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第肆話
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日が変わって。
朱皇皇子の機嫌は、この上ない程に悪かった。
円卓を中央に据えた会議室。丹思様のお屋敷内にあるそれの、八つある席のうち半分だけが埋まっている。
一つずつ席を空ける形で、扉から一番離れた奥から時計回りに、皇子、丹思様、蒼慈さん、私の順に座っており、丹思様の後ろに二人の妖狐族の青年が、そして蒼慈さんの後ろに玖涅くんが物凄く緊張した面持ちで控えていた。
時間を定めて呼び出された訳ではなく、たまたま蒼慈さんと玖涅くんの来訪を受けて、それから丹思様が皇子と私をこちらに連れて来たのだ。
少し前まで、お茶を煎れてくれた章杏さんが私の傍にいてくれたけれど、丹思様が口を開いた辺りで出て行ってしまった。
話の内容は、丹思様と私が神殿に赴いた際に、外套姿の者たちからの襲撃を受けたことだ。
そこへ千茜様が現れて――あの時連れていた制服姿の人たちは親衛隊だったようだ――捕物をしたこと、私が怪我をしたことと連れ去られそうになったこと。それらを聞くうちに皇子の機嫌は悪い方に傾くどころか、その針を振り切ってしまったようなのだった。
「何故、俺を連れて行かなかった? 青子で釣れると判断した理由は何だ」
「朱皇様をお連れしたら、隠している意味がありません」
「だが俺ならばまだ、自分で自分の身を守れたぞ」
「ご自分のお体のことを理解しておいでではないのですか? 本調子ではない上に、投薬の副作用でろくに力も入らない状態ではありませんか。神殿どころか城まで歩くことすら可能だったとは思えません」
「だからって、何故青子なんだ。青子に怪我を負わせ、兄上の手を煩わせ、結果お前は何を得た?」
「…………」
ピリピリとした雰囲気に、居た堪れない気持ちになる。
二人の言い合いに、誰も口を挟まない。否、挟めなかったのかもしれない。
「蒼慈殿。縛罪府の方には、どのように伝わっておりますか? さすがにあの人数を捕縛して、それでも千茜様が内々におさめられるなど無理なことでしょう」
皇子から目を逸らすようにして、丹思様が蒼慈さんに訊ねる。
「こちらでは、人身売買目的の拐かしという名目で牢に収容しております。青子さんが被害者であったことは聞き及んでおりましたが、青子さんは珍しい人族ですから狙われるのも当然と思われます故、その名目に疑念を抱くこともありませんでした。……丹思様は他に何かあるとお考えなのですか? わざわざ連れ出されたことに結び付く理由が」
淡々と言葉を紡ぐ蒼慈さんは、皇子程ではないけれど、こちらも不機嫌そうに見えた。真面目な話をしているからそうなっているだけかもしれないけれど、何だか怖い。
「これまでの歴史の中で――黒狼族と白狼族との国が統合されるようになる遥か以前から、人族の姿を目撃した者は稀です。一時期は滅んだとさえ伝わっていた程に。それでも中には物好きな旅人となって現れることもあった為、昨今では幻の存在というまでには至っておりませんが、それでも頻繁に目にする訳ではありません」
丹思様の語り口に、何だか講義でも受けている気分になった。
「彼らが排他的であるといった事実はありません。ですが、あまりにも得体の知れない存在であることから、尻尾のない人族を、同じ尻尾のない天羽族の『羽根つき』と同様に『尾なし』と呼び、少しの畏怖と多くの蔑視を持っています」
不意に、こちらの世界に来てしまった時のことを思い出す。確かにそんな呼び方をされた気がした。尻尾がないのは罪人だとか聞いたような気もする。狼族にとって尻尾というのはとても重要なものなのだろう。だから、朱皇皇子が尻尾のブラッシングを嫌がって、ごわごわした感じになっているのを放置してしまうことを、章杏さんたちが大いに気にしているのかもしれない。
ちなみに今日の尻尾の具合は、毛先がちょっとぼわっとしていた。
「人族の解釈はいい。だからって何故、青子が俺の代わりになったんだ。そいつらは青子が異世界の住人だったなんてことは知らない筈だろう?」
皇子がテーブルの上で指をトントンさせ、答えを急かす。
丹思様はそんな皇子に申し訳なさそうな表情をして、話を続けた。
「皆さんはご存知ないと思われますが、異界の扉については臆測も含めて様々な制約があります」
「それは前に聞いた。数百の生け贄が必要だとか、標がなければ戻れないとか、そういうものだろ?」
「はい。ですが――扉の出現や開く為の条件は、実は一つではないのです」
「……どういうことですか?」
蒼慈さんの声音が一層冷たいものとなる。
「何故そのようなことを丹思様が知っておいでなのです?」
「――」
質問に対する答えに窮した様子でもなく、丹思様が黙する。そして、こちらが痺れを切らす寸前を見計らうようにして再び口が開いた。
「僕の母が、呪術に精通していたからですよ」
私に異界の扉のことを話してくれた際に口にしなかったことだったから、今回の件がなければ知ることはなかっただろう。
「僕の母は妖狐族です。妖狐族の殆どが呪術に精通していますが、母の力は他の妖狐が認め、尊敬する程強いものであったそうです。皇帝に見初められて側室になりましたが、そこに呪術的なものは関与していません。それどころか、母が亡くなったのは皇帝の身代わりとなったからです」
「何だって?」
知らなかった事実を知らされたことで、皇子は声を発したものの、掠れた頼りないものになっていた。
「では、陛下は呪術によっての暗殺を謀られていたと?」
「はい。これは僕の臆測に過ぎませんが、十年以上前から計画されていたものと思われます。僕の幼い頃の記憶にある母は、いつも何かに苦しめられているようで、それを返すことに必死になっていました。『返さなければならない』というのは母が口にした言葉ですが、それは呪詛返しを意味していたのではないかと思うのです」
話の内容が重い……というか、あまり口外するタイプのものではないようなものに変わってしまったけれど、それを私が聞いていて良かったのだろうか。と、落ち着かなくなる。
「異界の扉は、呪詛に等しいものです。激しい憎しみや恨みを抱いた相手を、死とは違う形で葬るのですから」
「ただ殺すのでは気が済まないから、言葉も文化も生物形態も異なる世界に送って、相手が路頭に迷うどころか狂い死んだりすることを妄想してスッキリするものなのか? 目の前で息絶えるのを見た方が良さそうに思うんだが」
呆れと怒りの混じった調子で皇子が言う。
これまでの態度から、それに同調するように思われた蒼慈さんは、逆に理解を示すように頷いた。
「自分が手をかけても問題がない相手でないならば、そういった手段を求めるかもしれませんね。或いは、殺しても殺し足りないというまでに、憎しみに囚われてしまったならば」
「縛罪府の将軍殿の言葉とは思えませんね」
「温厚篤実の象徴であるかのような、丹思様が紡ぐとは思えないお話を聞かされたからかもしれません」
「買い被り過ぎな言葉は、心にもないものですと悪意にしか受け取れませんね」
「買い被っている訳ではありませんよ。心にもないなどと言われてしまうのは残念でなりません。丹思様を前にして偽りを述べられる者などおりますまいに」
「そうでもありません。まだまだ未熟者ですから、自在に扱えないこともありますので」
……千茜様と話されているのを聞いていた時、漠然と思っていたことがあった。あの時はそれに対して何か思うどころではない状況だったから、今この時になって「そういえば」と思い出したくらい、特に気に止めていなかったのだけど……。
丹思様は、その可愛らしい容姿に反した、裏の顔みたいなものがあるようだ。普段は優しくて、皇子が大好きで、見ていると和む感じなのに、今はちょっと怖い感じになってしまっている。
「呪術が行われ、朱皇様は異世界へ飛ばされてしまいました。しかし、標を付与されていた朱皇様は、無事に戻られた。これで術は返されたことになります。では、標とは一体何なのでしょうか。ご存知の方はおられますか?」
「あらかじめ決まっているのものなのか?」
「僕が知る限りでは一つです」
訊ねられても、答えられる人はいなかった。皆の目が私に向けられているのは、答えを期待されているからなのか、それとも皇子の恩人ということになっているから、ヒントを見つけようとしているからか。どちらにしても居心地が悪い。
「そういえば、青子さんが朱皇殿下と共にこちらへ渡ってしまったことに、丹思様は何も疑念を抱いてはいらっしゃらなかった。それは、いずれ青子さんが現れるであろうことをご存知だったからなのですか?」
「その通りです」
蒼慈さんの問い掛けを機に、私から丹思様の方へと視線が流れる。
「標は『愛情』。心からお守りしたい、助けとなりたい。そういった思いを持った方の血を得ること、なのです。そしてその方は、その後も支えとなる為に同じ世界へと渡ることになるのです」
「血……?」
愛情と言われてドキリとしたけれど、庇護欲的なものだったら確かに私は持っていたから、そういうことかと納得する。その後も云々についてまでは納得出来ないけれど、飛ばされる対象者は相当に憎まれているから、庇護する存在が必要だというものだろうか。全く役に立てる気がしないけれど。
そして、血とはどういうことかと考え、首筋をおさえた。
皇子の口が「あ」と思い出したように開かれる。
小さい姿の皇子を抱き締めたら暴れられて、爪で首筋を引っ掻かれて血が出た。確かそんな時に異変が起きたんだ。
「で、でも、血が出たの、少しだけですよ? 本当に、ちょっと引っ掻かれたというか、爪が当たっちゃったくらいな感じでしたから」
話だけだとたくさんの血が流れたと誤解されてしまうかもしれないと――何しろ、異世界へ飛ばす為の生け贄の数が尋常ではないようだから――慌てて言い訳のように言う私の言葉に、玖涅くんが「そういうことかよ」と安堵したようなことを呟いていたから、この補足は正しかったと思う。
蒼慈さんもこちらを窺うような目を向けていて、目が合うと少し戸惑ったように逸らされてしまった。
「では、標の件を知っていて、青子さんが朱皇殿下の標であったかどうかを確認する為に、今回青子さんが狙われたということになったのだとすると」
小さく咳払いをしてから、蒼慈さんが改まった様子で話を戻す。
「全てを看過したような行動を取られ、また、それを匂わすことを告げられた丹思様は……朱皇殿下の一件について、何か関わりがあるのではありませんか?」
それは多分、皆が抱いた疑念。
丹思様の後ろに控えている二人は、もしかしたら知っていることなのかもしれないけれど。
皇子の瞳が不安に揺れる。
そんな筈はない。と否定する気持ちの方が大きかった。だって、もしも丹思様が関わっていたとするなら、丹思様も朱皇皇子をこの世界から追放しようとした人の仲間ということになってしまう。
まさか、そんな訳ない。
浮かんだ悪い考えを頭の中から振り払おうとしたところで、丹思様は悲しげな表情で答えを口にした。
「関わりがなかったと言えば、嘘になります。朱皇様が異世界へ飛ばされてしまうことを事前に知り、標を付与したのは僕ですから」
朱皇皇子の機嫌は、この上ない程に悪かった。
円卓を中央に据えた会議室。丹思様のお屋敷内にあるそれの、八つある席のうち半分だけが埋まっている。
一つずつ席を空ける形で、扉から一番離れた奥から時計回りに、皇子、丹思様、蒼慈さん、私の順に座っており、丹思様の後ろに二人の妖狐族の青年が、そして蒼慈さんの後ろに玖涅くんが物凄く緊張した面持ちで控えていた。
時間を定めて呼び出された訳ではなく、たまたま蒼慈さんと玖涅くんの来訪を受けて、それから丹思様が皇子と私をこちらに連れて来たのだ。
少し前まで、お茶を煎れてくれた章杏さんが私の傍にいてくれたけれど、丹思様が口を開いた辺りで出て行ってしまった。
話の内容は、丹思様と私が神殿に赴いた際に、外套姿の者たちからの襲撃を受けたことだ。
そこへ千茜様が現れて――あの時連れていた制服姿の人たちは親衛隊だったようだ――捕物をしたこと、私が怪我をしたことと連れ去られそうになったこと。それらを聞くうちに皇子の機嫌は悪い方に傾くどころか、その針を振り切ってしまったようなのだった。
「何故、俺を連れて行かなかった? 青子で釣れると判断した理由は何だ」
「朱皇様をお連れしたら、隠している意味がありません」
「だが俺ならばまだ、自分で自分の身を守れたぞ」
「ご自分のお体のことを理解しておいでではないのですか? 本調子ではない上に、投薬の副作用でろくに力も入らない状態ではありませんか。神殿どころか城まで歩くことすら可能だったとは思えません」
「だからって、何故青子なんだ。青子に怪我を負わせ、兄上の手を煩わせ、結果お前は何を得た?」
「…………」
ピリピリとした雰囲気に、居た堪れない気持ちになる。
二人の言い合いに、誰も口を挟まない。否、挟めなかったのかもしれない。
「蒼慈殿。縛罪府の方には、どのように伝わっておりますか? さすがにあの人数を捕縛して、それでも千茜様が内々におさめられるなど無理なことでしょう」
皇子から目を逸らすようにして、丹思様が蒼慈さんに訊ねる。
「こちらでは、人身売買目的の拐かしという名目で牢に収容しております。青子さんが被害者であったことは聞き及んでおりましたが、青子さんは珍しい人族ですから狙われるのも当然と思われます故、その名目に疑念を抱くこともありませんでした。……丹思様は他に何かあるとお考えなのですか? わざわざ連れ出されたことに結び付く理由が」
淡々と言葉を紡ぐ蒼慈さんは、皇子程ではないけれど、こちらも不機嫌そうに見えた。真面目な話をしているからそうなっているだけかもしれないけれど、何だか怖い。
「これまでの歴史の中で――黒狼族と白狼族との国が統合されるようになる遥か以前から、人族の姿を目撃した者は稀です。一時期は滅んだとさえ伝わっていた程に。それでも中には物好きな旅人となって現れることもあった為、昨今では幻の存在というまでには至っておりませんが、それでも頻繁に目にする訳ではありません」
丹思様の語り口に、何だか講義でも受けている気分になった。
「彼らが排他的であるといった事実はありません。ですが、あまりにも得体の知れない存在であることから、尻尾のない人族を、同じ尻尾のない天羽族の『羽根つき』と同様に『尾なし』と呼び、少しの畏怖と多くの蔑視を持っています」
不意に、こちらの世界に来てしまった時のことを思い出す。確かにそんな呼び方をされた気がした。尻尾がないのは罪人だとか聞いたような気もする。狼族にとって尻尾というのはとても重要なものなのだろう。だから、朱皇皇子が尻尾のブラッシングを嫌がって、ごわごわした感じになっているのを放置してしまうことを、章杏さんたちが大いに気にしているのかもしれない。
ちなみに今日の尻尾の具合は、毛先がちょっとぼわっとしていた。
「人族の解釈はいい。だからって何故、青子が俺の代わりになったんだ。そいつらは青子が異世界の住人だったなんてことは知らない筈だろう?」
皇子がテーブルの上で指をトントンさせ、答えを急かす。
丹思様はそんな皇子に申し訳なさそうな表情をして、話を続けた。
「皆さんはご存知ないと思われますが、異界の扉については臆測も含めて様々な制約があります」
「それは前に聞いた。数百の生け贄が必要だとか、標がなければ戻れないとか、そういうものだろ?」
「はい。ですが――扉の出現や開く為の条件は、実は一つではないのです」
「……どういうことですか?」
蒼慈さんの声音が一層冷たいものとなる。
「何故そのようなことを丹思様が知っておいでなのです?」
「――」
質問に対する答えに窮した様子でもなく、丹思様が黙する。そして、こちらが痺れを切らす寸前を見計らうようにして再び口が開いた。
「僕の母が、呪術に精通していたからですよ」
私に異界の扉のことを話してくれた際に口にしなかったことだったから、今回の件がなければ知ることはなかっただろう。
「僕の母は妖狐族です。妖狐族の殆どが呪術に精通していますが、母の力は他の妖狐が認め、尊敬する程強いものであったそうです。皇帝に見初められて側室になりましたが、そこに呪術的なものは関与していません。それどころか、母が亡くなったのは皇帝の身代わりとなったからです」
「何だって?」
知らなかった事実を知らされたことで、皇子は声を発したものの、掠れた頼りないものになっていた。
「では、陛下は呪術によっての暗殺を謀られていたと?」
「はい。これは僕の臆測に過ぎませんが、十年以上前から計画されていたものと思われます。僕の幼い頃の記憶にある母は、いつも何かに苦しめられているようで、それを返すことに必死になっていました。『返さなければならない』というのは母が口にした言葉ですが、それは呪詛返しを意味していたのではないかと思うのです」
話の内容が重い……というか、あまり口外するタイプのものではないようなものに変わってしまったけれど、それを私が聞いていて良かったのだろうか。と、落ち着かなくなる。
「異界の扉は、呪詛に等しいものです。激しい憎しみや恨みを抱いた相手を、死とは違う形で葬るのですから」
「ただ殺すのでは気が済まないから、言葉も文化も生物形態も異なる世界に送って、相手が路頭に迷うどころか狂い死んだりすることを妄想してスッキリするものなのか? 目の前で息絶えるのを見た方が良さそうに思うんだが」
呆れと怒りの混じった調子で皇子が言う。
これまでの態度から、それに同調するように思われた蒼慈さんは、逆に理解を示すように頷いた。
「自分が手をかけても問題がない相手でないならば、そういった手段を求めるかもしれませんね。或いは、殺しても殺し足りないというまでに、憎しみに囚われてしまったならば」
「縛罪府の将軍殿の言葉とは思えませんね」
「温厚篤実の象徴であるかのような、丹思様が紡ぐとは思えないお話を聞かされたからかもしれません」
「買い被り過ぎな言葉は、心にもないものですと悪意にしか受け取れませんね」
「買い被っている訳ではありませんよ。心にもないなどと言われてしまうのは残念でなりません。丹思様を前にして偽りを述べられる者などおりますまいに」
「そうでもありません。まだまだ未熟者ですから、自在に扱えないこともありますので」
……千茜様と話されているのを聞いていた時、漠然と思っていたことがあった。あの時はそれに対して何か思うどころではない状況だったから、今この時になって「そういえば」と思い出したくらい、特に気に止めていなかったのだけど……。
丹思様は、その可愛らしい容姿に反した、裏の顔みたいなものがあるようだ。普段は優しくて、皇子が大好きで、見ていると和む感じなのに、今はちょっと怖い感じになってしまっている。
「呪術が行われ、朱皇様は異世界へ飛ばされてしまいました。しかし、標を付与されていた朱皇様は、無事に戻られた。これで術は返されたことになります。では、標とは一体何なのでしょうか。ご存知の方はおられますか?」
「あらかじめ決まっているのものなのか?」
「僕が知る限りでは一つです」
訊ねられても、答えられる人はいなかった。皆の目が私に向けられているのは、答えを期待されているからなのか、それとも皇子の恩人ということになっているから、ヒントを見つけようとしているからか。どちらにしても居心地が悪い。
「そういえば、青子さんが朱皇殿下と共にこちらへ渡ってしまったことに、丹思様は何も疑念を抱いてはいらっしゃらなかった。それは、いずれ青子さんが現れるであろうことをご存知だったからなのですか?」
「その通りです」
蒼慈さんの問い掛けを機に、私から丹思様の方へと視線が流れる。
「標は『愛情』。心からお守りしたい、助けとなりたい。そういった思いを持った方の血を得ること、なのです。そしてその方は、その後も支えとなる為に同じ世界へと渡ることになるのです」
「血……?」
愛情と言われてドキリとしたけれど、庇護欲的なものだったら確かに私は持っていたから、そういうことかと納得する。その後も云々についてまでは納得出来ないけれど、飛ばされる対象者は相当に憎まれているから、庇護する存在が必要だというものだろうか。全く役に立てる気がしないけれど。
そして、血とはどういうことかと考え、首筋をおさえた。
皇子の口が「あ」と思い出したように開かれる。
小さい姿の皇子を抱き締めたら暴れられて、爪で首筋を引っ掻かれて血が出た。確かそんな時に異変が起きたんだ。
「で、でも、血が出たの、少しだけですよ? 本当に、ちょっと引っ掻かれたというか、爪が当たっちゃったくらいな感じでしたから」
話だけだとたくさんの血が流れたと誤解されてしまうかもしれないと――何しろ、異世界へ飛ばす為の生け贄の数が尋常ではないようだから――慌てて言い訳のように言う私の言葉に、玖涅くんが「そういうことかよ」と安堵したようなことを呟いていたから、この補足は正しかったと思う。
蒼慈さんもこちらを窺うような目を向けていて、目が合うと少し戸惑ったように逸らされてしまった。
「では、標の件を知っていて、青子さんが朱皇殿下の標であったかどうかを確認する為に、今回青子さんが狙われたということになったのだとすると」
小さく咳払いをしてから、蒼慈さんが改まった様子で話を戻す。
「全てを看過したような行動を取られ、また、それを匂わすことを告げられた丹思様は……朱皇殿下の一件について、何か関わりがあるのではありませんか?」
それは多分、皆が抱いた疑念。
丹思様の後ろに控えている二人は、もしかしたら知っていることなのかもしれないけれど。
皇子の瞳が不安に揺れる。
そんな筈はない。と否定する気持ちの方が大きかった。だって、もしも丹思様が関わっていたとするなら、丹思様も朱皇皇子をこの世界から追放しようとした人の仲間ということになってしまう。
まさか、そんな訳ない。
浮かんだ悪い考えを頭の中から振り払おうとしたところで、丹思様は悲しげな表情で答えを口にした。
「関わりがなかったと言えば、嘘になります。朱皇様が異世界へ飛ばされてしまうことを事前に知り、標を付与したのは僕ですから」
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