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依太の章
倒れる者、背負う者。
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呂菜は穏やかに、そして強かに告げた。
「彼らは口を利かない。彼らの意思は、残してった物からなんとか汲み取るしかない。それは我々の自己満足かもしれない。けど、そういうもんも全部ひっくるめて、生きてくしかないんだよ。あんたは。」
そんなことはわかっている。
痛烈な叫びが口に出ることはなかった。玖地那波はあの日、文字通り命を共有し、魂を分けた兄弟への信頼に対し、万全の答えを導き出したそのはずであった。
然し、彼自身の未発達な心における、更に奥の脆く曖昧な精神が、時に激しく玖地那波を罵倒していた。
矮小で、愚昧で、未熟な貴様が、何故おめおめと生き延びているか、何故貴様のせいで生贄と化した兄者の身体で、気づけば息をして、音を聞いて、臭いを嗅いで、大地を踏み歩いているのか。と。
「…ここに来るまで、俺は何度も、自分が今生きている理由を考えていました。そして、そのたびに思うのです。憎いと。」
硬く握られた拳の、内奥で骨の軋む音がくぐもって響いた。
「叉舞名でも、あの赫母胎にでもない。ほかならぬ自分自身が、たまらなく憎い。」
「だろうね。」
あっけらかんとした風に、呂菜は呟いた。然し、彼女の目には玖地那波を軽んじる意思など微塵も宿っておらず、むしろ誰よりも事を真摯に受け止めているであろう眼差しが光っていた。
「教えてください。死にたいと思いながら、それでも生きる意味は何でしょうか。恐らく、この地との因縁を晴らしたその後で、俺は。」
神威の眠る青年の身体が、貧相に丸まった背中が、小刻みに揺れている。幾筋にも伸びる数多の憎悪が、彼の表皮の下で一つ、また一つと灼土の神威のうねりとなって奔っていく。
「俺は、自分に耐えられない。生きることそのものが、罪と化してしまったから。」
重苦しく響いた言葉は、淀んだ大気に濁り溶けていった。誰にも、明確な答えは出せないままで。
「……あたしもね、自分が生きてる意味なんて、一度だってわかったことなかったよ。」
呂菜は少しだけ遠くの方を見た。皺が刻み込まれたその奥の双眸がゆらりと光った。玖地那波にとっては、この上なく懐かしい顔立ちである。
「だが、近頃だ。ようやくわかった気がする。」
呂菜は戸口を指さして言った。
「もうじき、あそこから幽久という女の子が入ってくる。御隠れの後に産れ、直ぐに身寄りのなくなった子だが、なんの因果か、終ぞ子を授かることの無かった私が育てていた。」
玖地那波は幽久について思い当たりがあった。彼らがここを出た時には、確か年端のいかぬ子供だった。
「私にはもう…あの子を守る力は残っていないが、いつの間にかあの子はひとりでに強くたくましく育った。私の力を微力ながら継いでね。要は、託す者と、継ぐ者。去る者と、残る者。倒れる者と、背負う者。この繰り返しだ。いつの世もね。お前は、背負う者として、その力を託されたんだ。今は、それで十分じゃないか。何事も、強さあってこそだがね。」
「強さ…ですか。」
強さとは何だろうと、玖地那波は考えていた。今の自分に欠けている物は、どういった類の強さなのだろうと。
直ぐに、八千矛のことが頭に浮かんだ。あのでたらめな強さがあれば、俺は迷わずに済むのだろうか。
「いずれにせよ、私があんたにしてやれることはここまでだ。」
深いため息の後、呂菜婆が呟いた。薄く軽やかな声であった。
「私は行かなければならない。いろんな者が待ってるからね。」
「…?どこへ行かれるのですか。」
玖地那波は不思議そうに言った。呂菜はそれには応えず、八千矛に向き直り話した。
「この子をよろしく頼むと言いたいところだが、よくみたらあんたもそこそこの子供じゃないか。」
「でもないが。」
「そうかね。しかし、あんたは優しいよ。ぶっきらぼうに見えるがね。」
呂菜は優しく微笑みながら、仏頂面の八千矛に語り掛けた。それだけで、八千矛には彼女の伝えたい何事かがひしひしと感じられた。
「ふう、いささか疲れたね。」
ため息交じりに、呂菜は天を見上げた。その眼には、何か悟りにも近い不思議なきらめきが宿っていた。
清々しい表情をしている彼女の傍ら、一人取り残された玖地那波は、ある種胸騒ぎのようなものを感じていた。先刻から何かおかしい。何がおかしいのかはわからないが、手ごたえの無い何かを感じているような、そんな感覚が彼をひっきりなしに苛んだ。
その内、呂菜は不意に口を開いた。
「嗚呼、鳥が鳴いてるね。」
呂菜以外の両名には、彼女の言う鳥の鳴き声は聞こえていなかった。玖地那波はひたすらに動揺していたが、八千矛は黙して語らず、その場に座り続けていた。
「何者だ!!」
甲高い女人の声が響く。振り返った両名の視線は、戸口に仁王立ちするうら若き一人の女を射竦めた。
ほっかむりの下から短く伸びた前髪が額に散らばり、そのさらに下から爛々とした眼が光っている。泥交じりの手甲で覆われた左手には、錆が見られる鎌を握りしめ、彼女はまんじりともせずに二人を見つめていた。
「幽久か…?」
玖地那波が息を呑んで尋ねると、幽久と呼ばれた女はほぼ同時に、目前の相手がなじみ深い化外の一人であることを察した。
握りしめていた鎌がするりと抜ける。
「五骸の兄様…?まさか、もう帰ってきたの…?」
ようやく、幽久の両眼に懐かしさと喜びの混じった年相応の輝きが宿っていく。
「話すと長くなるが、そういうことになるな。」
久地那波が柔和な笑みを浮かべながらそう答えると、幽久も同じく満面の笑みを浮かべながら
「ところで、横の御仁はどなた…?」
「あぁ、旅の途上で世話になった方だ。」
そういって八千矛の方へと再度振り返る玖地那波。視界の端に、不自然な空白ができていた。
「玖地那波、どうやら我々は」
八千矛がうっすらと口を開く。
「死人と会話をしていたらしい。」
玖地那波が弾かれたように体ごと辺りを見回した頃には、狭い納屋の中に、呂菜の姿は跡形もなく消え去っていた。
懐かしい土の香りが、揺らめき漂っていた。
「彼らは口を利かない。彼らの意思は、残してった物からなんとか汲み取るしかない。それは我々の自己満足かもしれない。けど、そういうもんも全部ひっくるめて、生きてくしかないんだよ。あんたは。」
そんなことはわかっている。
痛烈な叫びが口に出ることはなかった。玖地那波はあの日、文字通り命を共有し、魂を分けた兄弟への信頼に対し、万全の答えを導き出したそのはずであった。
然し、彼自身の未発達な心における、更に奥の脆く曖昧な精神が、時に激しく玖地那波を罵倒していた。
矮小で、愚昧で、未熟な貴様が、何故おめおめと生き延びているか、何故貴様のせいで生贄と化した兄者の身体で、気づけば息をして、音を聞いて、臭いを嗅いで、大地を踏み歩いているのか。と。
「…ここに来るまで、俺は何度も、自分が今生きている理由を考えていました。そして、そのたびに思うのです。憎いと。」
硬く握られた拳の、内奥で骨の軋む音がくぐもって響いた。
「叉舞名でも、あの赫母胎にでもない。ほかならぬ自分自身が、たまらなく憎い。」
「だろうね。」
あっけらかんとした風に、呂菜は呟いた。然し、彼女の目には玖地那波を軽んじる意思など微塵も宿っておらず、むしろ誰よりも事を真摯に受け止めているであろう眼差しが光っていた。
「教えてください。死にたいと思いながら、それでも生きる意味は何でしょうか。恐らく、この地との因縁を晴らしたその後で、俺は。」
神威の眠る青年の身体が、貧相に丸まった背中が、小刻みに揺れている。幾筋にも伸びる数多の憎悪が、彼の表皮の下で一つ、また一つと灼土の神威のうねりとなって奔っていく。
「俺は、自分に耐えられない。生きることそのものが、罪と化してしまったから。」
重苦しく響いた言葉は、淀んだ大気に濁り溶けていった。誰にも、明確な答えは出せないままで。
「……あたしもね、自分が生きてる意味なんて、一度だってわかったことなかったよ。」
呂菜は少しだけ遠くの方を見た。皺が刻み込まれたその奥の双眸がゆらりと光った。玖地那波にとっては、この上なく懐かしい顔立ちである。
「だが、近頃だ。ようやくわかった気がする。」
呂菜は戸口を指さして言った。
「もうじき、あそこから幽久という女の子が入ってくる。御隠れの後に産れ、直ぐに身寄りのなくなった子だが、なんの因果か、終ぞ子を授かることの無かった私が育てていた。」
玖地那波は幽久について思い当たりがあった。彼らがここを出た時には、確か年端のいかぬ子供だった。
「私にはもう…あの子を守る力は残っていないが、いつの間にかあの子はひとりでに強くたくましく育った。私の力を微力ながら継いでね。要は、託す者と、継ぐ者。去る者と、残る者。倒れる者と、背負う者。この繰り返しだ。いつの世もね。お前は、背負う者として、その力を託されたんだ。今は、それで十分じゃないか。何事も、強さあってこそだがね。」
「強さ…ですか。」
強さとは何だろうと、玖地那波は考えていた。今の自分に欠けている物は、どういった類の強さなのだろうと。
直ぐに、八千矛のことが頭に浮かんだ。あのでたらめな強さがあれば、俺は迷わずに済むのだろうか。
「いずれにせよ、私があんたにしてやれることはここまでだ。」
深いため息の後、呂菜婆が呟いた。薄く軽やかな声であった。
「私は行かなければならない。いろんな者が待ってるからね。」
「…?どこへ行かれるのですか。」
玖地那波は不思議そうに言った。呂菜はそれには応えず、八千矛に向き直り話した。
「この子をよろしく頼むと言いたいところだが、よくみたらあんたもそこそこの子供じゃないか。」
「でもないが。」
「そうかね。しかし、あんたは優しいよ。ぶっきらぼうに見えるがね。」
呂菜は優しく微笑みながら、仏頂面の八千矛に語り掛けた。それだけで、八千矛には彼女の伝えたい何事かがひしひしと感じられた。
「ふう、いささか疲れたね。」
ため息交じりに、呂菜は天を見上げた。その眼には、何か悟りにも近い不思議なきらめきが宿っていた。
清々しい表情をしている彼女の傍ら、一人取り残された玖地那波は、ある種胸騒ぎのようなものを感じていた。先刻から何かおかしい。何がおかしいのかはわからないが、手ごたえの無い何かを感じているような、そんな感覚が彼をひっきりなしに苛んだ。
その内、呂菜は不意に口を開いた。
「嗚呼、鳥が鳴いてるね。」
呂菜以外の両名には、彼女の言う鳥の鳴き声は聞こえていなかった。玖地那波はひたすらに動揺していたが、八千矛は黙して語らず、その場に座り続けていた。
「何者だ!!」
甲高い女人の声が響く。振り返った両名の視線は、戸口に仁王立ちするうら若き一人の女を射竦めた。
ほっかむりの下から短く伸びた前髪が額に散らばり、そのさらに下から爛々とした眼が光っている。泥交じりの手甲で覆われた左手には、錆が見られる鎌を握りしめ、彼女はまんじりともせずに二人を見つめていた。
「幽久か…?」
玖地那波が息を呑んで尋ねると、幽久と呼ばれた女はほぼ同時に、目前の相手がなじみ深い化外の一人であることを察した。
握りしめていた鎌がするりと抜ける。
「五骸の兄様…?まさか、もう帰ってきたの…?」
ようやく、幽久の両眼に懐かしさと喜びの混じった年相応の輝きが宿っていく。
「話すと長くなるが、そういうことになるな。」
久地那波が柔和な笑みを浮かべながらそう答えると、幽久も同じく満面の笑みを浮かべながら
「ところで、横の御仁はどなた…?」
「あぁ、旅の途上で世話になった方だ。」
そういって八千矛の方へと再度振り返る玖地那波。視界の端に、不自然な空白ができていた。
「玖地那波、どうやら我々は」
八千矛がうっすらと口を開く。
「死人と会話をしていたらしい。」
玖地那波が弾かれたように体ごと辺りを見回した頃には、狭い納屋の中に、呂菜の姿は跡形もなく消え去っていた。
懐かしい土の香りが、揺らめき漂っていた。
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