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第1章 人生最悪の一日の終わりに、おいしいマフィンを
08 裏切りの婚約者①
しおりを挟むさすがにお昼時。
ホテルの展望レストランのランチは結構な値段がするはずなのに、サラリーマンやOLとおぼしき人たちで満員御礼状態だった。
「申し訳有りませんが、ただ今満席で……」
と言いに来たウエイトレスさんに、高崎さんと待ち合わせだと告げると、話が通っているのかすぐに案内してくれた。
一番見晴らしが良い窓側の席。私たちの婚約の会食に使った、正にその席だった。
グレーの背広とネクタイ。銀縁のメガネを掛けた、落ち着いた雰囲気の理知的な男性。『高崎さん』の姿を見付けて、私は心が躍った。
――だって。ここしばらく『仕事が忙しい』ってろくにデートも出来なかったんだから。顔もニヤケようってものよ。
それに、正直言うと、これからのことも色々と相談したかったし。
彼なら、きっと良いアドバイスをくれるに違いない。
そう、思っていた。
「高崎さん、遅くなって……」
私はそこまで言って『ごめんなさい』の言葉を飲み込んだ。なぜなら彼が、他の人物と楽しそうに談笑していたから。
彼の隣の席に座っているのは、品の良い薄いピンクのワンピースを身に纏った、ロングヘアの小柄で可愛いらしい感じの女性。
きめの細い抜けるような、白い肌。
黒目がちで、大きな瞳。
すっと通った鼻筋の下には、ピンクに色づく、可憐な唇。
綺麗に巻かれた濡れ羽色の黒髪が、彼女が動くたびに軽やかに揺れる。
清楚と、言うのだろうか。
『深窓のご令嬢』という言葉が、ぴったりくるような、そんな美しい女性だった。
――そう。
彼は、一人じゃなかったのだ。
視線が合ったとたんに、高崎さんの顔から笑みがスッと消えたのを、私は見逃さなかった。
同じく、談笑していた女性も、口を閉ざして私を凝視している。その視線には、友好的とはほど遠い成分が含まれていた。はっきり言って、『敵意』すら感じる。
――なに? どういうこと?
二人でランチだとばかり思いこんでいた私は、この状況に、混乱してしまった。
「どうぞこちらへ」
「あ、はい……。失礼します」
ウエイトレスさんに促されて、高崎さん達の向かい側の席におずおずと、腰を落ち着ける。でも心中は落ち着くどころか、混乱と混沌と混迷の3Kの極地だ。
久々の婚約者との、ランチデート。
何故か、愛しの婚約者殿の隣には見知らぬ可愛らしい女性が座っていて、私をトゲだらけの視線で睨んでいる。
――な……、なんなの、この状況は?
「あの……、遅れて、ごめんなさい」
訳も分からず、やっとの事でそれだけを口にする。私の言葉に、高崎さんと隣りに座る女性がチラリと目配せをした。そこに垣間見える二人の『親密感』に、心の奥がザワザワと波立っていく。
「あの、高崎さん……?」
隣りに鎮座している女性は、どちら様でしょう?
答えを求めて、私は高崎さんの顔を覗き込んだ。でも、視線が合わない。彼は、視線を合わせようとしない。今まで、こんなことはなかった。いつだって、優しい穏やかな視線は、私に真っ直ぐ向けられていたのに。
ゴホン、と、沈黙を破ったのは、高崎さんの咳払いだった。
そして、伏し目がちにテーブルに視線を落としたまま、信じられないような言葉を彼は放ったのだ。『婚約を白紙に戻したい』と。
一秒。二秒。
嫌に長く感じる冷たい沈黙の時が、三人の間に流れる。
「えっ……?」
私は、混乱の極地で、実に間抜けな声を上げた。
だって、意味が分からない。
『白紙に戻す』の言葉の意味くらいは、私にだって分かる。分からないのは、なぜ彼がそんなことを言い出すのか、その理由だ。
『鳩に豆鉄砲状態』で固まっている私のことなどお構いなしに、高崎さんは淡々と言葉を続ける。
「彼女は、白川佳奈美さん。僕の銀行の上司のお嬢さんだ。それに……」
少し言いにくそうに口ごもったあと、高崎さんは意を決したように、信じがたい言葉を私に投げつけた。
『彼女は僕の子供を妊娠しているんだ』と。
「――は……?」
――は……い?
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