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香琴国――叢雲 3――
クラウス=ルーツ
しおりを挟む一切の音が遮断された。
空間の断裂、隔離、不可侵なる結界術式が展開される。そこにあるのに気付かない、誰も気にしないように意識を逸らされる。そういった認識操作の強い結界ではなく、どのような術を用いようと、またどのような存在であっても破ることの出来ない強固なものであり、術を展開させた当人の意思、及び意識の喪失か死亡以外では解除出来ない結界だった。
ロミーは自分までもがここに連れて来られてしまったことに、混乱した。クラウスの意図がどちらにあるのか不安にかられたのだ。
彼の言う「お仕置き」がここで行われるのであれば、後でも先でも結果は変わらないだろうと、あまり深く物事を考えられないロミーにも、予想出来てしまえることだった。
「これは……どういうつもりだっ!?」
アーダルベルトが不遜な態度で言うが、虚勢に過ぎないことは真っ青になった顔色から窺えた。
「言いましたでしょう、赦しませんと。つまりはそういうこと、ですよ」
クラウスの声音は恐ろしく冷たい。
瞳は闇さを滲ませ、全身から禍々しい気を放出しているようだった。なのに五枚の翼は神々しいまでの輝きを曇らせずにいる。一翼だけ完全に黒く染まっていることが不思議でならない程に。
「その前に、お訊ねしたいことがあるのですが――」
「!」
一瞬で距離を詰められた。
クラウスに気付かれないように発動させようとした白炎の檻は、彼の背後で役目を果たせぬままに崩れて消える。
「バスティアン=エイセルという名に覚えはありませんか?」
「――」
予想もつかなかった質問だったのだろう。アーダルベルトは思考が止まったような表情になったが、すぐに金剛石の鎗を顕現させてクラウスの喉の辺りを狙って突き出した。
ふわりと上昇して避けることなどは予測の範囲内だろう。自らも飛び上がって鎗を振り回しながら、小声で術式を展開させ始める。
「純然たる光よ。集いて罪咎の使徒に裁きを降せ」
鎗の切っ先がクラウスの腕を掠めた。
傷の塞がった胸を光弾が貫く筈であったが、何も起こらない。
「いけませんね」
クラウスは呆れたような表情を浮かべ、アーダルベルトに向けて弓を射るような仕草をしてみせる。
「なっ……?!」
アーダルベルトの胸に光弾が撃ち抜かれる。彼が放った筈の術が彼自身を襲ったのだ。
「わたしは罪など犯しておりませんよ。あの方以外には覚えのないことです」
「ゥグ……ッ……」
胸をおさえ、落下するアーダルベルト。片手で地に爪を立てながら吐血する。
「罪咎の使徒は、あなたの方だったようですね。自分で自分を裁くなんて真似をしても、わたしがあなたを赦さない気持ちに変わりはありませんよ?」
「や、やめろっ……!」
クラウスの一方の手がアーダルベルトの肩に掛かり、もう一方の手が翼を鷲掴みにする。それだけで何をされるのかを察したアーダルベルトが必死に抵抗を試みるが、胸から生じる灼熱の痛みが邪魔をして、手を振り払うことすら出来ない。
「質問に答えて下さい。あなたはバスティアン=エイセルという名に覚えはありますか? いえ、ありますよね?」
「――ああ、バスティアンは僕の伯父上だ」
「ディルクの翼を奪ったのは、あなたですか?」
「そうさ。伯父上に必要だったからな。二翼が六翼の役に立てるんだから、光栄だろう!」
「魔物を送り続けて弱ったところで剥ぎ取るなんて、卑怯なことですね」
「ガアアアァァァッ!!」
背中に熱湯を浴びせられた上に氷柱を突き立てられたような衝撃が走り、アーダルベルトは獣の咆哮のような声をあげた。
身を仰け反らせようとするも、クラウスの手に押さえつけられてかなわない。
カハッと苦し気に咳をする相手に気を遣う気配は全くなく、クラウスは剥ぎ取ったばかりの翼を、相手に見える位置に放り投げる。
「あ、あ……っ、僕の……ぼ、くの……っっ」
激しい怒りが、アーダルベルトの周囲の大気を爆ぜさせる。小さな爆発がクラウスの周囲にも生じたが、彼は表情一つ変えない。
鮮血を散らし、僅かな肉片を付着させた自身の翼に手を伸ばそうとするが、やはり痛みと苦しさとクラウスとに阻まれて動けず、アーダルベルトは地に左肩を着けた。
「大神族をあのような姿にしたのも、バスティアンですか?」
「…………」
「黙秘は肯定と受け取らせていただきますね」
「!」
クラウスの手がもう一翼に掛けられたことを察し、アーダルベルトは戦慄した。今度こそ本気で、死物狂いで逃れようとするのだが、無情にもクラウスを牽制する為に顕現させた鎗を足に突き刺されて止められる。
悲鳴は掠れ、声の代わりにまた血を吐く。
光弾は火傷を負わせる程度で済んでいたのだが、肺にまでそれが達している所為だ。
「バスティアンは今、何処にいらっしゃるのです? この香琴国ですか?」
「……」
返答はなかったが、今度は肯定と受け取らなかったのか、黙っている罰とばかりにもう一翼を剥がしていく。
「ア、アアア、アアアアアアアッ……!」
焦らすように、苦痛を長引かせようとするように、今度はゆっくりと。
気が狂いそうな絶望に襲われ、アーダルベルトは涙を溢れさせ赦しを請う言葉を探そうとするが、言語を忘れてしまったかのように断片的で意味を成さない音を発するだけだった。
「その痛みは、あなたの伯父上が、生まれたばかりのあの方にしたものと同じものですよ。いえ、あの方の痛みや苦しみに比べられるものなどありませんでした。あなたにはまだ二翼残っておりますしね」
バサリ、とまたアーダルベルトの視界に入る位置に、剥ぎ取った翼を投げる。今度は十分手の届く範囲だったが、もう指先一つ動かせないようだった。
激痛も苦痛も薄らいで、冷たくも優しい闇に包まれていく。
死という解放へ向かっていたアーダルベルトは、しかし慈悲のない回復術で生という地獄に引き戻されてしまう。
薄れかけたものが怒濤のように押し寄せ、いっそのこと狂気に支配されたならと切実に願った。
「まだ答えを聞いていませんよ? バスティアンは何処です?」
回復は、話が出来る程度までで留められた。
生かされるのか、答えた後に殺されるのか分からない。しかし出来るならば一瞬で死なせて欲しかった。四翼であることに誇りを持っていたアーダルベルトにとって、二翼だけ残されても生きる価値を剥奪されたようなものだった。
彼の翼を狙っていたのは、六翼である高貴で美しいクラウスに、穢れた翼があってはならないと、変色の始まった翼を憎んだからであったからだが、そのことを告げたところで状況は変わらないだろう。
「螺鈿国だ……」
声を振り絞ってアーダルベルトは答える。
クラウスの瞳に宿る闇が深まる。
「伯父上は湛慮にいる……」
答えたのと同時にクラウスの気配が消えた。
隔離された結界の中に残されたのは、アーダルベルトだけ。
殺されず、中途半端に回復された体で、生に縋る気も失せた者が選ぶのは、あの冷たくも優しい闇。
アーダルベルトはクラウスの為に用意していた鎗に、投擲の際に付与する術を掛けると、それを空高く放り投げ。
――ザシュッ、
自身の心臓を一突きにさせ、絶命の時を迎えた。
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