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第1章 人生最悪の一日の終わりに、おいしいマフィンを
09 裏切りの婚約者②
しおりを挟む――私、なんだか、急に頭が悪くなったらしい。
なぜって、高崎さんの言っていることが、まったく、ぜんぜん理解できない――。
『僕の、上司の、お嬢さん』
『僕の、子供を、妊娠している』
『上司のお嬢さん』から、なぜ一足飛びに『僕の子供を妊娠している』になるんだろう? いくらなんでも、はしょりすぎだ。私は、視線を合わせようとしない高崎さんのうつむきかげんの顔を、穴があくほど見つめた。
彼の放った言葉が巨大ゴシック文字と化して、私の脳細胞を破壊しながら、ドッカンドッカンと下手くそなラインダンスを踊っている。
なんだか、クラクラとめまいがした。
――あ、息。息をするの、忘れてた。
すうぅぅうっ。
はああぁぁっっ。
突き刺さるような沈黙を破って、私は、酸欠の錦鯉のように大きく息継ぎをした。きっと、鼻の穴全開でみっともない顔をしてるんだろうけど、そんなこと構っちゃいられない。
でも。新鮮な酸素がたくさん送られたはずなのに、私の脳細胞は、一向にうまく働いてくれない。何も、言葉がでてこない。
「君には、申し訳ないが、そういうことなんだ……」
彼の声が、ひどく遠くに聞こえる。
『そういう』って、どういうこと?
おバカな私にも分かるように、納得できるように、ちゃんと説明してほしい。そう、心の中で愚痴ってみるけど、言葉にする気力がわかない。
こういうとき、婚約者としては、どう反応すればいいのだろう。
『信じられない!』と、嘆くべきか。
『裏切ったわね!』と、怒るべきか。
妙に冷静に、そう考えている自分がいた。
クスクスクス。
急に、この状況が滑稽に思えてきて、乾いた笑いがこみ上げてくる。
――馬鹿みたい。
ううん。私は、きっと馬鹿なんだ。
今の今まで。彼に別れ話を切り出されるこの瞬間まで、疑ってみたこともなかった。彼に、私以外に付き合っている女性がいるなんて……。
大人で。優しくて。誠実を絵に描いたような人だと思っていた。私に、嘘なんか付くはずないって、信じていた。だからずっと会えなくても、「仕事が忙しいんだ」という彼の言葉を鵜呑みにしていた。
私は、この人の何を見ていたんだろう……。
続く冷たい沈黙。そんな雰囲気に耐えかねたように、彼が口を開いた。
「婚約指輪は、好きに処分してくれていいから。その、君も色々大変だろうから……」
ぐさり――、と鋭い刃物と化した彼の優しい声音が、私の心の裏側をこれでもかと深くえぐり取った。
何を言ってるの?
驚きと、もう一つ訳の分からない強い感情を身の内に感じながら、私は高崎さんの顔を見つめた。否。にらみつけた。でも彼は、この期に及んでも、視線を合わせない。
「和彦さん……」
それまで沈黙を守っていた『僕の上司のお嬢さん』こと白川佳奈美嬢が、気遣わしげに高崎さんの腕に手を添えて名を呼ぶと、私の方をまっすぐ見すえた。
『バチバチバチ!』
漫画なら、画面いっぱいにそんな文字が飛び交い、電撃がスパークするに違いない。
鳩尾のあたりから、ふつふつと湧き上がってくる感情。これは、怒りだ。
不誠実な、彼への怒り。
初対面なのに、絵に描いたような敵意むき出しの女性への怒り。
そして、間抜けすぎる、自分への怒り。
――だめだ。
これ以上ここに居たら、私は、何を言い出すか分からない。
ああ、今日してくればよかった、指輪。
そうしたら、思いっきり叩き返してやれたのに。
「……指輪は、宅配でお送りします」
声が、震える。
私はようやくそれだけの言葉を絞り出すと、静かに席を立った。そのままクルリと身を翻して、早足でレストランの出口にむかう。
――さよならなんて、言わない。
お幸せになんて、絶対言わない。
私は、そんなに大人じゃない。
レストランを逃げるように飛び出して、まっすぐ展望ルームのトイレを目指した。
揺れる視界が、ぐにゃりと歪む。鼻の奥にツンと込み上げてくるモノを気合いで押し戻し、スタスタと一心不乱に目指すは、トイレの個室。
――ええい。泣くもんか。泣いてなんかやるもんか。
ぎゅっと、唇を噛むけれど。気合いだけでは、止められないものがある。
ポロリ――。
紅潮した熱い頬を、涙の粒が一粒、流れ落ちた。それが呼び水。ポロポロ、ポロポロ、せきを切ったように後から後から溢れ出す涙を、私には止める術がなかった。
私は、頬を拭うこともせず、トイレの個室に駆け込んだ。
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