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第弐話

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「これはまた、面倒な」

 蒼慈さんがボソリと呟くのに被さる形で、廊下を駆けて来る足音が響き、ドア付近で「ふぎゃっ!?」といった悲鳴が聞こえた頃に、そちらを振り向く。

「わわわわ。な、なんでこんなところに、いら、いらっいらっしゃられるのであらせられますのでしょうか!」

 桶を抱えた少年の口調がおかしい。
 ドアの内側に黒一色のチャイナドレスみたいなものを着た黒狼族の人がいる。先程の声はその人のものだったのだろうけど、どうして少年はその人を警戒したような蟹歩きで室内に入り、抱えていた桶を私の足元に置くなり蒼慈さんの背後に隠れたりするのだろう。とても怖い上司なのだろうか。

「この女性が?」
「ああ、いえ。どうやら間違いであったようです。ただ、奇妙な術を使ったようであったので、説明を請うていただけなのですよ」

 訊ねながら、声の様子からして青年らしき人が近づいて来る。
 ドアはほぼ真後ろにあり、手を蒼慈さんに握られたままでいたから、振り向いたところで顔まではよく見えない。しかし、そうして傍に来てくれたことで、その容貌がハッキリと見てとれるようになる。

「……」

 可愛かった。声は明らかに男性のものとして聞こえていたにもかかわらず、同年代の女の子かと思ってしまう程に。けれど、だからと言ってその声に違和感が生じるといったことがなかったのは、とても澄んだ声だったからだろう。

「そうでしたか。あなたが処罰房へ連れ込んだ者があると聞いて、早とちりをしてしまいました。――その痛々しい怪我は?」
「…………」
「こちらの方が何をなさったのかは分かりませんが、随分と乱暴なことをなさいますね」
「仕事ですので」
「そちらの水は?」
「先ずは冷やさなければと」
「薬の手配は?」
「こ、ここにあるで、ありますで、ありますっ!」

 蒼慈さんの後ろから、ポンッとテーブルの上に湿布が放られる。
 テーブルの上には蒼慈さんが並べたペンチなどがあり、テーブルの下には先程使われていた銛や、私が転倒した際に落としたと思われる五寸釘が転がっている、それらを見渡し、黒狼族の人が深い溜息をつく。

「早急に手当てを」
「……はっ」

 黒狼族の青年の言葉に、蒼慈さんが慇懃な姿勢で礼をし、拷問用に並べられたものを少年に片付けさせる傍らで、私の中指の手当てを始めた。
 もしかしたら、蒼慈さんにとっても上司的な位置にいる人なのだろうか。そんな風に思いながら、青年の様子を窺うと、正面から目が合ってしまう。

「あなたは、人族なのですか?」
「ええと……はい」

 やはり珍しいからか、ハッと驚いたような表情をした青年は、私が頷いたのを見てから、観察するように見下ろし。

「朱皇様を、ご存知なのでは?」
「!?」

 不意打ちで、全てを看破されたかのような質問に、ピシリと身体が硬直した。
 何故、そう思ったのだろう。もしかしたら、今度は朱皇くんを異世界に飛ばした罪に問われようとしているの?
 肯定するか否定するか迷う中、青年の手がそっと私の肩に触れた。

「あなたの名を、見せていただきますね」
「え?」

 一瞬、聞き間違えたのかと思った。名前を訊ねられるなら兎も角、書き記した覚えもなく、記された何かを持っている訳でもなかったからだ。
 ――と、肩に触れられた手が、何かを握ったようだった。スッと離れていく手を見つめる。青年の胸元で開かれた手のひら。するとその上にぼんやりとした光の揺らめきが上がり。

「……えっ?」

 墨で書かれたような線が光の揺らめきの中に走ったかと思うと、文字を象り始め。
 美原青子と読める姿となる。

「何と読むのですか?」
「――――」
「ああ、警戒していらっしゃるのですね。ご安心下さい。僕はあなたに何らかの罪を着せようとしているのではないのです。確認したいだけなのですよ」

 表情と同様にその声音も穏やかで柔らかい。
 しかし、確認とはどういう意味だろう。この人には色々と見通す力があって、欠けたものを補足する為の確認ということだろうか。
 それとも……朱皇くんが……?

「みはら、せいこ、です」
「セイコ……。ではやはり」

 考えても仕方ないことだ。そう思うまでもなく答えた私に、青年が満足そうに愛らしい笑みを深める。

「青、だと?」

 その傍らで、私の指の手当てを終わらせた蒼慈さんが、青年の手のひらの上から消えていく名前を目にして、動揺したようだった。

「ち、違うんです。青の字を使ってますが、これは狼族の皇族の方々が持つような意味は全くなくて、あの、えっと……あ、そうだ。私は男の人じゃないので、色を冠する名をつけても関係ない……とか、朱皇くんが……」

 ――――!

 はっ、と手で口を覆う。
 朱皇くんが、なんて言ったらいけなかった。こちらでは皇子様なのだから。なんて気付いても、今更もう遅い。

「君は、朱皇殿下と繋がりが?」
「この方が、朱皇様を救って下さった恩人なのですよ。蒼慈殿」

 愕然がくぜんとした様子になった蒼慈さんの問いに、青年がそう答え、蒼慈さんばかりでなく、私も目を剥く。蒼慈さんの背後から少年の「ええっ!?」といった声が聞こえたから、少年の方の反応も同様のようだ。

「わ、私、救ったりなんて……」
「いいえ。あなたがいらっしゃらなければ、朱皇様がお戻りなさることはなかったでしょう。何しろ、異世界に飛ばされたという異常なる事態でしたから、今は体調を崩されているとはいえ、ご無事でいられたのも、全てはセイコ様のお陰なのですよ」
「え、朱皇く……朱皇様、具合悪いんですか? それより、やっぱり戻って来ていたんですね。良かった……あ、でも良くない? あの、体調を崩してるって、酷いんですか?」
「――――」

 罪人扱いから放免されたと思えば、今度は恩人扱いだなんていうあまりな格差に気を取られている場合ではない。あの小さな朱皇くんが苦しんでいるのかと思うと、胸が痛くて堪らなくなった。
 そんな私に、一瞬きょとんとした青年だったけど、すぐにまた微笑んで。

「大事を取っておりますが、酷いものではありません。お会いになられますか?」
「会えるんですか?」
「ええ、勿論」

 言われて、思わず立ち上がった私に、青年はそっと手を差しのべる。

「申し遅れました。僕の名は丹思たんし。朱皇様とは幼少の頃より仲良くさせていただいている者です」
「は、はあ……」

 そう名乗った青年の手のひらで、今度は青年の名が揺らめき、消える。とても不思議な力だと思った。

「先程はご無礼致しました。時折、ご自分の名を忘れてしまわれる方や、何故か偽りを口にされてしまうご病気の方がいらっしゃるものですから。僕の特技なのです。あまり使い道はありませんけれど、口に出来ない真実を文字にすることが可能、だと認識していただいて構いません」
「ついでに補足させて貰うなら、丹思様は第四皇子という立場でもあります。朱皇殿下とは母君が違いますがね」
「ええっ?」

 それって、側室とか愛人とかいうものだろうか。でも、だとしても皇子様が目の前にいるなんて。どうりで少年の様子がおかしい訳だ。

「さあ、参りましょう」
「は、はい」

 差しのべられたままその手を取らなかった私の手を取り、丹思様が外へと促す。
 複雑な表情をしている蒼慈さんに手当てのお礼を言うと、耳を垂らせて頭を振られた。

 ――朱皇くんに会えるんだ。
 そう思ったら、ドキドキしてきて。叶うことなら、体調が戻るまで傍にいさせて貰おうと思った。
 この時私は、あの小さな朱皇くんの姿を思い描いていたのだけれど、それが間違いだったことを知るのは、これより少し後のことだった。
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