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第陸話

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 目を覚ましてから、ここが何処で、どうして自分がこんなところにいるのか、理解するまでに時間が掛かった。
 玖涅くんが移動している。私がうっかり寝入ってしまうまで、眠ってしまったような玖涅くんがいたところとは随分離れたところに座っている。
 この秘密の空間「黄龍の逆鱗」の入り口付近にあたる場所で、私が見ていることに気付いて手を振ってくれているのだけど、あんなところに腰掛けられるようなものはあっただろうか。
 
「もう起きちゃったんすか? ゆっくり寝てて良かったのに。――量が少なかったのかな」
 
 後半、独り言のようだったけど、声が僅かに反響するからか、何となく聞こえてしまった。もしかして私は睡眠薬を飲まされたのではないだろうか。
 それはいつだろうかと考えるまでもなく、思い当たることがあった。お水を貰った時だ。
 お水を汲んでくれた時、玖涅くんの上半身は見えない角度にあった。それは壁に阻まれていたから仕方ないことだとしても、手元が見えない状態なら、何かを混ぜることなど容易いことだ。
 でも、私を眠らせてどうする気だったのかと考えると答えが浮かばない。
 仮に私に何かをするつもりだったとしても、身体の何処にも痛みはないし、或いはこうして目を覚ますことはなかっただろう。
 何処かに連れ去るにしても、私自身は全然移動していない。
 それらは、未だされていないというだけで、これから起きることなのだろうか。だから薬の量が少なかった、とか、ゆっくり寝てて良かったのに、と言われたのではないか。
 ――まさか。
 私は自分で自分の考えを打ち消す。
 だって、玖涅くんがそんなことをする筈がない。縛罪府の直属じゃなくても、蒼慈さんの手伝いに駆り出されていたような人なんだから、それなりに信用されているに違いないのだ。そうじゃなきゃ、いくら忙しくて人手が足りないからって、他のところに属している少年を「将軍」という地位の人の傍には置かないだろう。
 眠っている間に凭れていた壁から身体を起こす。
 ふらふらするし、力が抜けそうになる。普段から睡眠不足だったりする訳じゃないのだから、転寝したくらいでこうなるのはやはりおかしい。
 ならば、薬は本当に盛られていた……?
 
「大丈夫?」
 
 玖涅くんが心配するような声を投げて来る。けれど何故かそこから動こうとしない。
 私が眠ってしまう前とは位置が違うけれど、もしかすると玖涅くんも私と同じ状況で、動けなくなっているのではないだろうか。――と考えたけど、それだと先程の言葉が玖涅くんの口から漏れるのは不自然だ。
 そういえば、あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。ここで合流する筈の朱皇皇子と丹思様は、まだ来られないのだろうか。
 それに……。と私は玖涅くんの足元を注視する。
 少年が座っているのは一体何だろうかと気になった。腰掛けるにしては少し低くて座り難いように見える。そんなところを選ばなくても、他に手頃なところがあるのに。
 考えるのが面倒になって、瞼も再び落ちようとしているけれど、なんとか堪えて立ち上がる。
 
「あっ」
 
 声をあげたのは玖涅くんだ。私がふらついて倒れそうになったから。
 それでも彼はそこから動かない。それは、動けない理由があるからなのだ。
 
「まだ、誰も来てないの……?」
 
 そう訊ねながら近付いていく。
 自分の発した声があまりにもだらしなくて、恥ずかしさを覚えて、纏わりついてくる眠気を払うべく、目の周辺を押さえている間に、玖涅くんから曖昧な返答を聞かされた。
 
「来たような来ないような……っていうか、お呼びでないのなら来ちゃったって感じっすねぇ」
「……?」
 
 それは、皇子たち以外の訪問者があったということか。だから玖涅くんがこんなところにいるのだな、と納得仕掛けたのも束の間。
 
「えっ?」
 
 近付いてはじめて明確に捉えられたそれを見て、目を疑う。
 玖涅くんが座っているもの。それは、黒い外套を纏った妖狐族の人の上だったのだ。
 フードを取らされた頭上の耳まで黒く染められていたけれど、その形や大きさから狼族とは違うと分かる。もしかすると尻尾まで染めているのかもしれない。
 
「こいつね、ここに一緒に来た狐が出て行ったのと同時に入り込んだみたいなんすよ。最初から潜んでた感じはなかったんで」
「狐って……章杏さんのこと?」
「多分それ。俺、名前分かんないんで。ああ、薬混入させてたのもコイツらっすよ。まあ、食べさせたのは俺だけど」
「……?」
 
 食べさせた? ということはお水ではなかったということだ。とすると、あのドライフルーツに睡眠薬が? けれどあれは棚の中にあったもので……。それじゃ、そもそもの狙いは……。
 
「朱皇殿下に食わせたかったんじゃないっすかね。甘いもの好きって俺でも聞いたことあるくらいなんで、結構有名っすから」
「――」
 
 ならば、今回の襲撃はここに皇子が逃げ込むことを前提として行われたということになる。
 じわじわと嫌な感覚が広がっていく。ここが誰もが知る皇子たちの遊び場であるなら、こんな気分にはならない。章杏さんが狐火を鍾乳石の一つに叩き込まなければ開かなかったような場所だ。そして緊急事態に落ち合う場所として定めているならば、一部にしか知る者はいない筈。ということは……。
 
「ああ、こいつなら気ぃ失ってるだけなんで死んじゃいないっす。起きた時に逃げられないように重石になってるだけっすよ」
 
 私がじっと黒塗りの妖狐族を見下ろしていたからか、安心させるように言われたけど、元より玖涅くんが殺してしまったなんて思っていない。
 
「あれから随分時間経った? 皇子たちが来ないのって、何処かで襲われているんじゃないかな」
「うーん。襲われてるのは確かだけど」
「えっ?」
「青子が行っても邪魔になるか人質になるか、悪い方にしかいかないと思うから、ここでおとなしく待ってた方がいいっすよ。……それより」
 
 襲われていると、どうして玖涅くんが分かるのか気になるけど、思わず入り口の方へ駆け出そうとしかけたところで、尤もなことを告げられ足を止める。
 だいたい、入って来たところは既に閉ざされているのだ。章杏さんのいない今、どうすれば開くのかも分からないのだから、出て行くことすら不可能だった。
 
「何で、睡眠薬が混入してんの知ってて、俺がそれを青子に食べさせたのか、疑問じゃないんすか? 睡眠薬だったから良かったけど、毒だった可能性もあるのに」
「……」
 
 毒。そうか。皇子を狙っていたなら、寧ろそっちを警戒するべきだった。といっても、そんなこといちいち考えたりしないから、予め強く言われていなければ疑うこともしない。
 そんなだから、どうして玖涅くんが私に睡眠薬が入ってると分かって、ドライフルーツをくれたのか。なんて、訊かれても、困る。
 
「あー……成程。青子って周りに流され易いでしょ。簡単に身を任せちゃうから、途中で疑問に思っても『まぁいいか』って済ませちゃうの。そーいう方が楽っすもんね」
 
 呆れられているのだろうか。投げ遣りな感じに聞こえる口調で言われ、胸に痛みを覚える。
 楽に生きてるように見えるだろうか。自分の意思がないように思えるのだろうか。抵抗しようとしても術がなく、どうにもならないこともあるし、流れに逆らってまで何かをしたいとか、貫きたいものなんてなかった。それは、いけないこと?
 
「ぅえっ、泣く? もしかして今ので傷付いちゃったりしちゃったんすか?」
 
 そう思われるような顔をしていたのだろうか。玖涅くんが焦ったような困ったような様子になる。
 
「ううん。参考にしてみるよ。ありがとう」
「否、礼なんか言われることじゃ……」
 
 と、耳を垂らせた玖涅くんだったが、すぐにピンと耳を立て、下敷きにしていた妖狐族の人を押さえつけながら僅かに腰を浮かせる。その視線は入り口の方で、私もつられてそちらに目を向けると、石筍が下降して入り口が開いていくのが見えた。
 
「青子、無事かっ?」
 
 人がなんとかすり抜けられるくらいの隙間から、朱皇皇子が慌てた様子で入って来たかと思うと、開口一番がそれだった。
 
「……はい。無事です」
 
 その勢いにびっくりしながら答えると、皇子がホッとしたような笑顔になる。
 
「玖涅殿、青子様をお守り頂き、感謝致します」
 
 続いて丹思様も入って来て、玖涅くんを労った。
 途端に玖涅くんはガチガチに緊張してしまって、尻尾の毛をぼわっと膨らませながら「滅相もございますん」と噛みながら答える。
 少し間があって、妖狐族の青年二人と蒼慈さんが現れた。三人とも剣を鞘に納めながら入って来たから、ついさっきまで誰かと斬り結んでいたのだろう。
 
「玖涅。その者はいつ? 一人だけでしたか?」
「あい。うぅ、はい。一緒に来たしょーあんって奴が出て行った時に入って来たみたいっす」
 
 まだ相手が気を失ったままでいるのを確認して立ち上がりながら、玖涅くんが蒼慈さんに捕まえた時の状況を説明する。丹思様も傍にいて聞いているからか、声が上擦ったりカミカミになったりして大変そうだ。
 そして私の方もちょっと大変だった。何故なら。
 
「青子、顔色が良くないな。立ってないで座っているといい」
 
 私の頬を両手で挟むようにして触れながら、じっと間近で見つめられ、呼吸が止まりそうだった。
 皇子は本当に距離感がないのではと疑う程に、近くまで顔を寄せて来るのだ。
 そうして鍾乳石の塊の上に座らされた後も、怪我はないか、怖い思いをしなかったかと訊いてくる。部屋でのガラスが割られる音を耳にしていたらしいこともあって、凄く心配させてしまっているみたいで、申し訳ない気持ちになる。
 
「俺がもっと早く、行動を起こしていれば……」
 
 悔やむ皇子に頭を振ることしか出来ず、かける言葉を探していると。
 
「丹思様、ご報告申し上げます」
 
 入り口はまだ閉ざされていなかったのか、栞梠さんが飛び込んで来たかと思うと。
 
「どうしました?」
「――章杏が自害いたしました。内通者は彼女だったのです」
 
 ――――。
 
 耳鳴りがした。
 身体の力が抜けて皇子に支えられたのが分かるのに、自分で自分を支えられない。
 自害って。あの章杏さんが、内通者って。そんなの、嘘だ。
 聞き間違いだと思いたい。それか、この世界では「自害」という言葉が、私の知る意味とは違うものであって欲しい。
 最後に見た章杏さんの笑顔を思い浮かべ、滲む視界に目を閉じた。
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