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136【計略㉕】
しおりを挟む――ぜったい、飲んだらだめだ。
飲み込むまいと必死に喉の奥をしめるけれど、更に流し込まれる大量のワインにむせた拍子に食道へゴロリと流れ落ちてしまった。
「な、何をっ……」
ゲホゲホと激しくせき込み、言葉が続かない。
「何、私が使っている、ただの睡眠導入剤だ。少しばかり、大人しくしてもらうだけだ。効き初めに多少酩酊状態になるが、1、2時間もすれば元に戻るから、心配することはない」
――睡眠導入剤!?
酩酊って、酔っ払い状態ってこと?
なんでそんなモノを、胸ポケットに常備!?
ってか、自分の薬を他人に飲ませるな、変態っ!
「放し……て……?」
――な……に、これ?
いくらなんでも、今飲みこんだばかりの薬がもう効いてくるなんてありえない。でも、手足に走るのは、まぎれもなく違和感。それは、しびれたような、少し感覚が鈍くなったような不快感だ。
例えるなら、眠りに落ちる間際の倦怠感に似ている。刻一刻と強くなっていくその感覚とともに、心が絶望の色に染まっていく。
「この薬に使っているカプセルは、谷田部製薬で開発中の新製法でね。唾液で溶けずに胃液で瞬時に溶解する。だから、飲んですぐに薬効が現れる、優れものなんだ」
耳元に落とされる声が、遠く近くにこだまする。立っていられずに、膝がガクリと下に落ちてしまう。
「……と、もう効いてきたのか。空きっ腹にワインの相乗効果か。あまり効きすぎると、つまらないんだが。仕方がないな」
私を抱きかかえながら、蛇が、勝ち誇ったようにほくそ笑んでいる。押し退けようとする両腕に、力が入らない。
――ああ、ダメだ。これ以上、抗えない。
震えるまぶたが静かに下りていく、まさに、その時だった。
――ブルル、ブルルと、低いスマートフォンの電話の着信を知らせる振動音が、どこかで聞こえた。
否、振動を感じた。
ベストのポケットに入れてある、スマートフォンに着信している。
――課……長?
眠りに引きずりこまれる寸前の思考の片隅で、その相手が課長だと確信する。
――でなきゃ。
でて、助けを求めなきゃ……。
最後の気力を振りしぼってそう思うけど、悲しいかな、しびれた腕がうまく上がらない。代わりに伸びてきた武骨な手が、ベストの中のスマートフォンを取り出した。
「……ふん。あいつか」
プチリと、受信ボタンを押して、最後の頼みの綱を取り上げた敵は、上機嫌で会話を始めた。
「何の用だ? あいにく、彼女は取り込み中で出られないから、私が用件を聞こうか?」
「う……」
ダメだ。
声を上げようとするけど、音声にならない。
「人聞きの悪いことを言うな。別に、無理やり連れ込んだわけでは無いさ」
尚も続く楽しげな会話を聞きながら、もう溜息しか出てこない。
「迎えに来る? ああ、かまわんよ」
――課長……。
電話の向こう側には、課長がいるのに。
私には、もう、声すら上げられない。
「そこからは、どんなに急いでも30分はかかるだろう? せいぜい事故を起こさないように、気を付けて来るんだな。父親の二の舞はしたくないだろう。じゃあな」
――プチリ。
無情にも、最後の希望の灯は、受信終了を告げる音とともに消えてしまった。
「白馬の王子様は、今日は、眠り姫になった母親の見舞いの日でね。大事なシンデレラの窮状に気付くのが、少しばかり遅かったようだな」
喉の奥であざけるように笑いながら、男は、私を抱き上げたままゆっくりと部屋の奥へと足を進める。課長の部屋と同じ作りなら、おそらく、そこにあるのはベット・ルーム。
万事、休す――
万策、尽きてしまった。
身体が思うように動かないのでは、逃げようがない。
ああ、嫌だなぁ。
こんな、勘違い野郎の蛇親父に好き勝手されてしまうなんて。
いくら身から出たサビとは言え、我ながら哀しすぎる。
それにたぶん、きっと、課長にいっぱい迷惑をかけてしまう。
谷田部課長、ううん、東悟。
……ごめん。
おバカな元カノで、ほんっとうに、ごめん……ね。
『高橋さんっ!』
――それは、願望が生んだ空耳だったのか。
意識が闇に落ちる寸前、私を呼んだのは、聞き覚えのある声。
ここに、いるはずのない人の声だった――。
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