。幾度も警告を受けた。
——人間を信じるな。
それでも、リアンは選んだ。
カイオスを。
彼の言葉を、愛を、温もりを。
「愛している、リアン……共に」
幾度も囁かれた、その言葉。
信じた。何度でも信じようとした。そして、最後には——失った。
目の前のカイオスの瞳が、揺れている。
現実に立つ彼と、記憶の中の彼が、重なっていく。
「リアン……!」
呼び声に、現実へと引き戻された。
——ざぶん。
水音とともに、冷えた海が跳ねた。
リアンの身体は、強い腕に引き寄せられる。
カイオスの腕の中に、沈むように抱きすくめられた。
「嫌だ……! 離せ……‼ お前なんか……嫌いだ……っ!」
リアンは喉を振り絞り、叫ぶ。
短剣を握りしめたまま、カイオスの胸を押し返そうとするが、その腕は——
まるで鉄のように硬く、意志を以て自分を逃がそうとしない。
「……お前が、私を憎んでもいい」
掠れた声が、リアンの耳元で震えた。
「どれだけ呪ってもいい……それでも構わない……!」
必死に身をよじるリアン。
暴れる足が海を蹴り、波が高く跳ねる。
けれど、カイオスの抱擁は揺るがない。
荒い息を吐きながら、それでも尚、離さずにいる。
「……私は、もう二度と……お前を失えないんだ……!」
その声には、苦悶と執着が溶けていた。
(今更……今さら、そんな言葉……! どうして、どうして……あの時に言ってくれなかった……)
涙が、視界をぼやかす。
それが怒りからなのか、恐怖からなのか。あるいは、ただの諦念なのか。
リアン自身にも、もはや判別がつかなかった。
——次の瞬間。
カイオスはリアンをさらに強く抱き寄せ、濡れた首筋に熱い唇を押し当てる。
「や……めろ……っ!」
湿った髪が絡み合い、肌に貼りつく。
海水が二人の身体を這い、冷たいはずのその感触すら、どこか熱を孕んでいた。
(……違う……これは、違う……)
たしかに、前世とは異なる時間だ。
けれど、腕の力も、体温も、執着の重さも——
あの頃と、何も変わらず、リアンの全身を包み込んでくる。
抗う心とは裏腹に、忘れかけていた感覚が蘇っていく。
リアンは、強く唇を噛みしめた。
(僕は……どうすれば……)
手元には、カイオスの短剣がある。
掌に収まるその重みが、まるで決断を強いてくるようだった。
荒く息をつきながら、リアンは柄を握る手に力を込める。
——『殺すのよ……リアン』
甘く、それでいて鋭い囁きが、耳の奥を撫でた。
(……ネヴェリア……?)
リアンは息を呑む。
背後で、白銀の髪が夜風に揺れるのが見えた。
「リアン……!」
海に反響するように、カイオスの声が響く。
けれど、リアンの足は動かない。
凍りついたように、その場に立ち尽くしていた。
「あなたの声は、もうリアンには届かない」
——その瞬間、風が強く吹き抜けた。
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