40 / 211
39【告白⑭】
しおりを挟むフランス語? イタリア語?
わ、分からない……。
解読不能なメニューから目をそらして顔を上げれば、何を注文するのか期待いっぱいで待っている、飯島さんのつぶらな瞳に視線が捕まった。
もう、笑うしかない。
だいぶ乾いた笑いだけど、笑わないよりはマシなはず。
「か、課長、お任せしますっ」
ずいっと、左隣に座る課長に責任転嫁してメニューを捧げ渡す。
無言でメニューを受け取った課長は、パラパラとページをめくり、テーブルに回ってきたウェイターさんに、何やら注文をしていた。
――ああ、やっぱり、私にはファミリーレストランの、ドリンクバーが性にあってる。
ほどなくして、飯島さんのテーブルには黒ビールと枝豆と言う季節を先取りしたようなメニューが置かれた。私と課長のテーブルに置かれたのは、チーズ類の乗ったおつまみの皿と、赤ワイン。トンと、自分のテーブルに赤ワインのグラスが置かれて始めて、私は自分の置かれた状況にハッと気付いた。
し、しまった!
ウーロン茶かアイスティを頼むんだった!
目の前にワイングラスが置かれるまで、『そのこと』に思い至らなかった自分のあまりの呑気さに、心の中で盛大な舌打ちをする。この状態でさすがに『飲めません』とは、言えるはずがない。
ワインは、空きっ腹にとても良く効く。それはもう、効きすぎるくらいにとても良く効く。悲しくなるくらいの自分の間抜けさに、もう笑う気力もでない。でも、気力を振り絞って笑顔を作り、ワイングラスに手を伸ばす。
この一杯だけ。
後は、絶対、是が非でもウーロン茶にさせてもらおう。
「それでは、我々の前途を祝して、乾杯!」
私の苦境を知るはずもない飯島さんの陽気な乾杯の音頭で、恐る恐るワイングラスを口に運ぶ。コクリと一口赤い液体を口に含んだ瞬間、フルーティな軽い甘さがフワリと鼻に抜けていった。
「あ、美味しい……」
思わず、素直な賛辞の言葉が口をついて出る。
ワインってあまり得意じゃないけど、これは好きかもしれない。
飯島さんとは仕事上だけの付き合いで、『清栄建設の陽気な監督さん』と言うイメージしかなかったけど、こうしてお酒の席で腹を割って話してみると、陽気なだけじゃなく底抜けに愉快な人だと分かった。
好きなお笑いコンビの話や映画の話、果ては建築論まで飛び出し、話題は尽きることがなく。いつのまにか飯島さんのペースに乗せられた私も、『接待』と言う枠を飛び出して、とても楽しいひと時を過ごした。
飯島さんは、命名するならきっと『 愉快上戸 』。一緒にお酒を飲んで、こんなに楽しい人は初めてだ。最初は、課長と飯島さんの話が合うか少し心配だったけど、二人で熱心に建築論を交わしていたから、満更気が合わないわけでもないようだ。
楽しい時間はあっという間に過ぎて、気付けば時計の針は午後十一時を回ていた。もうすぐ、シンデレラの魔法が解ける時間だ。こんな楽しい魔法だったら、たまにかかっても良いかな? なんて考えていた時、プルル、と課長のスマートフォンが着信音を上げた。上着のポケットから、スマートフォンを取り出して着信窓に視線を走らせた課長の表情が、フッとなごむ。
「ちょっと、失礼」
そう飯島さんに断ってスッと席を立った課長は、お酒が入っているとは思えない確かな足取りでラウンジの外に歩いて行く。あれはたぶん実家からの電話だとそう思ったその瞬間、胸の奥に、例えようがない痛みが走った。
扉の向こう側に見えなくなった課長の姿を辿るように、ぼんやりと視線を彷徨わせていたら、不意に、飯島さんが口を開いた。
「高橋さん、一つだけ、聞いても良いですか?」
「はい?」
さっきまでとは明らかに違う、真剣さがにじみ出るような低いトーンの声音にドキリとして飯島さんに視線を移せば、少し明るい色合いの真っ直ぐな瞳に視線が捕まり、変な風に鼓動が乱れだす。
「飯島さん?」
思わず息を飲むその私の息の根を止めるような、とんでもない質問を、飯島さんは静かに放った。
「高橋さん、谷田部さんとは、どういう関係なんですか?」
『谷田部さんとは、どういう関係なんですか?』
エコー増幅しながら、そのフレーズが脳内を何往復かした後やっと、私はその質問の重大かつ深刻さに気付いて身を強張らせた。
「高橋さん、答えてくれますか?」
――ええっ!?
たぶん、こう言う状況を称して、 晴天の 霹靂。
または、絶体絶命と言うのだと思う。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
957
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる