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第伍話

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「敵襲です!」
 
 そんな声が朱皇の耳に入る直前、無遠慮に部屋のドアが開かれ、またそれをした者が普段は他人行儀なまでに礼を欠いた真似をしない丹思であった為、我が目を疑って呆けた様子を見せた。
 
「申し訳ありません、朱皇様。急ぎ屋敷から離れて下さい」
「今、敵襲と聞こえたが?」
 
 何かの予行練習でも始めたのかと考えたのは、この屋敷を訪問した縛罪府将軍蒼慈と、人手が足りないことから雑事を任されている内官理の玖涅が青子と共にいるからだ。もしもの時に備えての警護と妖狐族の監視が目的であるらしいが、そのもしもの時を想定した演習でも行い始めたのでは? といった呑気な考えに至ったのには理由が他にある。
 妖狐族の結界が張り巡らされているこの屋敷に、侵入を果たせる者などいないという絶対的な信頼だ。正面から普通に訪れる者には結界の力は及ばないが、それ以外からでは例え上空を通過するだけの鳥であろうと、迷い込んで来た獣であろうと意識操作で方向転換させてしまう。侵入しようなどという者を文字通り跳ね返すという仕掛けがある為、逆手に取るならば堂々と正面から乗り込んだ方が敵も侵入しやすいのであった。
 しかし、丹思は朱皇を廊下へと促しながら「結界が破壊されました」と苦い表情で言う。
 
「青子様に怪我を負わせ、拐おうとした者たちと同じ輩です。まさかここまで踏み込んで来られるとは思いもしませんでした」
 
 朱皇はこれは夢なのではないかと逃避しかけた。先程まで、自分が尊敬し慕う存在である千茜と、自分を慕い何かと世話を焼きたがる丹思とが、互いに疑念を抱き、それがこれまで起きた事件に関与或いは首謀者であるとしているという事実、そして自分が異世界へと飛ばされたことに関して丹思がしたこと、現皇帝の潭赫たんかくが呪いを受けていたことなど、様々な、それこそ思いもしなかったことを知らされ、未だ心の整理がついていなかった。
 自分はとことん考えが甘いのだと思う。今まで流れに付き従えば何とかなってきていた。それら全ては千茜と丹思がいてくれたからこそだ。異世界へ行って儘ならないと感じていた時も青子が現れた。本当の窮地に立たされ、自身で判断を下し、自ら何かと正面切って戦い抗うことなど一度としてなかった気がする。

 バリンッ、と不意にガラスが破裂したような音が聞こえた。随分と離れた位置ではあるが、あれは青子のいる部屋の方角ではなかったか。
 
「俺のことはいいから青子を!」
「青子様ならば問題ありません。あちらには将軍殿が。それに既に向かわせております」
 
 丹思が朱皇の腕をガシリと握りながら小走りで階段を下りていく。朱皇はそれに引き摺られ、丹思がどうする気なのか自分はどうすべきなのかを考える。
 
「!」
 
 廊下を左折した瞬間、前方より迫り来る一団があった。黒い外套に黒く塗り潰された顔、銀色に輝く瞳。丹思らを襲撃し、青子を拐おうとした者として聞き及んでいた者の姿だ。
 
「これは朱皇殿。お飾り程度の扱いでも、皇帝の座が惜しくて黄泉より生還なされておいでか」
「何だと?」
 
 足を止めさせ、先頭にいた者が一歩進み出て言う。
 黄泉というのは死を示すものではなく、異世界という意味であろう。
 
「丹思様、朱皇様。ここは我々が」
 
 二人を背に庇うように妖狐族の青年たちが回り込む。どちらも会議室で丹思の後方に控えていた者だ。
 しかし「否」と朱皇は青年たちの間を割って入ると、部屋を飛び出した際に咄嗟に掴んだ長剣の鞘を腰帯に差し込み、柄に手をあてた状態で外套姿の者を見据える。
 
「折角ここまで来たのだ。手合わせくらいしてやらねば、客のもてなしも出来ぬと民に笑われてしまう」
「いけません! 今の朱皇様のお身体では……っ」
「丹思。黙っていろ」
「っ」
 
 一瞥と共に吐かれた言葉に、丹思は目を見開く。
 
「ほう。やれますかな? 以前お会いした時よりお痩せになられたご様子。黄泉より生還なされて後、何者とも知れぬ者からの悪意が恐ろしくて、震えておいでではございませんでしたかな?」
「貴様が誰か知らんが、戯れも度を過ぎれば罰を受けねばならんことを、きっちり教えてやる」
 
 グルルッと朱皇が唸り声を上げた。
 外套姿の者たちが手にしていた武器を構え始める。
 一団の数は八。それほど広い廊下ではない為、通常であれば一斉攻撃は難しい。
 だが、懐に入れられてしまえば、袋叩きに遭うのは目に見えていた。
 
「では、お手並み拝見!」
 
 ガキンッ、と一団を率いていると思しき者が先陣を切り、朱皇が素早く抜き放った剣の鍔近くでその刃を受け止め、腰を入れて押し退ける。
 しかし離れたのは一瞬のこと。再び幅広い刃で殴り掛かるような攻撃をかわし、朱皇は壁を利用して三角跳びの要領で相手のやや後ろの上方から首の辺りに踵落としを食らわせた。
 
「ガハッ……!」
 
 前のめりによろけたその者に対し、妖狐族の青年たちも見物を決め込むことはなく、その者の武器を奪ってから腹部へと突き立てる。
 そして直ぐ様、朱皇を幻術にかけようとする気配を察し、術者へと幻術を放った。
 
「ウギャアッ、何だこれはっ。何でこんなところに蜘蛛がっ……うわぁぁぁっ!!」
 
 大量の蜘蛛が襲い掛かっている幻に、術者が暴れ回り、仲間の動きを鈍くさせていく。
 一方、闇の中に放り込まれたような術中にはまりかけた朱皇だったが、相手が動く際にどうしても隠せない大気の揺らぎによって攻撃の手を読み取ることが可能であった。故に、視界がすぐに良好になったことの方に僅かに気を取られたようだったが、外套姿の者たちが一人の取り乱し様に混乱した隙を突いて、青年らと共に全ての者に致命傷を与えた。
 
「態度だけは一人前だったが、やはりこんなものか。拍子抜けにも程がある」
 
 ただ一人、幻術で蜘蛛を相手にしていた者だけがなかなかに厄介であったが、怯えて武器を振り回す動きに慣れれば一撃で終えられた。
 外套を剥げば全員が妖狐族だった。しかし、見知った顔はいない。朱皇を知っているようであった者の顔も、黒く塗られているとはいえ全く覚えのないものだった。
 
「朱皇様、無理はなさらないで下さい」
「今までろくに動かずにいたからな。感覚を取り戻すのにちょうどいいと思っただけだ。無理をしたつもりはない」
 
 青年たちが死体を脇に退けて行くのを眺めながら、軽く諌めるように口を開いた丹思に、朱皇は拗ねたように答える。
 戦闘には向かない丹思の傍から、青年たちを離したくなかったこともあるが、それは口にしないでおく。
 
「あちらの抜け道を使います。まだ奴らの仲間が他にいるかもしれません。どうか慎重にお進み下さい」
「抜け道ならば、この手前にもあるだろ」
「そちらは青子様にご利用頂きます」
「……そうか。ならいい」
 
 頷き、青年が開けた隠し通路へと入り込む。
 丹思の母親の元へ訪れる為に、城からの脱出経路である洞窟とこの屋敷を繋げる通路を最初に作ったのは、潭赫だった。作ったといっても職人に命じただけであるが。そしてそれを朱皇が面白がってあちこちに洞窟への通路を作らせたのだ。かくれんぼをしてもすぐに見つかってしまうつまらなさから、その遊び場を屋敷から洞窟内に変更させる為に。或いは悪戯をして怒られることから逃れる為に。また或いは、いつか必要となることを予見したように。
 
「青子を逃がすのはいいとして。何故俺まで逃げねばならんのだ。あの者は、大袈裟な芝居染みた言い方をしていたが、俺がここにいることなど、とうに知っていたようだったぞ」
「ええ。どうやらそのようですね」
「お前、まだ何か隠しているだろう?」
「――申し訳ありません。青子様を神殿へお連れした件ですが……」
 
 躊躇うように言葉を止めたのは、青年たちの耳を気にしてか。
 
「実は、確認の為でもあったのです」
「確認?」
「はい。僕の身内に、情報を漏らしている者がいないかどうか、と。残念ながら疑いが確信となっただけで、それが誰であるのか分かっておりませんが」
「屋敷の中にあいつらの仲間がいると?」
「僕が至らないばかりに」
「そんなことは決して!」
 
 苦し気に目を伏せた丹思の言葉を切り、青年が声を上げてハッと口を押さえる。
 
「丹思様は何も悪くありません。我らの心は一つであらねばならないのに、二心を持つ者がいるとは……」

 口を押さえた方にやや厳しい眼差しを送ったもう一人が、声を抑えながら言葉を引き継ぐ。
 
「青子の元に誰がいる?」
「章杏です。あの子は大丈夫ですよ。それに万が一のことが生じても、玖涅殿もおられます。将軍殿が無能な者を傍に置いておくとお思いですか?」
 
 
 
 
 自分のことを噂されているなど露知らず、玖涅がぱかりと目を開けた。
 洞窟内にある「黄龍の逆鱗」で青子と二人で残され、空腹を満たしてごろごろしていた彼であったが、跳ね起きてからの様子はそれまでの彼と些か違うようである。
 こっそりと、しかし素早く青子の隣に移動すると、すっかり眠ってしまっている青子に顔を近付ける。匂いを嗅ぎ、頬をつつき、胸の上に手を置いて鼓動を確認。
 
「いっけね。これじゃ痴漢じゃん。でも青子は寝てるしー、誰もいないから大丈夫」
 
 わざとらしいまでに慌てて離れる玖涅。独り言も、まるで誰かに聞こえるように言っているものと思われた。
 ぐりん、と先に顔だけ振り向き、後でゆっくりと身体を正面へ向ける。そうしながらニヤニヤと笑った玖涅は、再び聞こえるように独り言を始める。
 
「睡眠薬、よく効いてるっすよー。臭いでバレないように腐ったモンわざといれたっしょー? 乾燥黄果(ドライフルーツのマンゴーのようなもの)の甘ったるい匂いと一緒でもバレバレだったからねー」
 
 ふふん、と腰に手をあてて胸を張るが、近くには誰の姿もない。
 
「まあお陰で、青子は見なくていいものを見ずに済む訳だから、一応感謝しておくっすよ。……んで、さ」
 
 玖涅の笑みが凶悪なまでに歪められる。それは、普段の退屈そうで気の抜けた、人懐っこそうでいて臆病な印象を与えていた少年のものとは思えないもので。
 だから、気配を消して潜んでいた者が息を呑み、動揺したことを気取らせたのは仕方ないことと言えよう。
 時間をかけて行った調査の何処にも、彼の今の姿を報告するものはなかったのだから。
 
「機嫌のいいうちに出て来て下さいよ。そうじゃなきゃ、ここ、血の臭いで充満させちまうことになる。そしたら、おとなしく寝てる子が怖い夢見ちゃうでしょ」
 
 玖涅の尻尾が揺れる。
 痺れを切らせて顔から笑みが消えかけた頃、自分の周囲を幾つもの狐火が浮かんでいることに気づく。
 
「ざーんねん。俺、狐の幻術、効かないんすよね」
 
 今頃は狐火の中に、玖涅が苦手とする回収の仕事で目にするものが映り、本来ならば怯えて腰を抜かしていたであろう。
 
「本当、嫌なんすよね。――だって、自分が確実に殺った手応えを感じたモノじゃなきゃ、本当に死んでるかどうか分からないじゃないっすか。俺、お化けとゾンビは怖いんだよねー……ってことで、殺りますか」
 
 タンッと軽く地を蹴った玖涅。相手からすれば一瞬で目の前に移動されたと感じただろう。がしかし、そんな思いを抱くより先に意識が奪われ。
 
「なんてね。殺さないっすよ。だって怖いし」
 
 無邪気そうな声がその者の耳に届いたかどうかは、分からない。
 
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