子守歌は眠れない

sakaki

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子守歌は眠れない4

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***


昼食にコンビニで買ったパンを開けようとしていると、目を丸くした真壁が駆け寄って来た。
「ちょっとちょっとぉ、なんで今日はお弁当じゃないのよ~? 」
血相を変えて喧嘩でもしたのか、怒らせるようなことをしたのかなどと詰め寄って来る。
迷う様子もなく悪者扱いをされた一臣は、眉を顰めて真壁を見据えた。
「単にあいつが寝過ごしただけだ」
努めて平静に答える。寝過ごす要因を作ったのは自分だ、とまでは流石に言わない。
「夜泣きも酷いからな。大方、夜中に赤ん坊寝かし付けながらそのまま寝入ったんだろう」
しれっと言ってのけたこれは本当の事だ。
夜中か明け方かは定かではないが、八雲は赤ん坊の泣き声が聞こえるなり、慌てて服を纏ってよろめく足取りで赤ん坊の元へ向かった。そのまま朝になっても姿の見えなかったと思えば、赤ん坊に添い寝をしたまま眠りこけていたのだ。
多少の加害者意識もあったので、一臣は八雲を起こさずにそのまま仕事に出た。
そんな訳でこのチョコチップメロンパンとその他諸々が一臣の昼食となったのだが・・・実は何と無く味気ない、物足りないと思えてしまい、自分でも困惑していたところだったりする。
今までは朝食は取らないのが当たり前、昼はコンビニで買うか外食をするのが当たり前だったというのに、これも慣れだろうか。所詮慣れたところで、八雲と赤ん坊と過ごすこの生活も明日の朝で終わりだというのに・・・。

「なぁ・・・あいつの訳ってのは何なんだ?」
「へ?」
一臣が唐突に尋ねたため、真壁は間抜けな声を出した。
「ほら、前に・・・あいつが訳ありだとか何とか抜かしてただろうが」
思わず口をついて出た問いに、バツの悪い心地がしつつも補足する。自ら恰好のからかいネタを提供してしまったと気付いたが、もう手遅れだろう。
「やだやだちょっとぉ~、どういう風の吹き回しぃ~!?  」
案の定、真壁はニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべて一臣の肩を叩く。
「ついこないだまで“どんな訳があろうが興味ねぇ”とかなんとか言ってたクセに、八雲ちゃんのこと興味津々になっちゃったってわけ~!?」
一臣のモノマネまで取り入れつつ、もはや鬼の首を取ったかのようなはしゃぎっぷりだ。一臣の心境の変化の訳をあれこれと妄想しては一人で騒いでいる。
「~~~~~うるせぇっ!」
「ギャッ!」
怒鳴りついでに食べかけのパンを投げつけることで真壁を黙らせる。
「ゴチャゴチャ言ってねぇで、何か知ってることがあるならさっさと話せ」
青筋を立てて凄み、真壁のセーラー服のようになっている真っ白な襟を掴み上げた。
「わ、分かった、分かったわよぅ!  三倉ちゃんの乱暴者!」
真壁は涙目になりながらホールドアップの体勢を取った。
「・・・八雲ちゃんね、訴えられかけた事があるのよ。旦那さんを寝取ったって・・・」
幾分か声を潜め、いじけたようなポーズで語り始める。思ってもみなかった“訳”に一臣は言葉を失った。
「あ、勿論八雲ちゃんは悪くないのよ!  寧ろ被害者だったんだから!」
一臣の反応に焦ったのか、真壁が慌てて取り繕う。
「奥さんが留守の間に力尽くで無理矢理・・・その挙句、奥さんにバレたら八雲ちゃんから誘ったんだなんて大嘘つきやがったて!!」
本当に最低な男、と罵りながらハンカチを噛んだ。興奮のあまり声が野太くなっている。
結局すぐに誤解は解けて訴えられずに済んだらしいが、問題はその後だった。何せ主婦のネットワーク力は強い。どこからともなく噂が広がり、八雲の評判は地の底まで落ちた。八雲にシッターを頼む客はほとんどいなくなってしまったのだという。
「まぁ・・・それ以前に八雲ちゃん自身も相当参っちゃってて仕事なんてできる状態じゃなかったらしいんだけど。当然よね。体も心も傷付いて・・・トラウマっていうのかしらねぇ」
痛ましい表情を浮かべ、深い溜息。
「・・・って、三倉ちゃん?」
一臣が何も言わないでいることに気付いたのか、真壁は訝しげな視線を送ってきた。いつものコラーゲン入りドリンクの紙パックで音を立てながら無理矢理一臣の視界に入り込んで来る。
「ちょっと、聞いてるぅ?」
「・・・」
どアップで迫る真壁に一臣は眉を顰めた。
「・・・ちょっと出て来る」
「へ?」
おもむろに立ち上がり、一言だけ言い残して歩き出す。唖然とする真壁に説明をしてやる余裕はなかった。
一臣は動揺していた。
昨夜の八雲と彼の抱えていた“訳”とが交錯して頭痛がする。
(俺はあいつのトラウマを抉ったのか・・・?)
焦りなのか戸惑いなのか、ともかく混乱したまま駐車場に向かった。
車に乗り込み、ほとんど無意識のうちに向かった先は自宅だ。今すぐ八雲に会わなければと、そんな気がした。



車を飛ばせば自宅までは10分足らずで着く。
駐車場には回らずにエントランスの前に停め、早足でエレベーターに向かった。
(なんで・・・こんなに焦ってんだ、俺は)
エレベーターが最上階に上がるまでの間、少しだけ冷静になって項垂れる。慌てて八雲に会ってどうするのか。何を言うつもりなのか。自分でも説明がつかない。緊張しているのか、やけに指先に力が入っている。
上下二箇所ある鍵を開けて扉を開くと、部屋の中はしんと静まり返っていた。
テレビもついておらず、リビングの隅の赤ん坊の布団もない。勿論、赤ん坊も八雲もそこにはいなかった。
(・・・まさか、出て行った・・・のか?)
呆然として、キーケースが指先をすり抜けて落ちた。鍵が床にぶつかって鳴った金属音が嫌に響く。
(電話・・・いや、番号登録してねぇ。名刺・・・は、どこやった?)
混乱気味に自分のポケットを探る。
八雲がいなくなることで、なぜこんなにも喪失感を感じるのか考える余裕もなかった。

「あれ~、鍵が開いてるね~?  」
程なくして、玄関の方で音がする。八雲の声がやけに呑気そうに聞こえるのは赤ん坊に話しかけているためだろう。
「三倉さん。帰ってたんですか?」
リビングに立ち尽くしていた一臣を見付けると、八雲は警戒心を解いたようにホッとした顔をした。見知らぬ誰かが部屋にいたら、と不審に思っていたに違いない。
「ちょっと忘れ物を取りにな。出掛けてたのか?」
突然の帰宅理由を誤魔化して、八雲に探りを入れる。
「お天気も良いので公園にお散歩に行ってたんですよ」
八雲は赤ん坊をあやしながら満面の笑みで答えた。ちなみに赤ん坊の布団が見当たらなかったのは、その良い天気に肖ってベランダに干しているからなのだと。
「・・・・・・・・・・・・そうか」
平静を装って頷く。
だが、
(・・・思っクソいつも通りじゃねぇか。畜生)
実の所は奥歯が擦り切れそうなほどはを食いしばっているのだった。
「そりゃ良かったな・・・」
溜息をついてから赤ん坊の頭にそっと触れる。無意識の行動だった。
「・・・」
「なんだ?」
八雲がやたらとキョトンとした顔をしてこちらを見ているので、眉を顰めて尋ねた。
「いいえ、なんでも」
意味深に微笑まれ、随分とらしくないことをしてしまったと気付く。赤ん坊と自分の手を交互に見やり、一臣は苦い顔をした。


(考えてみりゃあ・・・他人のガキ連れて出て行く訳ねぇじゃねぇか。阿呆か、俺は)
会社へ戻る道すがら、一臣は一人項垂れていた。少し考えればあり得ないと分かることなのに、早とちりをしてひどく動揺した。完全にペースが乱れているとしか言いようがない。
気分を落ち着かせるために煙草を咥える。
(そもそも、何で俺が罪悪感感じなきゃなんねぇんだ)
昨夜の事は合意の上で、八雲のトラウマとは完全に別物だ。そう自分に言い聞かせる。
確かに初めこそ強引だったかもしれないが、最終的には八雲も受け入れたのだ。リビングから一臣の部屋に行きたいと言ったのだって八雲の方だし、寝室に場所を移してからは嫌がる素振りなどまるでなく、寧ろ・・・。
「・・・クソ」
煙草を噛み潰して呟く。気を回し過ぎてしまったことが無性に悔しく、腹立たしい。
一方の八雲は、一臣とは対照的に実に飄々としていたというのに。
(いつも通り過ぎるんだよ・・・)
一臣はまた舌打ちをした。

***


珠子が赤ん坊を迎えに来るのは明日の朝だ。
たかが、一週間。されど一臣にとっては長かった。
(ようやく自由に煙草が吸える・・・)
煙草を吸いたくなる度にベランダに出なければならない煩わしさから解放されるのが一番喜ばしい。

リビングに戻ると、八雲が赤ん坊を抱いて寝かしつけようとしているところだった。いつもなら布団に寝かせて添い寝をするのに、今日はソファに座ったままゆりかごのように身体を揺らしている。
近付くと、八雲が子守唄を口ずさんでいることに気付いた。囁くような甘やかな声がゆったりとしたメロディを刻んでいる。
一臣は出来るだけ音を立てないように気を付けながら八雲の隣に腰掛けた。
子守唄が物珍しかったのもあるが、単にその穏やかな光景を眺めていたいと思った。
赤ん坊は八雲の与えてくれる至福の時間に抗うことなく瞼をうつらうつらとさせている。
泣いている間はモンスターのようだとしか思えないが、こうして大人しくしている時は、見ている分には悪くないと思えた。勿論、一対一で対峙していないことが第一条件だが。
暫し経ってから赤ん坊はつつがなく眠りについたようだ。八雲はゆっくりと立ち上がり、実に慎重な動作で赤ん坊を布団へと移した。すぐには戻って来ず、愛おしそうに寝顔を見つめては手を握ったり頬に触れたりしている。
「随分と名残惜しそうだな」
ようやく自分の隣に腰を下ろした八雲に、一臣は溜息交じりに言った。
「もうすぐお別れだと思うと寂しくて」
八雲は照れ臭そうに苦笑する。
「普段はお子さんをお預かりする時、こんな風にずっと一緒に居る事はないですから。一緒にお風呂に入ったり一緒に寝たり、すごく貴重な体験をさせていただきました」
楽しかった、と噛み締めるように言った。この一週間を思い返しているのか、何処か恍惚とした表情を浮かべている。
「情が移ったか?」
「はい。とっても」
一臣が些か揶揄するように問えば、素直に頷いた。
八雲の“もうすぐお別れ”という言葉に少しばかり動揺した自分がいることに一臣は戸惑う。この非日常的な生活が終わるのは望ましいことだと思っているはずなのに。
(情が移ってんのは俺か・・・)
またそっと溜息を漏らす。
こうしている今だって、八雲を抱き寄せてしまいたい衝動に駆られているのもまた事実だった。

「三倉さん」
「あ?」
不意に呼び掛けられて八雲を見ると、ひどく真面目くさった顔をしていた。
「あの・・・昨夜言ってたこと・・・ゆうくんが三倉さんの子供じゃないって、本当なんですか?」
こちらの顔色を伺うように見つめながら、改まって問う。
「嘘でそんな事言う程人でなしじゃねぇよ」
一臣は頷く。説明するのが面倒で、足を組み替えるついでにソファに背をもたれた。
「珠子と別れたのは3年も前だしな」
幾ら別れた後でうまれたのだと言われても流石に無理がある。そもそも愛し合っていた訳でもなく、単に互いの利害が一致したという理由で籍を入れていただけだ。一緒に暮らしたこともなければ、恋人ですらない。2人の間に子供が授かる可能性など、あらゆる角度から見てゼロなのだ。

一通りの説明を聞き終えた八雲は難しい顔をして一臣を見つめた。
「・・・じゃあ三倉さんは、初めから自分の子供じゃないって分かってたのに預かってあげたんですか? 」
腑に落ちない、というような口ぶりで尋ねる。
「無理矢理押し付けられたんだから仕方ねぇだろう」
“預かってあげた”といういやに善意的な言い回しが気に入らず、一臣が眉は顰めた。
「それにしたって、こんなシッターまで雇って、ちゃんとパパ代わりだってして・・・」
八雲は一臣から視線を逸らして再び赤ん坊を見つめる。そして盛大な溜息と共に言い放った。
「三倉さんって、意外と人が良いんですね。大凡そんな風には見えないのに」
「・・・喧嘩売ってんのか、てめぇ」
随分な言い草だと、一臣は八雲に詰め寄る。八雲はふっと微笑んだ。
「褒めてるんです」
囁き、一臣にキスをする。
唇が離れた後の悪戯な表情に思わす見惚れた。
(・・・クソ)
一臣は悔しさを感じて舌打ちした。不意をつかれたことにではない。どうしようもなく八雲に惹かれている自分を認めざるを得ないことに、だ。
八雲の頬に触れ、ゆっくりと唇を重ねる。
八雲を手放したくない・・・そんな言葉は飲み込んで、後はひたすらに濃厚な口付けを交わした。


***


そして翌日。
珠子の迎えに合わせ、一臣は午前休を取った。一臣の出勤に間に合うように朝一に来る、と約束ではあるが端から信じていない。これまでも時間通りに来た試しがないので、珠子のことは時間に縛られない自由の国の人種だと思うようにしている。
そして案の定、珠子がやって来たのは10時を過ぎた頃だった。

「いやー、悪かったわね。一週間もお世話になって」
いきなりで驚いたでしょう、などと悪びれる様子もなく言い放つ。無論、一臣が仕事に遅れてしまうことに対しての謝罪など一言もない。期待もしていないが。
「そもそも何が俺の子だ。もう少しマシな嘘を付け」
一臣が眉間の皺をいつもの数倍は増量させてぼやく。
「あはは、バレバレかー」
珠子は堪える様子無く笑い飛ばした。この図太さが珠子という女だ。
「まぁ便宜上はアンタの子ってことにしといてよ。迷惑はかけないからさ、この通り!」
柏手を打って頭を下げる。察するところ、この赤ん坊も訳ありらしい。
「もう既に十分迷惑だが?」
「まぁまぁそう言わずに」
訳には触れずに深い溜息をついて見せると、珠子はカラカラと笑って誤魔化した。

「ただいま友愛~」
リビングに迎え入れると、一目散に八雲に抱かれている赤ん坊目掛けて駆け寄って行く。
「ごめんね~、ママや~っと帰って来たわよ~ん!」
赤ん坊にかける声は普段よりも妙に高音域で、聞き慣れないあまり思わず鳥肌が立った。
赤ん坊はその大声にビクッと反応した後、丸い目で不思議そうに珠子を観察している。待望の母親だろうに、真壁が来た時と大差ない気がする。つくづく赤ん坊とは理不尽な生き物だ。
「ゆうくん、とっても良い子でしたよ」
八雲が愛想の良い笑顔で言う。
赤ん坊を珠子に渡そうとしているが、赤ん坊の方は八雲の服を掴んだまま離さないようだ。もしかしたら、赤ん坊もまた八雲と離れ難いと感じているのかもしれない。
「ゆうくん、ママのお迎え嬉しいね~」
赤ん坊の小さな指先をくすぐるようにしながら手を解き、名残惜しそうに頬擦りをしてから、今度こそ珠子に返す。
珠子は赤ん坊の重みを確かめるように抱き直して一週間ぶりの我が子との再会を喜んでいる。・・・かと思えば、いそいそと一臣に歩み寄って来て好機の目を向けた。
「ちょっとちょっと、なんか随分可愛い人だけど、彼氏?」
些か声を潜め、からかい口調で尋ねる。
「住み込みで雇ったシッターだ」
一臣は八雲にも聞こえる声できっぱりと答えた。
「なぁ~んだ」
珠子はつまらなそうに肩を竦める。
八雲は慣れた様子で名刺を差し出し、改めて自己紹介をした。文字通りの営業スマイルで。
(・・・無反応か)
一臣もまたつまらない気分になって舌打ちをした。
八雲は単なるシッター・・・一臣がそう言い切ることで、八雲が少しでも顔色を変えることを期待していた。無意味だったようだが。
「シッターの領収書、事務所に送ってくれても良いわよ」
忙しなく帰り支度をしながら珠子がそんな申し出をする。人としての気遣いは決定的に欠けているくせに、こういうところには気を回すらしい。
けれど一臣はキッパリと断った。
「俺が雇ったシッターだ。お前に払わせる道理はねぇよ」
尊大に言い放つ。
「相変わらず気前がいいのねー。最高の元夫だわ」
珠子はまた笑って軽口を叩いた。
「ホント助かったわ。色々ありがとね」
大荷物と赤ん坊を抱え、珠子は改めて礼を言う。
八雲にもまたすぐに依頼するからと、社交辞令だけではなさそうな約束を取り付けて、ようやくバタバタと去って行った。いつも嵐のような女だ。


「僕も、そろそろお暇しますね」
珠子達を見送ってから間も無くして八雲が言った。
来た時と同じく鞄一つ持って、礼儀正しく頭を下げる。
「今日の分のお夕飯は冷蔵庫に入れてますから、温めて食べて下さいね。お弁当はそこに。三倉さんはお弁当箱洗わないでしょうから、今日は使い捨てのお弁当箱にしておきました。食べ終えたら捨てて下さい」
テキパキと説明するその様は事務的で、仮面のような愛想笑いも健在だ。
「・・・それだけか?」
一頻り聞き終えた後で、一臣が尋ねる。
「何がですか?」
八雲は聞き返した。淡々としている。
(後腐れねぇな・・・)
何事もなかったかのような八雲の態度に一臣は苛立ちを覚えた。
離れ難いと感じているのは自分だけなのか。八雲が名残惜しく思っているのは赤ん坊にだけなのか。
「八雲」
八雲の手を掴み、睨むように見つめる。
「俺に雇われろ」
一臣は言った。
「何のためにでしょうか? もうゆうくんもいなくなって、シッターは必要ないでしょう?」
八雲はよそよそしい口調で尋ねる。張り付いたような微笑みからは感情がうまく読み取れない。
「シッターとしてじゃなくても、料理、洗濯、掃除、やることは幾らでもあるだろうが。今までと同じように住み込みで、給料だって変わらない金額出してやる。悪い条件じゃねぇだろう?」
一臣は焦った。握っていた八雲の手を力任せに引き寄せる。
どんな形であっても、ただ八雲を傍に置いておきたい。手放したくない。それが一臣の気持ちだ。
けれど、八雲は一臣の手を振り払った。
「お断りします。僕はシッターの仕事が好きなんです。高いお給料が欲しいわけじゃありませんから」
硬い声で言い放つ。愛想笑いはいつしか消えて、一臣を真っ直ぐに見据えている。
・・・かと思えば、ふっと目元が緩んだ。
「・・・雇用契約じゃないっていうなら、話は別ですけど」
ポツリと呟く。
一臣がその言葉の意図が分からずに呆けていると、八雲は悪戯な笑みを浮かべて言った。
「“愛してるから傍に居てくれ”と仰るんでしたら、考えてあげなくもないです」
「あ・・・?」
八雲らしからぬ尊大な物言いに唖然とする。一瞬意味が分からなかった。
「嫌なら、無理にとは言いませんけどね」
八雲は溜息を漏らした。俯いた顔は微笑んでいるが、長い睫毛が震えている。
どうやら、気持ちを素直に口に出さないのはお互い様のようだ。
「それじゃ、もう行きますね」
八雲は鞄を持ち直して一臣に背を向ける。
“さようなら”と呟いて歩き出すその背中を、一臣は抱きしめることで引き止めた。
「・・・・・・・・・・・・一度しか、言わねぇからな」
絞り出したような声で言う。
「十分ですよ。一度でも」
八雲は笑った。
一臣の腕に触れ、蕩けそうな表情で愛の言葉を待っている。
こんな表情をされたら、もう二度と手放せるはずがないと一臣は思った。
「愛し・・・」
一臣の告白が八雲の耳に届こうとしたその時だった。
「一臣、ごめーん!!」
つい先ほど去ったはずの珠子が駆け込んで来た。鍵をかけていなかったのが痛恨のミスだ。
「あら、取り込み中だった?」
八雲を抱きすくめている一臣に気付き、珠子がニヤニヤと笑う。一臣は眉を顰めて八雲から離れた。
「・・・一体なんだ?」
くだらない用件を言おうものなら許さない。そう言わんばかりに殺気立ちながら尋ねる。
だが珠子は、物怖じすることも悪びれることもなくあっけらかんとして答えた。
「出張先でミスっちゃってたみたいでー、これからまたすぐ行かなきゃーってことになっちゃったぁ」
「は?」
「え?」
あははー、と笑い飛ばす珠子に一臣はおろか八雲でさえも顔を引きつらせる。
「悪いんだけど、また一週間ばかり頼むわ。ごめんね、友愛」
そう言ってそっとクーハンを置いて行く。一週間前のデジャヴだ。
「おいっ!?」
一臣は怒鳴る。しかし珠子は、ヒールでよくもそこまでと言うほどのスピードで走り去って行った。
クーハンの中の赤ん坊は、早くも抱っこを求めて八雲に手を伸ばしている。
「一週間、契約延長致されますか?  パパ代行さん」
赤ん坊を抱きかかえ、八雲が苦笑交じりに問いかける。
「あぁ。頼む・・・」
一臣は眉間の皺を数割増して頷いた。

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