前世で僕を裏切ったはずの恋人が、生まれ変わっても離してくれない

めがねあざらし

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13、繋がれた命と選択(前)

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 ——現実の世界。

「……リアン‼」

 耳を打つ声があった。
 遠くから水を伝って届く響きのようで、それは確かに自分を呼んでいる。
 深い海底に沈んでいた意識が、細い糸を手繰られるようにゆっくりと浮上していく。
 暗闇の膜を押しのけると、まぶたの裏に光が滲み、世界がこちらへにじり寄ってきた。

 ふわり、と——。
 水面から顔を上げた時のように、色と匂いが一度に押し寄せてくる。
 視界いっぱいに広がるのは、ゆるやかに揺れる青の海。その向こうで、白銀の髪が波間にほどけ、月光をまとう。水滴が髪先から零れ落ち、海面に小さな輪を描いた。

「……君は……」

 自分の声が、まだ水を含んだように震えている。
 その姿は、夢の淵からこぼれ落ちた幻のようだった。夜の海を映した深い瞳、鱗のひとつひとつが月の光を受けて淡く輝く。——この感覚を、どこかで知っている気がする。

「久しいな、リアン」

 人魚は静かに微笑んだ。
 潮の香とともに届くその声は、深海の底から響く音のように、遠くて、それでいて胸の奥に染みる。

「お前が覚えていればの話だが……」
「……僕たちは、知り合いだった?」

 問いながら、胸の奥底で確信が芽生えていく。
 ——この声を知っている。
 かつて青く澄んだ水の中で、寄せては返す波のように耳をかすめたあの響き。

「そうだ。お前がまだ、海にいた頃……」
「僕が、海にいた頃……」

 その言葉に、胸の底の水面がざわりと揺れる。
 押し込めていた景色が、泡のように浮かび上がった。透き通る水の中、仲間と泳ぎ、笑い合った日々。海草が揺れ、光の帯が水面から降り注ぐ。

 そして——人間の世界への憧れ。

「……君は、誰なんだ?」

 沈黙が、水よりも重く降りてくる。
 やがて人魚は、水に溶けそうなほど低い声で答えた。

「私は、海の高貴なる血に仕えた者」
「高貴なる血……?」
「そう、そして——お前の血も、そこに連なっている」

 冷たい波が足首をかすめ、同時に胸の奥に熱を残していく。

「お前は、かつて海の王族の血を引く者だった」

 知っていたはずの事実。けれど、その響きは記憶の奥の柔らかな部分を鋭く抉った。

「ああ、けれど僕は……人間として生まれ変わった」
「そうだ。しかし、〝お前の血〟はまだ海と繋がっている」

 リアンは自分の手を見下ろす。
 指先がわずかに震え、皮膚の下で見えない潮流が脈打つような感覚が走る。
 ネヴェリアの顔がよぎる。——そして、あの瞬間。カイオスを刺すはずだった刃を、自らの胸に向けたあの感覚が、今も皮膚の裏に潜んでいる。
 胸元をそっとなぞる。そこには、深く穿たれたはずの傷はもうない。
 ただ、首筋にはまだ熱が宿っている。カイオスの印が、確かにそこに在ると告げていた。

「……僕は、生きている……」
「そうだ」

 人魚は静かに頷いた。

「だが、お前はまだ〝選ばなければならない〟」
「選ぶ?」
「お前は、〝何者として生きるのか〟を選ばなければならない。私の血がお前の古の血を目覚めさせたからだ」
「何者として……?」

 人魚は揺らがぬ瞳でリアンを見据える。

「お前は、海の血を持つ者として生きるのか、それとも、人として生きるのか」

 その言葉は、潮の満ち引きのように胸を押し引きし、奥深くまで届いた。

「……それは」
「お前が、このまま〝海の者〟として生きるならば——海へ戻ることができる」

 リアンは視線を海へ向ける。
 漆黒の水面の向こうには、かつて捨てた世界が広がっている。
 カイオスを愛し、彼と生きるために置いてきた場所。潮の香りが、記憶の扉を再び叩く。

「そして、お前が〝人として〟生きるなら——」

 人魚の視線が、カイオスへと向けられる。
 リアンも振り返った。
 カイオスは、壊れ物を抱くように、リアンを腕の中に収めていた。
 その金色の瞳には、言葉にしきれない熱が宿っている。
 波間の炎のように、揺れながらも決して消えない光。

「お前は、ここに残ることになる」

 胸が、締めつけられるように痛んだ。
 リアンは砂を踏みしめ、ゆっくりと立ち上がる。足元の砂粒の感触が妙に鮮明で、それが選択の重みをさらに際立たせる。

「海に帰れば……僕は、僕でいられるのか?」
「……ああ」

 人魚は頷いた。

「それが本来の姿」


 唇を噛みしめ、潮の味を感じる。

「じゃあ……人間でいたら?」

 人魚は短く息を吸い、しばし沈黙した。

「それは——お前が〝何を望むか〟による」

 心が揺れる。
 ——何を、望む?

 その時、カイオスがそっとリアンの手を取った。
 大きな手が、静かに温もりを伝えてくる。指先に残る微かな震えまでもが、真実の証のように思えた。

「リアン」

 低く、しかし確かな声。
 リアンは顔を上げた。

「……お前は、私の隣にいたいか?」

 その問いは、胸の奥に深く突き刺さる。

「……僕は」

 選ばなければならない。
 人として生きるのか、海へ還るのか。

 ——夜の波が、静かに寄せては返す。


 リアンは、海と、そして隣にいるカイオスを見比べた。
 どちらかを選ばなければならない。
 海に還るか、人の世界に残るか——。

(僕は……何を選びたいんだろう……)

 胸の奥で、答えを探す波が、静かに、リアンの心を揺らしていた。
 深く沈んでは、光を求めて浮かび上がろうとする潮の動き。
 リアンは、そっと自分の胸に手を当てる。
 掌に感じるのは、確かにそこにある鼓動。
 温かな血潮が脈打ち、ひとつひとつの拍動が、今この瞬間も生きていることを告げている。
 その律動は、海の波にも似ていた。止まることなく、絶え間なく続くもの——。

 ——『お前は、私の隣にいたいか?』

 耳の奥に、カイオスの声が揺れる。

(……隣に……)

 閉じた瞼の裏に蘇るのは、彼と過ごした時間。
 互いに愛を誓いながらも、別れを選ばざるを得なかった前世の記憶。
 引き裂かれた痛み。
 再び巡り会い、過ごした日々は決して安穏としたものではない。
 けれどこうして命を繋ぎ止められた今——そのすべてが胸を満たしていた。

「……僕は……」

 水面に映る自分の影を見下ろし、ゆっくりと人魚の方へ向き直る。


「ねえ……海に還るって、どういうこと?」

 人魚は長い睫毛を伏せ、潮の香を伴って静かに目を細めた。

「お前の本来の姿に戻るということだ」
「……それは、人間の記憶を捨てるってこと?」

 波音が二人の間を満たす。わずかな間を置き、人魚は頷いた。

「……海に還れば、お前は〝海の者〟として生まれ変わる」

 胸の奥に、細い針が刺さるような痛みが走る。
 それは、カイオスも、これまでの記憶も、すべてを置き去りにするという意味だった。

「じゃあ……僕がこのまま人間として生きたら?」

 人魚は、深い水底を思わせる瞳でリアンをまっすぐに見つめる。

「お前の心の中に、〝海〟が残る限り——その選択を完全に否定することはできない」

 リアンは、自分の指先をじっと見下ろした。

「……つまり、僕はこのまま人間として生きても……海の血が流れている限り、〝完全な人間〟にはなれない?」
「そういうことだ」

 拳をぎゅっと握る。
 どちらを選んでも、完全にはなれない——その現実が、冷たい潮のように心を締めつける。
 ならば——

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