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第五章 絡み合う思惑の果て

誇り高き馬

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 私が最初に気付いたのは、音だった。人々の話し声の合間に、微かに蹄の音が聞こえた気がしたのだ。ただ、あまりの小ささに私の気の所為だろうと、大して気にすることはなかった。
 けれど、微かな音は次第にはっきりとした音になり、遠雷に似た重低音が確かに馬の蹄が奏でる音だと広場にいる全員が気付いた時には、視界にもその姿を捉えることができていて。

 巨大な漆黒の塊。

 それを目にして咄嗟に出たのは、そんな言葉だった。
 一般の馬より遥かに大きく、がっしりとした体格の青毛の馬。それが、黒色の外套に身を包んだ巨躯を背に乗せて疾走しているのだ。
 猛烈な勢いでこちらに接近するその姿は、私にいつかのアレクシアを彷彿とさせ、たちまち嫌な予感に背筋が震えた。私の予想が間違っていなければ、恐らく「あれ」は、道中キリアンに聞かされた人物の一人に違いない。けれど、その人物を含めてに会うのは、明日を予定していた筈だ。

「イーリスさん、もしかして……」

 配膳の手を止めてそばにいたイーリスを見上げれば、案の定、礼拝堂で私を守ってくれた時の立派な騎士の姿はどこへやら、その表情は見事に引き攣り、私の考えが正しいことを示していた。

「……一応努力はするけれど、駄目だったらごめんなさいね、ミリアム」
「そんなっ!?」

 完全に諦めの体でぼそりと告げられたイーリスの一言に私が絶句するのと、馬上の人物がこちらに気付いて頭を上げるのと、果たしてどちらが早かっただろう。
 私がそれと気付いた時には巨体を乗せた馬の体が橋を待たずに川を飛び越え、あっと言う間に広場へその身を躍らせていた。普通の馬にあるまじき身体能力が生む勇ましい蹄の音と力強い嘶きが響き渡り、広場が本日二度目の騒然とした空気に満ちる。

「ひぇ……っ」

 思わず漏れた小さな悲鳴に馬の頭がぐるりと振り向き、厳つい隻眼がじろりと私を睨め付けた。その馬を見て、私は嫌でも理解する。今目の前にやって来たのが、間違いなく明日私が会う予定にしていた筈の人物なのだと。
 じり、と半歩後ろに下がった私を、イーリスが庇うように前に出る。同時に、この事態に動じた様子のないセルマの、凛とした声が馬の後ろから聞こえてきた。

「まあ、ヤーヴァル隊長ではありませんか。そんなに急いでおいでになって、どうなさったのです?」
「んん? おぉ……これはミュルダールの奥方。本日は慰問日であったか……これは失礼をした」

 腹に響く低い声が、馬上から降る。ついでに目深に被られていたフードが取り払われ、その相貌が露わになった。
 見上げたそこに現れたのは、声の雰囲気そのままの、彫りの深い巌のような戦士の顔。頬から顎から顔半分を覆うのは、豊かに蓄えられた立派な錆色の髭。彼が馬から降りる姿はまるで小山が動くかのようで、太い眉の下でぎらりと鋭く光る瞳は、私に凶暴な熊を思わせた。私の胴回りよりも遥かに太い二の腕と二の足、馬から降りてもなお見上げんばかりのその巨躯は、私の背丈の倍は言い過ぎにしても、この場の誰より抜きん出て大きい。
 額と頬に走った傷が男性の厳めしさに拍車をかけて、私の手が無意識にイーリスの服の裾を握り締めた。そうしながら、キリアンから聞いた名を記憶から引き出す。

 ヤーヴァル隊長――ヤーヴァル・ラナン・エギシュ。

 このオスタルグの地で東の国境を守る警備隊。エリューガル最強とも噂されるその隊を率いる、隊長。そして、私がこの地へ赴くことになったもう一つの理由を作った張本人。
 唐突に現れたその人を前にして、私が思ったことは一つだった。

(無理……!)

 ヤーヴァルは曲がりなりにもエリューガルの守護の一端を担う人物、心配することはないとキリアンは言っていたけれど、本人を目の前にしては不安しかない。
 セルマに対して礼儀正しい態度で会話をしている姿だけを見れば、なるほど話せば分かってくれそうだと思わないでもないけれど、それと私への要請を上手くこなせるかは、また別の話だ。
 だって、物分かりのいい人物ならば、私が出向くまでもなくキリアンの一声で事態は収拾している筈なのだから。けれど、そうではない時点で、私にとっては心配ない要素など一つもない。

 キリアンが言うには、ここオスタルグに住むキスタス人の大多数は、アレクシアがフェルディーン家へ嫁いだことを切っ掛けに移住した者が多く、彼らは殆ど例外なくアレクシアに対する憧れを持っているのだそうだ。
 アレクシア自身は、フェルディーン家へ嫁ぐ際に家族や周囲の者達から猛反対を受けたけれど、当時のアレクシア達若者世代は、他国に対して敵対的な感情を強く持つ大人に反して、国外へ友好的な目を向ける者が多かった。その為、大人達の反対を堂々と実力で押し切ったアレクシアの行動は、若いキスタス人に道を示すことになったのだとか。
 そして、嫁いだ先で国の要を守る騎士団の長になったアレクシアを見習い、オスタルグに居を移したキスタス人は自分達が力を振るう場として、国境警備隊に目をつけた。キスタス人に対抗するにはキスタス人を宛がうのが最も適しているとして国の方も彼らを拒むことはなく、結果、現在の東の国境警備隊は半数以上をキスタス人が占めており、その隊長にヤーヴァルが収まっているのだと言う。

 そんな彼らにとって、騎士団長として国内で華々しい活躍をし続けたアレクシアは、まさに憧憬の的。一方は国境、一方は王都と言う距離も手伝い、伝聞で届く彼女の活躍は彼らの敬慕の念を強めるばかりで、彼らにとってのアレクシアは、国外への道を切り拓いた偉人であるのみならず、キスタス人の武勇を知らしめた若き英雄と言う扱いなのだとか。
 さて。では、そんな英雄が突然、キスタス人でも彼女の血縁でもエリューガルの民でもなく、何なら戦士の素養すらない赤の他人である子供を保護したと聞いたならば、彼らは一体どう思うだろうか。
 ちなみに彼らにとっては、その子供がエリューガルで特別視される愛し子であることは、何の意味も持たない。何故なら、彼らはキスタス人。神への信奉心は、エリューガルの民とは比べ物にならないほどに薄い。それに、いくら国の外に出ようと、戦士であると言うその矜持だけは持ち続けている民族なのだ。戦士の素養がないと言う一点だけで、物申す権利はあると考えている。
 そして、私にとって厄介な事実がもう一つ。実は、オスタルグのキスタス人はこれまでに、例外なく誰もが一度ならず英雄アレクシアへ弟子入り志願をしているのだ。けれど、それら全てをアレクシア本人ににべもなく断られている。
 結果――

「どこの馬の骨が英雄の庇護下に収まったんだ、その面を拝ませろ! いいや、まどろっこしい! 王都に殴り込みだ! その馬の骨、我らが英雄が保護するに値する人間か、直接この目で確かめてやる!」

 決して、ヤーヴァル自身がそう言ったわけではないだろう。けれど、キリアンが言葉で言っても埒が明かないと匙を投げるくらいには、国境警備隊内のキスタス人から不満の声が噴出したのだ。アレクシアに保護された子供――つまり、私に対して。
 そんなわけだから、オスタルグにアレクシアが直接出向いても意味はなく、むしろ火に油を注ぐ結果になりかねない為、ヤーヴァルからの要請で私が直々に来ることになったのだけれど。
 目の前の巨大な熊のような人物を筆頭に戦士揃いのキスタス人を相手にして、私が何をどうすれば、彼らに私を認めさせられると言うのだろう。そんなの、無理難題以外の何物でもないのではなかろうか。
 今すぐ、ヤーヴァルの乱入は見なかったことにして帰りたい。そんなことを頭の片隅で思いながらヤーヴァルとセルマが会話する様子を窺っていた私に、その時、不意に第三者の声が届いた。

《ふん。まさかとは思うが、これが我が妻が主ヴィシュヴァ殿の保護を受けた者なのか? こんな、干し草ほどの栄養もなさそうな貧弱な餓鬼が?》

 それは、私にしか聞こえない声だった。もっと言えば、私の目の前に立つ隻眼の青毛馬から発された声だった。
 こちらを無遠慮にじろじろと見下ろしながら、巨体のヤーヴァルを背に乗せて走れるだけの立派な体躯に似合う威厳のある声が、懐疑的な様子で呟いている。

(ほ、干し草……貧弱な餓鬼……)

 互いの自己紹介もまだの中で、これはなかなかに酷い言われようだ。けれど、相手はグーラ種。自分達の存在に誇りを持つ気高い馬である。人に選ばれるのではなく選ぶことを常とするのだから、選定する側として、ある程度尊大な物言いになるのは仕方がないのだろう。私の馬選びの時だって三頭の内二頭に散々な扱いを受けたことだし、もしかしたらその時にも、二頭には似たり寄ったりのことを思われていたかもしれない。それを思えば、この程度なんてことはない。
 それに、繰り返した人生で悪口には散々慣らされているし、予めここでは色々と言われるだろうことも予想できていた。だから、私は波風を立てない為にも今の言葉は聞かなかった振りをして、相手と目を合わせないよう、極力手元に視線を落とす。
 それなのに。

《……冗談だろう? まさか我が主は、こんなちんちくりんの乳臭い餓鬼を見る為だけに、この我をわざわざ走らせたと言うのか? 戦士の素養の欠片も見当たらぬこれを? はっ!》

 聞こえていないと思っているのをいいことに、相手は言いたい放題だった。おまけに、最後にこちらを馬鹿にするように鼻まで鳴らす始末だ。

(ち……ちんちく……っ!? しかも乳臭いって!? おまけに、『これ』扱い!?)

 あまりの暴言とその態度の酷さに、私は思わず自分の耳と目を疑った。
 確かに、私の体は成長しているとは言い難い。三食しっかり食べて睡眠だって十分取っているのに、既に縦への成長は終わったとばかりに身長が伸びる気配は微塵もないし、合同訓練の時につるぺたと言われた場所はつるぺたのままだ。運動しているお陰か、一時期もちっとしていた部位に関しては引き締まってきたような気はするけれど、代わりに筋肉が付いたかと言われれば、こちらも微々たるもの。
 私だって、そんな自分の体のことを少しは気にしていると言うのに、それをまさかあろうことか初対面の馬に! 馬に散々にこき下ろされるだなんて! そんなの、あんまりだろう!
 これは流石に聞かなかったことにはできない。言われっぱなしで黙っていることもできない。気付いた時には、私は今すぐ帰りたいと思っていたことも忘れて、イーリスの前へと足を踏み出していた。

「ミリアム?」
「ちょっと! いくら人間があなたの言葉を理解しないからって、初対面の相手に対してその言い方はあんまりじゃない!? 国境警備隊の隊長があなたの主だとしても、偉いのはあなたじゃなくて主の方でしょう!? なのに、偉そうに人のことをじろじろじろじろ、礼儀も何もあったもんじゃない! そんな躾のなっていない馬に、私のことを貧弱だのちんちくりんだの乳臭い餓鬼だの、言われたくないんですけど!?」
《なっ!?》

 きりりと眉を吊り上げて私が大声で言い放った途端、青毛馬は面食らったように片目を大きく見開き、動揺のあまりか数歩下がって顔を仰け反らせた。

《ま……まさか、我の言葉が分かるのか、この餓鬼!?》
「ええ、分かりますよ! 分かりますとも! 今もまた私のことを餓鬼って言って! 人間、誰もが自分達の言葉が分からないなんて高を括っているから、そんな傲慢な態度でいるんでしょう、あなた!」
《何なのだ、貴様は!》

 そう言い放ちながらも更に後退しようとする馬の手綱を引っ掴み、私は逆に自分の方へと引き寄せた。いや、正確には手綱を軽く握っただけなのだけれど。流石に、フィンよりも体格の大きな牡馬に、私の力が敵うわけがないことくらい分かっている。だから、気持ちだけは引き寄せるつもりで。
 それでも十分危ない行為だったかもしれない。けれど、あれだけ失礼なことを言っておいて、言葉が通じると分かった途端に私から逃げようとする馬の態度が、気に入らなかったのだ。だから、せめてこれ以上逃げるなとの思いを込めて手綱を握り、相手の隻眼を睨み付けた。どれほど効果があるかはともかく、私の気持ちだけは相手にはっきり伝わるように。
 そして、私の睨みに相手が怯み、

「今度は『貴様』? あなた……私が戦士の素養もない子供だからって、あんまり馬鹿にしすぎじゃない!? 自分達を気高いグズゥラの子だって言うなら、その誇りを持って、少しは主以外の人間のことも尊重しなさいよ!」

 そう一喝した瞬間だった。私から逃げようとしていた筈の馬の足が急に止まり、驚くほどあっさりと前へと動き出したのだ。そして、相手の顔がぐっと私に近付いてくる。

《ぐ、ぬ……ぅ!?》

 馬自身も己の行動が信じられないのか、目を白黒させてすっかり耳を伏せてしまった。更には、手入れの行き届いた綺麗な尾が後ろ足の間に入り、私に対して明らかな服従を示す始末だ。
 突然態度を変えた馬の様子に目を瞬けば、相手は大きな体を小さく縮め、私と視線の高さを合わせて目を伏せていた。まるで、抗えない力に無理矢理押さえつけられているかのように前へ進み出た足はふるふる震え、何とか踏ん張っている状態だ。それは、私に対して怯えているとも見て取れる。
 一体、何がどうしたのだろう。
 戸惑っていると、とうとう堪え切れなくなったとばかりに、馬の口から懇願が零れた。

《む……娘よ、我が悪かった。どうか、この通りだ。ゆ……許しては、くれまいか……》

 じわりと汗までかき始めた馬に驚いて、私は艶めく青毛に覆われた首へとそっと手を伸ばした。
 触れた手の平に、馬の体温と震えが伝わる。混乱、恐怖、怯え、緊張――触れた瞬間に相手の感情までもが伝わって、私は馬を落ち着かせるように何度も優しく首を撫でた。そうしながら、あんなにも尊大な態度でいた馬にこんな思いを抱かせてしまったことに、私にも申し訳ない気持ちが湧いてくる。
 馬の態度の悪さは元より、怒りに任せた私の態度も、決して褒められたものではない。むしろ、私の方が悪質だったかもしれない。予想しておきながら怒りで自制が利かず、あまつさえ相手の驚きや混乱に付け込むように、これみよがしに一方的に言い放ったのだから。

「……シシシュさん、私も言い過ぎました。ごめんなさい」
《む? 娘よ、我の名を知っていたのか?》

 震えが収まり、どこか気持ちよさそうに私の手を受け入れてくれていたシシシュが、私の言葉に細めていた目をぱちりと瞬いた。間近で見ればその表情はフィンによく似て、私はふっと顔を緩める。

「私がオスタルグへ行くことになったと話したら、スーリャさんがあなたのことを教えてくれたんです」
《なんと、我が妻が。……そうであったか》

 たちまちシシシュの瞳に優しげな光が灯り、スーリャのことを思い出しているのか、嬉しそうに耳が動いた。
 グーラ種は己の主人と同様、一度番うと決めたら、死ぬまで相手が変わることはない。それだけ相手を深く思い、愛すのだ。シシシュの瞳にスーリャへの愛情がはっきり見て取れて、先ほどまでとはまた違う穏やかな表情に、私もつられて目を細めた。

「どの馬よりもずば抜けて体格がよくてとても強い、自慢の夫だと言っていましたよ。ただ……その分、気位が高くて傲慢な面もあるので、きっと初対面で私に失礼な態度を取るだろうから、夫に代わって先に謝罪をしておくとも言われました」
《ぬっ!?》
「あんまり私に失礼な態度を取り続けるなら、シシシュさんご自慢の尾を私の気が済むまで毟ってもいい、とも言われたんですけど……」
《まさか!? スーリャが、我にそのような仕打ちを許せと!?》

 再び慌てふためき私から距離を置こうと足を踏み鳴らしたシシシュを、私は手綱を引いて首元に触れることで落ち着かせる。

「心配しなくても、そんなことしませんよ。シシシュさんは、もう私に失礼な態度を取ったりしないでしょう?」

 自ら許してくれと口にして、服従の意を示したのだ。もう最初のような態度は見せないに違いない。そう思っての言葉だったのだけれど。

《……ふん。たかが小娘と侮ったことは、認めよう。よもや、リーテの愛し子とやらにあれほどの力があったとはな》

 普通の人間相手であれば、あんな失態は犯さなかった。だが、知った今はもう我に油断はない――そんな一言が続きそうなシシシュの口振りは、私を侮ったことは認めつつ、反省の色は非常に薄かった。むしろ、反省していると見せかけて、その実、全く反省していなさそうである。
 スーリャからは、こちらがちょっと言った程度でしおらしくなるような相手ではないと聞いてはいたけれど、私を小娘と下に見て反省の欠片もないこの態度は、どうにもいただけない。
 シシシュの態度に刺激され、鎮まった筈の怒りが私の中にほんのわずかに顔を出す。その怒りのまま、私はにこりと笑んでシシシュの手綱を強く引いた。

「シシシュさん」
《何だ?》

 こちらを向いた隻眼は、まだ話があるのかと実に面倒臭そうだ。その態度は、先の一言で私との話はもう終わったとシシシュが考えていることは明らかで。
 それを見て、私は遠慮することなく言葉をぶつけることにした。彼の愛する妻からの、必殺の一言を。

「――毟りますよ?」
《っ!?》

 途端にシシシュはぎょっとして身を引くけれど、私が渾身の力で手綱を握っていた為に、上手く顔を逸らせない。

《ぐ……ぬ、むぅ……》

 そのまま隻眼を強い力で見つめ続けて、どれほど経っただろう。
 不意にシシシュが力を抜いて、ぴんと張っていた手綱が緩んだ。まるで厭うように頭を振って私に手綱を手放させると、ぶるると鼻を鳴らして距離を取る。それから、姿勢正しく四肢を伸ばして胸を張った。
 これまでとは全く違う威厳に満ちた眼差しが私を真っ直ぐ見下ろす姿は、王城で馬選びに初めて厩舎を訪れた時、グーラ種が私に見せた姿勢と同じで。

《――娘、名は?》
「……ミリアムです」

 どこか厳かな声に、私の背筋が自然に伸びる。

《ミリアムよ。――我、シシシュはあなたを力ある者と認めよう。そして、この地に集うズゥラも同様に、群れの長たる我の名において、あなたを認めることをここに誓う》

 空気を震わせて紡がれた言葉に、私は目を瞠った。
 キスタス人にとって、グーラ種――キスタス人はズゥラ種と呼ぶ――は、誇り高き相棒であり、家族であり、兄弟であると言う。彼らは誰より互いを尊重し、信頼し合い、その関係は、時に家族よりも強い絆を作り出す。その為、この地のキスタス人達に私を認めさせるには、できればそんなグーラ種に一頭でも私を認める者が現れてくれることが望ましいと、キリアンは言っていたのだ。
 フィンやトーラ、それにアシェルも同行させているので、この三頭の口添えがあれば難しいことはないだろうと言ってはいたけれど、まさか三頭の助力を得ることなく、一頭どころか群れ全体に認めてもらえるとは。
 シシシュの言葉が持つ意味の大きさに気が付いて、私も最大の敬意と感謝を持って深々と膝を折った。

「オスタルグの誇り高きズゥラの長シシシュ。わたくしを認めていただき、感謝いたします」

 静けさに包まれたその場に、私の声だけがはっきりと響いた。
 次の瞬間。

「ぬわ――――っはっはっはっはっはっ!!」

 静寂を破る笑い声が広場に轟き、まだ膝を折ったままだった私の体が、ひょいと抱え上げられた。

「ひぇっ!?」

 驚く間もなく私の体はシシシュの鞍へと乗せられて、正面に小山の頂――基、ヤーヴァルの顔が現れる。

「いやあ、お見事! わし以外には、家族でさえもこやつに認められるのに数年はかかったと言うのに、それを出会ってわずかで成し遂げるとは! なるほど、ヴィシュヴァが保護するだけのことはある! うむ、いい! 実に気に入った!」

 豪快に喋るヤーヴァルの勢いに私が呆気に取られて何も言えないでいると、そのヤーヴァルまでもが何故かシシシュに跨ってきた。自然と彼の片腕は私を支える為に腰に回され、がっちり固定されてしまう。

「……へ?」

 いつの間にか私とシシシュを中心に集まっていた人々の無言の視線が刺さり、戸惑って――

「ミュルダールの奥方。では、しばしこの娘を借り受ける」

 何でもないことのように落とされた一言は、その場の誰もを驚愕させた。

「ヤーヴァル殿!? 何を――」

 真っ先に声を上げたのはイーリスだ。けれど、その時には私の体は広場を抜けて橋を渡り、対岸の道を疾駆していて。

「ひぃいいいいいっ!」

 私の上げた微かな悲鳴は、シシシュの力強い蹄の音に紛れて消えて、山のこだまにすらならなかった。
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