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第弐話

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「こんなところに座ってんな! 邪魔だよ、邪魔っ!!」

 そんな怒声が頭上から聞こえたのが先か、衝撃を背中に感じたのが先か。
 ドンッと突き飛ばされたように弾かれ、その勢いで地面に倒れ込んだ際に擦った手のひらが、痛みを覆うように熱くなる。

「寄るんじゃないよ、あんた。その娘、尾なしじゃないか」
「いきなりそこに現れたんだ。妖狐族でないなら、人族だろ。おかしな術使いやがって。気味が悪いったらねーぜ」
「本当に尻尾がないわ」
「短いか千切られてしまったのじゃなくて?」
「千切られたのなら罪人でしょう? どっちにしても関わらない方がいいわよ」
「誰か、縛罪府ばくざいふの役人連れて来いよ!」
「さっき、役所の方に走ってった奴がいたから、じきに来るだろ」

 色んな声が聞こえる。
 みんなが私を見ている。
 その誰もが、突き飛ばされた私を心配してくれるのではなく、厄介な者や嫌なものを見るような目をして。
 真後ろにいた人を振り返る。犬のような耳と尻尾。黒い色は朱皇くんと同じもののようだったけれど、艶やかさはなく毛先がバサバサして見えた。
 荷物を両手で抱えているところからすると、その荷物でやったというより膝で蹴られたのだろう。踏みつけられるような感覚はなかったから。

「ご、ごめんなさい」

 手のひらは熱くて痛むけれど、さっき誰かが言っていたように急に私がこの場所に現れたのだとしたら、朝市のようにお店の天幕が左右を占める道の真ん中というのを考えれば、悪いのは私の方だ。自分でも、どうしてこんなところにいるのか理解出来ないけど、そんなことなど周囲の狼族の人たちにはどうでもいいことだろう。障害物でしかないと思われてしまうのは仕方ないことだ。

「お? 何でぇ。まともそうな面してるじゃねーか」

 荷物を抱えた黒狼族の人が、興味を示したように立ち上がった私の周りをゆっくりと歩く。
 私に関わるな。といった言葉があちこちから聞こえた。幸いにも何かをぶつけて来られたり、また突き飛ばされたりするようなことはないけれど、このままここにいればいずれは、と不安になる程に、向けられる視線は冷たい。

「おら、道を開けやがれ!」

 不意に、少年の声が響いた。
 人の波が二手に分かれ、白い装束を纏った白い耳と尻尾の少年――といっても私とあまり年齢差はなさそうだ――と、少年は黒い帯だったから遠目からでは柔道着に見えなくもなかったが、こちらは青い帯に裾の長いものを羽織っている、やはり白い耳と尻尾の青年がやって来る。

「将軍だ」
「え。何で?」
「もしかしてあの娘、相当な大罪人なんじゃ……」
「はー。いつ見ても麗しい」
「こんな近くで蒼慈そうじ様を拝めるなんて!」

 ざわめきが少し色を変えて広がっていく。
 白狼族のあの二人は、この場の殆どが黒狼族であるにもかかわらず有名なようだ。

 ――私はもう、確信を持っていた。ここは私がいた世界ではなく、朱皇くんがいた世界なのだと。
 何かがなければ戻れない筈の世界に、朱皇くんは戻って来れた。そう考えてもいいのだろうか。何かの間違いで私だけがこっちに来てしまったなんていうことは考えたくない。
 問題は、私はこれからどうなってしまうのか、だ。

「ん? えっと……これ?」

 先に着いた少年が、私を上から下まで眺めてから、荷物を抱えた黒狼族の人に訊ねる。物の扱いみたいに指をさされたけれど、そっちよりも少年の顔をまじまじと見て、気を取られていた。
 目付きが鋭いように見えるのは、人より少し細いだけだろう。少年漫画で見た不良っぽい雰囲気を感じるのは、単純にそのキャラクターに似ていると思ったからに違いない。
 普段は怖い感じだけど、笑うと可愛い。そんなイメージを勝手に押し付け、優しい人だといいなと心の中で祈った。

「ああ。急に出て来たんだ。妖狐族がよく煙出してやるだろ? あんな感じで。煙はなかったけどな」
「ふぅん。じゃ、貰ってくわ」
「え?」

 ぐいっと腕を組んで引かれ、慌てる。
 引かれた拍子に躓いた先に、白いものがあって。それが、追い付いた青年の羽織だと気付いたからだった。

「す、すみません」
「女性の扱いには気を付けなさい、玖涅くね

 危うくぶつかってしまいそうになったことに謝る私など気にした風もなく、青年は少年に注意し、両耳をぐいぐいと引っ張り始める。

「いだだだだだっ、ちょ、そーじ様、勘弁、勘弁っすよ、マジでっ」
「この程度で大袈裟な」
「おーげさじゃねーっす! いだい、痛いんすって、だから、うぃだだだだだだっ……」
「痛くしなければ分からないでしょう? いくら駒でも躾は大事ですからね」
「駒じゃねーっす。ってか、見てねーで助けろよっ」
「ああ、やはり。反省もしていないじゃありませんか」
「いだぁぁぁっ!!」

 ひたすら耳を引っ張り続けられる少年。可哀想に思いながらも見ているだけでいたのは、他の誰もがそれを楽しそうに見ていたからで。だから、或いは青年の言う通り少年が大袈裟に騒いでいるだけで、実際はそうでもないじゃれ合いなんじゃないかと思っていた。だけど、さっき私に助けを求めた時の少年の目には、明らかに涙が浮かんでいたのだ。

「あ、あのっ」

 だから私は青年の腕を取って、少年の耳から手を放して貰おうとしたのだけど。

「ギャーッ、何触ってんのよ!」
「蒼慈様が穢れる!!」
「離れなさいよ、尾なしっ!」

 そんな怒声が耳に飛び込んで来たけれど、こっちはそれどころではなかった。

「ほう。確かに人族とは珍しい」

 そう言って、私の手首を掴んだ青年の顔が不必要なまでに近付く。
 白銀の髪が背中までサラリと長く伸びているからか、凛とした女性のように見えてしまう秀麗なる容貌に、私は暫く見惚れてしまったようだった。
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