ヤクドクシ

猫又

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DV男に効く湿布3

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「ママ、ママ」
 身体を揺られて私は目を覚ました。
 目の前には娘の里桜がいた。
「お腹すいた」
「え、ああ、ごめんね」
 慌てて立ち上がると身体がずっしりと重かった。
 時計は八時、窓から明かりが差し込み、すっかり朝だった。
 キッチンの様子は変わっていない。
 床にも壁にも何の変化もない。壁に飛び散った血も、床に広がった血もない。
 そもそも夫は?
「パパを起こさなくちゃね。もう八時だもの、遅刻しちゃう」
 頭がガンガンと痛んだし、一晩中床で横たわっていたせいで、身体中が痛い。
 しかし遅刻したとなると、また私を殴る口実が出来たと夫は嬉々とするだろう。 
 ふらつきながらパンをトースターに放り込んで、ケトルのスイッチを押す。
 ハムエッグにプチトマトをつけてから、私は恐る恐る夫を起こしに寝室へ向かった。
「あなた、もう八時です」
 部屋のドアの外から中を覗きながら声をかけるが、夫はいない。
 ベッドで寝た様子もない。 
「あなた?」
 部屋の中には誰もいなかった。
 階下に下りてバスルームを覗いて見てもいない。
 夕べ、風呂に入った様子すらなかった。

「パパいないの?」
 と先にテーブルについていた里桜が言った。
「ええ、もう仕事に行ったのかしら……」
 だが、テーブルの下に夫の通勤鞄があった。
 夕べ、帰るなり私を怒る為にテーブルの下に置いたのは覚えている。
 それからすぐに私を殴って、倒れた私を踏みつけたのだ。
「!」
 私は左腕の袖をまくってみた。
 痣がない。
 濃い紫色だった痣が綺麗になくなっていた。

 娘に朝食をとらせてから、私は家中を探した。
 ベッドの下やクローゼットの中、庭に置いてある物置の中。
 だけどどこにも夫はいなかった。
 携帯電話を鳴らしても、鞄の中で鳴り続けるだけだった。
「ママはご飯食べないの?」
 と娘に聞かれて私は少しも食欲がない事に気がついた。
 いや、食欲がないというよりも満腹、お腹いっぱいで何も食べられないという方が近い。「ママ?」
「うん、ママは今はお腹すいてないの」
「ふうん、朝ご飯、美味しいよ」
 里桜は無邪気に朝食を食べている。
 いつもとは違う笑顔を向けられ、私は気がつく。
 朝から夫がいないから里桜は楽しそうに朝食を食べる事が出来るんのだ。
 パンを一欠片テーブルに落としただけで、夫は娘を酷く叱る。
 それに慌てた里桜がコップを倒し牛乳をこぼしてしまったりすると、泣いて謝っても夫は許さない。里桜にとってご飯は楽しいものではなく、緊張と恐怖の場だった。
 とても嬉しそうに朝食を食べているこの姿が本来の子供の姿であるはずなのに。
 私は少しも子供を守れていなかった。

 午後、夫の会社から無断欠勤の電話がかかってきた。
 夫は会社にも行っていないらしい。
 義実家にそれとなく電話をしてみるが、夫が寄った様子もなかった。
「このまま、姿を消してくれたらいいのに……」
 そう思いながらも夕方、夫が帰ってきたら私はまた泣きながら謝るだろう。
 怖い、あの人が怖い。
 いなくなって欲しいと思うほどに、あの人に情などない。
 愛情などすっかり失せている。
 だけど怖い。
 離婚して下さい、の一言がどうしても言えない。
 大きな声で頭ごなしに怒られて、殴られて、蹴られて、夫が前に立つだけで身体が竦んでしまう。
 里桜が生まれる前に、一度、実家へ逃げ帰ったことがある。
 両親は私の話を少しも聞かず夫に頭を下げ、不出来な娘で申し訳ない、と言った。
 夫はさわやかに笑って「とんでもない、僕が夫としていたらないんです。お義父さん、お義母さん、すみません」と答えた。
 家に連れて帰られ、罵られ、殴られた。
 そして二度と勝手な事をしないように、と里桜を妊娠させられた。
 里桜は可愛いし、子供が生まれたら変わってくれるかも、と期待もした。 
 期待は裏切られ、夫を恐れてビクビクする者が二人に増えただけだった。 


「ママ、公園に行く?」
 里桜が自分で着替えもすまして私の側にやってきた。
「そうね……行こうか。それでケーキでも買って帰ろうか?」
「本当? いいの? やったー!」
 里桜は胸の前で両手を合わせて飛び上がった。
 スーパーの駄菓子一つでも無駄だと怒られる日々は里桜に甘いお菓子やおもちゃを欲しがる気力を奪った。  
「ケーキを買って、昨日の薬屋さんに持って行こうか」
「猫ちゃん?」
「そう、湿布、良く効いたし」
 昨日の事は夢か幻かもしれないが、少しだけ少しだけ、私に決意を芽生えさせてくれた。
 里桜を連れて夫から逃げだしたい、という決意。
 このままじゃ駄目だ、という決意。
 里桜が嬉しそうに笑った。
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