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「夏とは何か?」
その質問に対して、椅子に座るイブは即答で「よく分かりません」と言った。
「じゃあ、柊君はどうだ?」
「え? わたし、ですか」
話を振られるとは思っていなかったのだろう。彼女は考え込んだ末に「暑くて化粧が崩れるので嫌いです」と答えた。
夏、というただの単語に込められたものは、想像以上に多い。その上、個人の経験からもたらされる情報の広がりはとても共通のデータとは成り得ないもので、夏川はまず安藤祐司の個人データを取り寄せることにした。
幾つかの会社の顧問や取締役、役員に名を連ねる彼の公開されているデータからは特に得られるものはなさそうだったが、それでも大学は留学先であるアメリカの西海岸で過ごし、その後もイギリスやスペイン、ドイツなどでの生活歴があることが分かった。ただ彼が言う夏に関しては、どうやら子ども時代を過ごした東京下町での印象が強いらしく、夏川はそれらを描いたドラマやドキュメンタリー、また小説に雑誌、写真や映像記録といったものを集め、学習データを構築していった。
かつてのAI学習では、例えば売上データと天候や地域のイベント、カレンダー、人口の流動などを組み合わせ、それらの中からパターンを学習させ、商品開発や販売に利用するなど、はっきりと目的が決まっているものに対して、人間が考えた関連性のあると思われるデータの塊が使われることが多かった。
しかし現在この研究所で行っている学習データのモデルは、そういう単純なデータテーブルの組み合わせではなく、より人間の学習過程に近くなるよう、仮想化された三次元空間での体験という形で、AIに学習させている。当然全てコンピュータ上での処理なので、人間がそれらをVRなどで体験するような実時間と同じだけの時間コストが掛かる訳ではなく、高速化され、一年を数日という単位で体験してしまえる。
今回夏川がイブに対して用意した「夏」学習用のデータも、同じように日本で夏と呼ばれる七月から八月終わりに至るまでの期間に様々なイベントを設定した学習モデルとなっていた。
「教授。これで本当に彼女は夏を理解してくれるんでしょうか」
「教授じゃない」
「すみません、夏川さん」
モニタには彼女の学習経過が数字と英字、記号によって表され、流れていた。電子回路の中で仮想的に構築された疑似細胞の集まりが取捨選択され、新しい思考回路が形成されていく。それは人間が学習し、体験し、手に入れた知識と感情によって脳の回路が形成されていく過程に、非常によく似せられている。
夏川は彼女に次のようなイベントを体験してもらうことにし、学習モデルを作っていた。
海水浴。
山でのキャンプ。
テレビで流れる甲子園大会。
お盆になれば田舎にある実家へと帰省し、親や祖父母に出会う。
社会人であれば仕事帰りのビアガーデンも良いだろう。
ヒマワリやハイビスカスを見て、
かき氷やソフトクリーム、スイカに冷やしキュウリ、鰻の蒲焼きもかつては風物詩だった。
そして花火大会と夏祭り。
イブが幼少期から現在の設定である二十四歳に至るまで、多くの夏を経験し、彼女なりの夏というものをその回路の中に構築していく。
学習時間は予定していた一週間を超え、半月も掛かってしまったが、それは彼女のAIが最新型だったために学習プログラムが最適化されていなかったことが原因だろう。
目覚めたイブを前に、改めて夏川は質問をした。
「夏とは何だろうか」
彼女はじっと彼を見つめていたが、その視線を少し逸してから首を横に振る。
――分かりません。
「参ったな」
トイレの個室に鍵を掛けると、便座も開かずにそのまま腰掛け、夏川は天井を見上げた。ただ白い塗装に、空調の吸い込み口があるだけだ。
学生時代、教授に無理難題を投げられる度にトイレに籠もっていたことを思い出す。あの頃は壁やタンク、天井の隅にマジックで意味のない数式やプログラムの断片を書き込むという一部の学生の間にだけ流行っている遊びがあり、それを見つけては何て馬鹿なことしてるんだ、と思って笑えたものだ。
けれど今は掃除用のアンドロイドのお陰で、そういったものは一切存在しない。
タバコも酒も嗜まない夏川にとっては、こうやってトイレの個室に籠もることが一種のルーティーンになっていた。
一息つくと、立ち上がる。
「仕方ない」
それは誰に向けての呟きだったのか、夏川自身にもよく分からなかったが、ある決意を固めた彼は研究室へと足を向けた。
スライドしてドアが開くと、助手の柊有希が仕事のメールを整理していた。
日々百通以上が届く。夏川の手掛けた工業用アンドロイドのAIは品質が高く、需要も右肩上がりだったが、同じことの繰り返しで刺激のない仕事だと最近感じていた。
「柊君」
「あ、夏川さん。イブの件、どうされますか?」
「そのことだが、一つ試してみたいものがあってね。個人的に準備をしたいから、三日ばかり休みを貰えないだろうか」
歪んだ微笑を浮かべた柊に背を向けると、さっさと荷物をまとめ、部屋を出ていった。
それから三日間、夏川は全ての連絡をシャットアウトして、ただプログラムに打ち込んだ。学生時代、よく一夜漬けでテストやレポートを間に合わせたことを思い出す。全然余裕なんてないのに、それを「楽しい」と感じてしまうのだ。
「たぶんイケるな」
体の内側から湧き上がる直感は、未だに外れたことがない。夏川はカップに残るコーヒーを飲み切ると、仕上げの為に端末に向かった。
「あの、本当に大丈夫なんですか?」
三日後に研究所に戻った夏川を迎えた柊有希は、目にしたことのない無精髭面で隈を作っている彼に目を大きくしつつ、様々な心配をその言葉に込めていた。
「イブの学習を始める。準備をしてくれ」
だが夏川は彼女に構わず、USBメモリを自身の机の端末に差し込むと、椅子に腰を下ろすなり、急いで学習モデルの設定に入った。
新しい学習モデルを用いてのイブの「夏」の教育は、五日を要した。
目覚めた彼女に再び夏川は問いかける――夏とは何か、と。
イブは何かを思い出すように遠くを見つめた後で、一言、こう告げた。
――ひぐらしの声と、夕立の後の雨の匂い。
その質問に対して、椅子に座るイブは即答で「よく分かりません」と言った。
「じゃあ、柊君はどうだ?」
「え? わたし、ですか」
話を振られるとは思っていなかったのだろう。彼女は考え込んだ末に「暑くて化粧が崩れるので嫌いです」と答えた。
夏、というただの単語に込められたものは、想像以上に多い。その上、個人の経験からもたらされる情報の広がりはとても共通のデータとは成り得ないもので、夏川はまず安藤祐司の個人データを取り寄せることにした。
幾つかの会社の顧問や取締役、役員に名を連ねる彼の公開されているデータからは特に得られるものはなさそうだったが、それでも大学は留学先であるアメリカの西海岸で過ごし、その後もイギリスやスペイン、ドイツなどでの生活歴があることが分かった。ただ彼が言う夏に関しては、どうやら子ども時代を過ごした東京下町での印象が強いらしく、夏川はそれらを描いたドラマやドキュメンタリー、また小説に雑誌、写真や映像記録といったものを集め、学習データを構築していった。
かつてのAI学習では、例えば売上データと天候や地域のイベント、カレンダー、人口の流動などを組み合わせ、それらの中からパターンを学習させ、商品開発や販売に利用するなど、はっきりと目的が決まっているものに対して、人間が考えた関連性のあると思われるデータの塊が使われることが多かった。
しかし現在この研究所で行っている学習データのモデルは、そういう単純なデータテーブルの組み合わせではなく、より人間の学習過程に近くなるよう、仮想化された三次元空間での体験という形で、AIに学習させている。当然全てコンピュータ上での処理なので、人間がそれらをVRなどで体験するような実時間と同じだけの時間コストが掛かる訳ではなく、高速化され、一年を数日という単位で体験してしまえる。
今回夏川がイブに対して用意した「夏」学習用のデータも、同じように日本で夏と呼ばれる七月から八月終わりに至るまでの期間に様々なイベントを設定した学習モデルとなっていた。
「教授。これで本当に彼女は夏を理解してくれるんでしょうか」
「教授じゃない」
「すみません、夏川さん」
モニタには彼女の学習経過が数字と英字、記号によって表され、流れていた。電子回路の中で仮想的に構築された疑似細胞の集まりが取捨選択され、新しい思考回路が形成されていく。それは人間が学習し、体験し、手に入れた知識と感情によって脳の回路が形成されていく過程に、非常によく似せられている。
夏川は彼女に次のようなイベントを体験してもらうことにし、学習モデルを作っていた。
海水浴。
山でのキャンプ。
テレビで流れる甲子園大会。
お盆になれば田舎にある実家へと帰省し、親や祖父母に出会う。
社会人であれば仕事帰りのビアガーデンも良いだろう。
ヒマワリやハイビスカスを見て、
かき氷やソフトクリーム、スイカに冷やしキュウリ、鰻の蒲焼きもかつては風物詩だった。
そして花火大会と夏祭り。
イブが幼少期から現在の設定である二十四歳に至るまで、多くの夏を経験し、彼女なりの夏というものをその回路の中に構築していく。
学習時間は予定していた一週間を超え、半月も掛かってしまったが、それは彼女のAIが最新型だったために学習プログラムが最適化されていなかったことが原因だろう。
目覚めたイブを前に、改めて夏川は質問をした。
「夏とは何だろうか」
彼女はじっと彼を見つめていたが、その視線を少し逸してから首を横に振る。
――分かりません。
「参ったな」
トイレの個室に鍵を掛けると、便座も開かずにそのまま腰掛け、夏川は天井を見上げた。ただ白い塗装に、空調の吸い込み口があるだけだ。
学生時代、教授に無理難題を投げられる度にトイレに籠もっていたことを思い出す。あの頃は壁やタンク、天井の隅にマジックで意味のない数式やプログラムの断片を書き込むという一部の学生の間にだけ流行っている遊びがあり、それを見つけては何て馬鹿なことしてるんだ、と思って笑えたものだ。
けれど今は掃除用のアンドロイドのお陰で、そういったものは一切存在しない。
タバコも酒も嗜まない夏川にとっては、こうやってトイレの個室に籠もることが一種のルーティーンになっていた。
一息つくと、立ち上がる。
「仕方ない」
それは誰に向けての呟きだったのか、夏川自身にもよく分からなかったが、ある決意を固めた彼は研究室へと足を向けた。
スライドしてドアが開くと、助手の柊有希が仕事のメールを整理していた。
日々百通以上が届く。夏川の手掛けた工業用アンドロイドのAIは品質が高く、需要も右肩上がりだったが、同じことの繰り返しで刺激のない仕事だと最近感じていた。
「柊君」
「あ、夏川さん。イブの件、どうされますか?」
「そのことだが、一つ試してみたいものがあってね。個人的に準備をしたいから、三日ばかり休みを貰えないだろうか」
歪んだ微笑を浮かべた柊に背を向けると、さっさと荷物をまとめ、部屋を出ていった。
それから三日間、夏川は全ての連絡をシャットアウトして、ただプログラムに打ち込んだ。学生時代、よく一夜漬けでテストやレポートを間に合わせたことを思い出す。全然余裕なんてないのに、それを「楽しい」と感じてしまうのだ。
「たぶんイケるな」
体の内側から湧き上がる直感は、未だに外れたことがない。夏川はカップに残るコーヒーを飲み切ると、仕上げの為に端末に向かった。
「あの、本当に大丈夫なんですか?」
三日後に研究所に戻った夏川を迎えた柊有希は、目にしたことのない無精髭面で隈を作っている彼に目を大きくしつつ、様々な心配をその言葉に込めていた。
「イブの学習を始める。準備をしてくれ」
だが夏川は彼女に構わず、USBメモリを自身の机の端末に差し込むと、椅子に腰を下ろすなり、急いで学習モデルの設定に入った。
新しい学習モデルを用いてのイブの「夏」の教育は、五日を要した。
目覚めた彼女に再び夏川は問いかける――夏とは何か、と。
イブは何かを思い出すように遠くを見つめた後で、一言、こう告げた。
――ひぐらしの声と、夕立の後の雨の匂い。
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