前世で僕を裏切ったはずの恋人が、生まれ変わっても離してくれない

めがねあざらし

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 ——静寂。
 それは、音という音がすべて奪われた、白く霞む世界だった。
 空も地もない。ただ、柔らかな光に包まれた空間がどこまでも広がっている。

 リアンは、ふわりと漂うような感覚に包まれていた。
 身体は羽のように軽く、痛みも、熱もない。

(……僕は、死んだのか?)

 足元を見ても影はなく、両手を見ても、あの短剣を握っていた感触はない。
 胸にあったはずの痛みも、血の匂いも、ここには存在しなかった。
 ただ、自分が確かにあの刃を突き立てた記憶だけが、鮮烈に残っている。

 ——ザッ。
 白の中に、異質な気配。

 リアンは顔を上げる。
 そこに立っていたのは、見慣れた銀髪の女——ネヴェリア。
 月光を閉じ込めたような白銀の髪が、音もなく揺れる。
 その肌は冷ややかなのに、瞳だけが何かを宿すように熱い。

「……ネヴェリア」

 彼女は、ただ静かに立っていた。
 以前と変わらぬ美貌。けれど、その表情には硬質な仮面の下に隠れた迷いが滲んでいた。

「ようこそ、リアン」
「ここは……どこだ?」

 問いかける声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 ネヴェリアはゆっくりと微笑む。
 その笑みは艶やかでありながら、どこか寂しげで——抱き締めたくなるような儚さを帯びていた。

「ここは境界よ。生と死の狭間」

 言葉と同時に、白い空間の奥に淡く波紋のような影が広がる。

「……僕は、死んだのか?」
「いいえ……まだ」

 彼女は一歩、また一歩と近づく。足音はない。ただ、気配だけが近づいてくる。

「けれど、このままならそうなるわ。あなたは自ら命を絶った。でも……命はまだ繋がってる。だから、この狭間にいるのよ」

 彼女の声は、甘くもあり、刃のようにも聞こえた。
 現実の感覚が一瞬だけ蘇る。カイオスの腕の重さ、血潮の冷たさ、海の匂い。
 けれど、それらはもう手を伸ばしても届かないほど遠くにある。

「そして、あなたが私を呼んだから、こうして話すことができる」
「僕が……?」
「ええ」

 理由がわからず、リアンは自分の胸を見下ろす。
 彼女を信じ、従い、裏切られ——それでも、呼んでしまった。

「僕は、君を憎んでいるはずなのに……」

 ネヴェリアの瞳がわずかに揺れ、光を帯びる。

「憎んでくれていいわ」

 声は静かだが、深い底に沈んだ感情が震えていた。

「私はあなたを利用した。騙し、弄んだ」

 吐き捨てるような言葉。だが、その奥に苦い自嘲と諦念が混じっている。

「私は……昔、愛する人を奪われた」

 その声に、リアンは息を呑む。

「……僕の先祖、なのか?」
「そうよ」

 ネヴェリアは微笑んだ——だが、それは温もりと憎しみが同居する、ねじれた笑みだった。

「私は、愛していたのに……彼はお前たちの世界を選んだ。私ではなく、人魚を」

 声が震え、唇がわずかに噛みしめられる。

「だから私は呪った。愛なんてものが永遠に実らないように」

 復讐という名の氷が、彼女の全身を覆っていた。
 そして、その氷は長い時間の中で固まりすぎて、自分をも凍らせていた。

 リアンは、ゆっくりと息を吐いた。

「でも、それは過去の話だ」
「……」
「僕は、何も知らなかった」

 彼は淡く笑う。

「僕は……確かに、君に騙された。でも……君は僕のそばにいてくれた」

 その言葉に、ネヴェリアの肩がかすかに揺れた。
 リアンの瞳は穏やかだった。

「アクアフィナでもそうだった。唯一話してくれたのは、君だった」
「……あれは気まぐれよ」
「そうかもしれない。でも、それでも嬉しかった」

 祖国で寂しかった時間。
 孤独を埋めてくれたのは間違いなくネヴェリアだった。


 ネヴェリアの視線が揺れ、感情の波が見え隠れする。
 リアンは一歩踏み出し、手を差し伸べる。

「次の世界へ行こう。もう君は、復讐だけのために生きる必要はない」

 ネヴェリアは言葉を失ったまま、リアンの顔を見つめた。
 長い睫毛が震える。唇がかすかに開く。

「君が望むなら……僕は一緒に行く」
「……」
「君は、僕に愛を見せてくれた。それが気まぐれでも……今度は僕が、君に愛を見せたい」

 ネヴェリアの瞳に、かすかな光が差した。

「……馬鹿な子」

 彼女は微笑み、手を伸ばし、リアンの胸にそっと触れた。指先が熱を宿す。

「……私の、可愛い子」

 ——次の瞬間、強い力がリアンを押し返す。

「——っ!」

 身体が遠ざかり、白い世界の端が崩れ落ちる。

「ネヴェリア‼」

 必死に手を伸ばすが、その距離は広がっていく。
 ネヴェリアは微笑んでいた——涙を隠すように。

「私に、愛を見せて……」

 その声を最後に、彼女は白の光に溶けていった。
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