上 下
37 / 49
第漆話

しおりを挟む

 ただ黙っているだけの私に、蒼慈さんは眉間にシワを寄せると、盛大に溜め息をつく。

「嫌なら、叩くなり引っ掻くなりして下さればよいものを」
「!」

 蒼慈さんの手が、また私の頬に伸びようとした時、硬直したように動けずにいた足が、一歩後退した。
 何がしたいのかと問い質したい気持ちはあるけど、自惚れでも何でも、もしも蒼慈さんの中に私に対しての恋愛感情があるのだとしたら、それに応えられない私が聞いていいことじゃないのじゃないかと思う。

「誓いならば、あなたと、朱皇殿下の名のもとに」
「――?」

 蒼慈さんが右手を胸にあてて僅かに頭を下げた。

「わたしは、たとえ千茜殿下が皇帝になることがあったとしても、真実の誓いを口にするのはあなた方だけと決めております」

 朱皇皇子を皇帝に、と望んでいる蒼慈さんは、さっきの千茜様への誓いなんて口先だけのものだったのだと証明してみせた、ということなのだろうか。さっきのキスは。

「ああ、またそのように顔をしかめて。わたしはこれでも、あなたを自分の伴侶にと考えていなくもないのですよ? ただ、青子さんが朱皇殿下と結ばれるならば身を引きますが、それ以外であればどのような手を使ってでも、あなたの心を奪うつもりでおります」
「……私は……」
「このようなことを口にしている場合ではないのは、重々承知の上です。深刻な事態の中、慎むべきであることも。ですが、あなたはどうもご自分がどのように見られているか、全く理解していないようですので、危なっかしくて仕方ありません」
「……」
「わたしのように、ずるい男に捕まらないようにしていただきたいものです」

 狡い、なんて。自分で言っちゃうんだ。
 蒼慈さんは、その美貌だけで十分狡いと思うけれど。
 みんなが優しくしてくれるから、私はいつも勘違いしてしまいそうになる。朱皇皇子の恩人で、珍しい人族だからということだけで、大切にして貰っているから。
 だから、その厚意を好意だと受け止めてしまうことは間違いなんだって、そう思ってきたけど――。

「えっ?」

 蒼慈さんの唇を目にして、思わず声が漏れる。

「あの、それ……」
「先程の、報いですよ」

 唇に触れながら、それでも何でもないことのように言うけれど。

「でも、紫っぽくなっちゃってます」
「ええ、そうでしょうね」

 もしかして、私にキスしたから?

 「簡単に説明しますと、青子さんに手を出そうとすると、その者の体に制裁が下されるということですよ。手が痺れたくらいで済みましたが、先程の千茜殿下のお言葉ではありませんが、本気であなたを穢そうとすれば、これくらいでは済まなかったでしょうね」

 そう説明されたことの、制裁というものが、それなのだろうか。

「想いは報われずとも、こういった報いは待ちわびることなく、訪れるものなんですよねえ」
「そんな呑気なこと言ってる場合では……」
「自分が望んでしたことですから、問題ありません」

 いいえ、あると思います! そう言いかけた私に、蒼慈さんが唇をおさえていない方の手で「静かに」といった仕草をする。

「こっちっすよー! そーじさーんっ」

 花壇の先に見える小さな門の前で、玖涅くねくんが大きく手を振りながら、ピョンピョン跳ねているのが見えた。
 その近くには警備係の親衛隊の人がいて、だから中に入れなかったようなのだけど、蒼慈さんが片手を上げると門を開けて貰うことが出来て、一目散に駆けて来る。
 私の声を制したのは、自分が呼ばれていることに気付いたからのようだ。

「そーじさんそーじさーんっ」
「そんなに呼ばなくても聞こえていますよ」
「青子とえーっと、合挽きで……うん、粗挽きっすか?」
「何故そう間違えるんです? あなたにかかれば、艶めいた言葉も食べ物のようになってしまうのですね」
「うん?」

 逢引きという言葉を耳にしたことがあっても、意味を知らないのだろう。それと、昨夜の食事で出されたハンバーグに混ぜられていた胡椒が粗挽きで、玖涅くん的にはとても美味しかったらしい。
 それを踏まえて、さっき言われたことを思い返してみると、私がハンバーグにされてしまいそうで、ちょっと怖いものがある。

「それより、何かあったのですか? あなたには別のことを頼んでいた筈ですが」
「あー、はは。それなんすけどー」

 さっきまで、蒼慈さんに会えたのが嬉しかったのか、ふさふさの尻尾を千切れそうなくらいに振っていたのに、それが急に力を失う。

「はぐれちゃいました」
「――はい?」

 玖涅くんの言葉に、蒼慈さんの目がスッと細められる。

「気が付いたらいなくなっ……いだだだだだだだっ、グリグリしないで下さ……っ、ぎゃんっ」

 こめかみを拳骨でグリグリされた後で、その拳骨が頭上から落とされてしまう。
 涙目になって蒼慈さんを見上げた玖涅くんは、ピリッとした雰囲気で見下ろされていることに気付くと、尻尾をボワッとさせて私の背後に回り込んだ。
 肩に手が掛けられているところからすると、盾にされているらしい。
 ちょっと気になって振り向こうとすると、力を込めて阻止されてしまう。それどころか、盾というより人質扱いになってしまったようで、羽交い締めにされていた。

「玖涅」
「だって蒼慈さん怒ってるー。俺、怒られんのきらーい」
「子供みたいなこと言わないで、青子さんを放しなさい」
「やだー。青子から離れたら意地悪されるもん」
「しませんよ、そんなこと。だいたい、遊んでいる場合ではないでしょう。早く捜さなければ」
「私も、お手伝いします。どなたとはぐれたんですか?」

 特に抵抗もせずに、おかしな格好になってるんだろうなと思いながら訊ねると、玖涅くんが何かに気付いたように、羽交い締め状態から抱き締める形に変わった。

「蒼慈さん、具合い悪いんすか?」
「違いますよ」

 唇が変色しているのを見てそう言ったのだろうけど、私はキスされたことを知られたような気がして、ドキリと鼓動が跳ね上がる。

「それより、あなたは何ともなさそうですね」
「ん……何がっすか? 腹は減ってますよ?」
「そんなことは訊いてませんよ」
「いだっ」

 玖涅くんが私の尻尾(という名の髪)をバサバサと弄り始めたところで、蒼慈さんからチョップされたようだ。
 よろよろしながらしゃがみ込み、頭をおさえる。

「青子さんに触れないようにと、教えてありませんでしたか?」
「あう? 下心があったら駄目ってヤツっすよね? でも俺、狐の術は効かないんで」
「……ああ、そうでしたね」
「ついでに、青子に下心とか、全然ないっすから、そういう意味でも大丈夫っす!」
「術が効かないならば、信用度は低いですね」
「えーっ」

 そこで玖涅くんが拗ねてしまったようだけど、玖涅くんは白狼族の女性にしか興味ないと言っていたのだから、信用してあげて欲しい。
 失礼な妄想だけど、蒼慈さんのことが大好き過ぎて、白狼族の女性すらも目に入っていないんじゃないかと、そんな風に思えてならないくらいだし。

「ところで、何処ではぐれたのです? 城内ですか?」

 話を戻されて拗ねるのをやめた玖涅くんは、ちょっと困ったように耳を垂らせて。

「ここっす」
「?」
「このお屋敷の外で、気が付いたら壁乗り越えてて、敷地内に入ったとこまでしか確認出来てないんすよ」
「――」

 蒼慈さんの顔から血の気が引いたように見える。
 それほどの失態だったなら、どうしてあんなにも嬉しそうに駆けて来られたんだろう。あれは、親衛隊の人たちに怪しまれないようにする、お芝居だったのだろうか。だとしたら、スゴすぎます。

「どなたを捜せばいいですか?」

 縛罪府の人なら、顔は知らなくも着ている柔道着っぽく見える服で分かるだろうと思った。私が屋敷内をうろうろすることを禁止されても、それなら千茜様にお願いすればよいことだとも。
 けれど、難しい表情で告げられた名に、私はすぐに駆け出していた。
 ただ、会いたい。そんな気持ちでいっぱいだったのだ。

「朱皇殿下、ですよ」
しおりを挟む

処理中です...