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しおりを挟むどうしてお兄様はあの人が嫌いなの?
私の実兄、ウィリアム・ヴァレンティーノお兄様に、そう一度だけ聞いたことがある。
別に、そこまで興味は無かったけど。
ただ、あの人が噂とまるで違う人だったから、少し気になったの。
「……嫌っているわけではないよ」
いつものように、私の頭を優しく撫でてそう呟いたお兄様。
嘘よ。だって、それならどうしてあの人に冷たく接するの? どうしてパーティーにエスコートして行ってあげないの?
彼女がどれだけ社交界で酷く言われているか、全く知らないとは言わせないわ。
近頃のフィリックスお兄様は、どこかおかしい。他の人は分からないかもしれないけど、ずっと傍に居た私には分かる。
今から一か月前、フィリックスお兄様があの人と結婚した日から。
あの人というのは、隣国の公女様のこと。
国王の又姪であり、セチル公爵家の愛娘。フローラ・セチル公爵令嬢。
国王の姪であるフローラさんと、皇帝の甥であるフィリックスお兄様。
国同士の仲を取り持つためにも、二人の結婚は何かと都合が良かった。
まさに、お手本のような愛の無い政略結婚。
「ごめんなさい、あなたを怒らせるつもりはなかったんです。本当にごめんなさい……」
彼女は、噂とはかけ離れた人物だった。
セチル公爵家の公女は傲慢で高級志向だと聞いていたのに、実際の彼女は、謙虚で慎ましい性格をしていた。その上、すぐに『ごめんなさい』と謝罪の言葉を述べる弱気な人。
お兄様と彼女の身分にそう違いはないし、そこまで謙遜することはないのに。
まあ、嫁いできたばかりだから謙虚な女性を演じているだけかもしれないけれど……。
「どうして君はいつも僕に付きまとうんだ」
「私は、あなたの妻だから……」
フローラ・セチル。彼女はなんて健気な人なのかしら? 私なら、もし人前で夫に恥をかかされたらビンタの一つでもかましてやるのに。
「……はあ」
お兄様は呆れたようにため息をつくと、すぐにどこかへ行ってしまった。
クスクスと、周囲から令嬢たちの笑い声が聞こえてくる。
夫にエスコートをされず、蔑ろにされているフローラさんを馬鹿にしているのだろう。
フローラさんの国と我が国は、二人の結婚のおかげで関係を保っていられるとは言っても、いつ崩れてしまうか分からないほど不安定な関係だった。
そのため、両国の関係が悪化すれば、フローラさんとフィリックスお兄様は離婚することになる。皆、二人が離婚するのは時間の問題だと言っていた。
すぐに居なくなる公子妃に媚びを売っても無駄だと判断したのか。それとも、令嬢たちの憧れの的だったフィリックスお兄様の妻という肩書が気に入らないのか。
どんな理由にせよ、みっともないったらありゃしない。
傍から彼女を馬鹿にする貴女たちに比べたら彼女は立派よ。
「大丈夫ですか、フローラさん。ごめんなさい、お兄様に代わって私が謝るわ」
本当は『お姉さま』と彼女を呼ぶべきなんだろうけど。まだ少しそう呼ぶ勇気が出ず、未だに一度たりとも呼べていない。
「大丈夫よ、ありがとう。私は大丈夫だから、気にしないでちょうだい」
ちっとも大丈夫じゃないのに、笑顔で嘘を付くところ。
お兄様、貴方の奥さんはとてもお兄様にそっくりな人よ。
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「ねえ、レティ? レティには好きな人がいらっしゃるの?」
「……はい?」
私、レティシア・ヴァレンティーノの愛称を呼ぶこの人は、本当にどうしてあんな噂が流れてしまったのだろうと思うほど変な人だ。
変というより、異常と言った方が正しいのかもしれない。品性下劣な人間の多い貴族社会にとって、彼女みたいな善人は異端な人間だ。
「どうされたのですか、突然ですね」
「私、夢だったの。嫁いだ相手に女兄妹が居たら、姉でも妹でも、いつか恋バナがしてみたかったのよ」
「な、なるほど……」
はっきり言って、フローラさんは呑気な人だと思う。
『そんな呑気なことを言っている場合じゃないでしょ?』
そう、言ってやりたくなったけど、この人の無邪気な笑顔を見てたら、真剣に考えているこっちの方がアホらしくなって辞めた。
「ご期待に添えず申し訳ないのですが、残念ながら私にそのような相手は居ません。それに、私は政略結婚すると思いますので」
「あら、そんな悲しいことを言わないで。恋をした相手との結婚は良いものよ」
「⋯⋯どういう意味ですか?」
彼女の言い方には違和感があった。
そればまるで、自分が愛のある結婚をしたかのような言い方ではないか。
政略結婚で愛のない結婚をした貴女に、その言葉は似合わない。
「どういうって、そのままの意味よ?」
「まさか、フローラさんは本当にお兄様を愛していらっしゃるのですか?」
ずっと、演技だと思っていた。
妻が夫を気遣うのは至って普通のこと。夫の様子を伺って愛らしく笑って、夫を愛する妻を演じる。それが、彼女のやり方だと思っていた。
でも、違ったんだわ。
「当たり前じゃない。何年も前の社交界であのお方を一目見た時から、私は彼にゾッコンなのよ」
頬を赤く染めて、照れながらそう言うフローラさんは、まさに恋する乙女といった顔だ。
「そうでしたか……」
残酷だわ。
お兄様は貴女をちっとも愛していないのに。
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「今日もあなたはとても素敵ですね」
朝の清々しい空気の中、彼女の明るい声が響いた。
フィリックスお兄様の応答は、いつも通りの気のないため息だけ。
しかし、そんなそっけない態度に彼女は少しもひるむ様子を見せない。それどころか、嬉しそうな顔をしてフィリックスお兄様に笑いかけている。
「図書館に行かれるのですか? 私もご一緒してもよろしいですか?」
「……好きにしろ」
投げやりな言葉とは裏腹に、普段大股で歩く速度の早いフィリックスお兄様の歩みは少しだけ緩やかになり、隣に立つ小柄な彼女に合わせているようにも見えた。
「嬉しいです、ありがとうございます」
彼女はぱっと顔を輝かせ、その場に咲く花のような笑顔を見せる。
お兄様が彼女の笑顔にほんの少しだけ口元を緩めたのを、私は見逃さなかった。
毎日毎日、本当に凝りもせず、よくやるわよね。
健気というか、なんというか……本当にバカみたい。
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「お兄様!」
腕に抱きつくと、フィリックスお兄様は不満げに私の顔を見つめた。
「走るなといつも言っているだろ」
「えへへ、ごめんなさい」
私、知ってるんだから。
どれだけ不満げな顔をしたって、結局はお兄様が私に甘いこと。
本当は満更でもないんでしょ? 可愛い妹が甘えてきて。
どんな我儘を言っても、どんな過ちを犯したって、お兄様だけはいつだって私の味方だった。
「お前はいつも明るいな」
「え~? だって、お兄様と二人で出かけるのは久しぶりだもん」
「ただ父上の誕生日プレゼントを買いに行くだけだろう」
「それでも私は嬉しいよ」
いつも優しくて、完璧で。私のお兄様は、まるでおとぎ話の王子様みたいな人だ。
だからこそ、不思議でたまらない。
どうしてお兄様があの人だけにはあんなにも冷たいのか。
きっと、お兄様ならどんな悪女が嫁いで来ようとも優しく接していたはずじゃない。
それなのに、どうしてフローラさんにはあんなに冷たくするの?
「……僕が彼女に親切にすれば、きっと彼女は自国に帰るとき、どこか苦に思う日が来るだろう」
フィリックスお兄様は、私の質問に少し考えこんだ後。静かに話し始めた。
言葉の意味を考えると、胸の奥がざわざわと騒ぎ始めた。
大切だから、あえて冷たく接していた?
もし国同士の関係が悪くなり離婚となったとき。あの人が心置きなくここを去れるように。
それじゃあ、お兄様の方がずっと彼女に夢中なんじゃない。
「これは僕らだけの秘密だからな」
「うん、分かったよ」
私が返事をすると、フィリックスお兄様は私の頭を撫でながら「いい子だ」と言った。
そうなの、私いい子なの。
だから絶対に教えてなんかあげないわ。
あの人には悪いけど、私のお兄様はずっとずっと私だけのお兄様なんだから。
今はまだ、たった一人の家族を誰にも渡したくないから……。
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穏やかな風が吹くヴァレンティーノ公爵邸の裏庭。
その日は珍しく、私はフローラさんと散策していた。
半ば気まずい気持ちがあったが、いつものように彼女の楽観的な笑みを前に、断ることなどできなかったを
冬の名残を感じる冷たい空気の中、護衛として着いていた男が私たちの前に出た。
「お嬢様見てください、珍しい鳥が居ますよ」
護衛の男は低い声でそう告げたが、どこか冷ややかな響きがあった。
「え? 鳥……?」
今の季節に鳥がいるのか。
そう、一瞬疑問を抱いたものの、男の指し示す方向へ視線を向けた。
だが、次の瞬間私の目に入ったものは鳥なんて可愛らしいものではない。
男の手に握られていた、銀色に光る短剣だった。
「危ない、レティシア!!」
フローラさんは鋭い声を上げるや否や、私の前に飛び込んだ。
男の短剣は空を切り、フローラさんはその刃から私を守り抜く。
穏やかな雰囲気だった状況は、一瞬で凍りついた。男は唇を歪ませ、不気味な笑みを浮かべている。
「異国の姫が、よくも邪魔しやがって……」
男はフローラさんを冷たく見下ろし、その腕を掴むと強引に引き寄せた。
「っ、放しなさい!」
フローラさんは抵抗しようと必死にもがいているが、男の力は強い。淑女として育った可憐な彼女が敵うはずもない。
どうしよう、助けなくては。
だけど、私にどうやって彼女を……?
私は呆然とその光景を見つめていたが、恐怖と混乱が頭を支配してどうしても動けない。
「レティシア、貴女は早く逃げなさい!」
「そんなこと……」
何なのよ、どうしてこんな時まで貴女は優しいのよ。
「チッ、どうしたものか……本命はお嬢様の方だったんだがな」
男はそう言うと、私に視線を向ける。
どうしよう、嫌、怖い……。
「私の妹に触らないで! 私は隣国から来た公子夫人よ。人質としてなら、彼女よりも私の方が良いでしょ!」
男はフローラさんの言葉に一瞬戸惑いを見せたが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「確かに、夫に愛されない惨めな公子夫人でも人質としてなら使えるだろうなあ」
そう言うや否や、男はフローラさんを引きずるようにして歩き出した。
「ま、待って! フローラさん……!」
やっと出たその声は、震えてしまっている。必死にフローラさんに向かって手を伸ばしたが、どうしても足がすくんでしまい、私の手が彼女に届くことは無い。
「レティシア、私は大丈夫ですから」
自分だって怖くてたまらないはずなのに、いつものような愛らしい笑顔で私に笑いかけるレティシアさん。
男は軽く舌打ちをすると、そのままレティシアさんを無理やり連れていく。二人の影が、森の中の闇へ消えていった。
「どうして、どうして私なんかのために……」
私を庇って連れ去られてしまうなんて。
なんなのよ。あの人、バカみたい。
……いや、違う。本当のバカは私よ。
肝心な時に動けず、彼女にただ助けられることしかできないなんて。
どうすることも出来ず、地面に座り込んだままでいると、私たちの帰りが遅いことを心配した数人の使用人とフィリックスお兄様がやって来た。
「何があった、レティシア」
「お兄様……その、フローラさんが私の代わりに……!」
フローラさんと男が消えた方向へ指差し、必死に声を出した。
すると、フィリックスお兄様は「待ってろ」とだけ言い、すぐに私が指さした方向へと走っていった。
フローラさんが連れ去られたという話を聞いて、フィリックスお兄様はどんな顔をしていたのだろうか。
最後まで話しきる前に行ってしまったから、ちゃんと顔が見れなかった。
私が見えたのは、剣を持ち走り去るお兄様の後ろ姿だけ。
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それから二人は、朝日が昇る前に無事公爵邸へ戻ってきた。
「本当に君は無茶苦茶だな」
「ごめんなさい……」
お兄様に抱かれて、傷だらけの様子のフローラさん。
彼女の左足首は酷く腫れていて、痛みからか他の感情かは分からないけど、薄っすらと目元に涙を溜めたフローラさんと、彼女の涙を優しく拭うフィリックスお兄様。
二人の関係が先程までとは大きく変わったことが、その光景を見ただけで分かった。
「フローラさん、その……私のためにごめんなさい」
フィリックスお兄様の腕から降り、ソファーへと座った彼女の前に立つと、私は静かに頭を下げた。
私を庇ったせいで、怪我を負ってしまった。最悪の場合、命を落とすことになっていたかもしれない。
罵声を浴びせられることくらいの覚悟は出来ていた。
しかし、彼女はいつも通りの満面の笑みを私に向けた。
「可愛い妹を守られたんですもの、本望よ」
本当に、彼女はどうしてこんなにもお人好しなのだろう?
「何が本望だ、あまりにも危険すぎる」
「もう、さっきから謝ってるじゃないですか。あなただって同じ状況なら大切なレティのためにそうしていたはずでしょう?」
「僕はいいんだ」
「まあ、なによそれ!」
楽しげに言い合い、笑う二人。
二人のやり取りを聞きいていると、思わず私も笑ってしまう。
きっと二人には、私が知らない物語があるのだろう。二人が主人公の素敵な物語が。
今回の事件が落ち着いたら、彼女が夢だったという恋の話とやらを、私としてくれるだろうか。
二人だけの甘い夢物語を、私にも聞かせてくれるかしら……。
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「あなたを心から愛しています」
「……僕もだよ、フローラ」
純白の衣装を纏い、愛を誓い合う二人。
今日はフィリックスお兄様と、フローラさんの結婚式。
互いの想いが通じ合った二人は、国同士の関係が悪くなろうがなるまいが永遠に二人で居ることを誓った。
つまりは、お兄様がフローラさんに押し負かされたってわけ。
そもそも、互いを想いあっているのに愛し合わない方が無理だというものだけど。
陽光がステンドグラスを通して降り注ぎ、祭壇の周りは柔らかな光に包まれている。
会場を埋め尽くす参列者たちの目も、美しい二人の輝きに照らされて心なしか潤んでいるように見えた。
もちろん、新郎の妹である私もこの幸せな瞬間に立ち会っていた。
幸せそうに笑い、手を取り合う二人。
そりゃあそうよね、長年想っていた相手と両思いになれたんだから。嬉しいに決まっている。
なんというか、嬉しいような悲しいような。そんな複雑な気持ち。
フローラさんが噂通りの品性下劣な酷い人だったら、もっとこの結婚に反対して、彼女を心から嫌うことができたのに。
でも、彼女はそんな人じゃなかった。
誰にでも優しく、誠実で気品のある女性。そんな彼女を嫌うことなどできるはずがなかった。
私だけじゃない、陰で彼女の悪口を言っていた貴族たちでさえ、いつの間にか彼女の魅力に引き込まれていた。
彼女は、そういう人なんだわ。
「フローラお姉さま、とても綺麗です」
私が彼女をやっと、お姉さまと呼べた時。
フローラお姉さまは目を潤ませて、そっと私を抱きしめた。
「泣きすぎですよ、お姉さま。せっかくの晴れ姿が台無しですわ」
「あら、レティこそせっかくの可愛いお顔が台無しよ」
フローラお姉さまの言葉で、今自分が泣いていることに気づいた。
フローラお姉さまの涙に気が付いたお兄様は、すぐに涙を拭ってあげている。
『え~ん、おにいさま!』
『はあ……仕方ないな。大丈夫だから、泣くなよ』
二人の姿を見ていたら。ふと、昔の出来事を思い出した。
いつもは、私がお兄様に涙を拭ってもらっていたのにな。
大好きなお兄様を取られてしまうのは少し寂しくなるけど、貴女にならお兄様を喜んで預けられる。
どうか、お兄様をよろしくね。
フローラお姉さま。
「二人とも、本当におめでとう!」
私は会場に響き渡るような声で、二人に祝福の言葉を贈る。
寂しいけど、いつまでも悲しんでいられない。
私も私の涙を拭ってくれる、自分だけの王子様を見つけなくちゃ。
二人は今、本当に幸せそうに笑っている。
まあ、当然だけどね。
悲劇を乗り越えた先には、深い愛が待っていなくちゃ。
いつまでも、お幸せに。
私の大好きなお兄様とお姉さま。
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