天蕾神記

馬骨

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神夢久羅の章

神夢久羅への侵入者

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かつて“悪童”と呼ばれた童子、ヤチホコは、今や神夢久羅かむくらの森の奥深くにて、獣のような生を貫いていた。

喰えるものは噛み砕き、喰えぬものは武器とし、巣作りに使い、病み傷ついたときには療法へと用いた。

七年である。

幼き童子が、ただ一人で、十九の年へと至るまでに手つかずの森にて生き抜いた歳月。

その最中、近親を呑み込んだ、紅きわざわいの記憶は、色褪せることなく焼き付き、彼の心に憤怒と怨嗟えんさを宿し続けていた。

しかし、彼の復讐の歩みは何一つとして前身していなかった。

彼を阻んだのは、惨日に端を発する恐れである。

ヤチホコ渾身の一撃を、軽々といなし、嘲り、屠った悪鬼共の醜く歪んだ顔は、幾度も夢に出ては彼を苛んだ。

もう一つは、彼自身が持つ生来の性質。思慮深き一面である。

自らの、神都において比類なき膂力をもってしても、全く歯が立たなかったという事実は、日に数度激情から正気を取り戻すように、幼いヤチホコを深い計略の底に落とし込んだ。

禍津ろいを神夢久羅に誘き寄せて禍津陽の囲いをはがすか、神都に忍び込んで内情を探るか、いっその事、正面から討って出るか。

何れの結論も、答えは同じである。

自らの数多の戦略を一つずつ脳内に、出来うる限り鮮明に映し出し、そのどれもが同一の「死」という終結へと向かっていく。

架空であるが、絶対の絶望の最中、いつしか考えることを放棄したヤチホコは、ただ日々を食らって寝るだけに費やす、自我すら曖昧な獣へと思考を衰退させる。

人としてのヤチホコ。獣としての彼。

月日の経過につれその境界線は、非常に朧なものとなり、ヤチホコがに戻る回数は、次第に減っていった。

いつしか、長き怨恨を抱き続ける日々は彼から、心理の陽性に属する様々な情緒を奪っていく。

昔日の傷口を剥き出しに、それを庇う術も、癒す者も無いままに。

傷口はやがて腐敗し、刻まれた心傷に蝕まれた精神が壊死していく。

そして彼は、広大な神夢久羅の森を自らの縄張りとした。

生き長らえるため命を屠る鬼の如き獣と化し、冷徹な仮面のごとき様相を宿しながら。

ある曇天の昼下がりである。

獣が、数ヶ月ぶりかの"理性"を取り戻す出来事が起こった。

脱兎を狩り、その皮を素手にて引き裂くように剥いでいた時。

ヤチホコは、神夢久羅を侵す外界よりの異なる気配を察知した。

直後ヤチホコの耳に微かに届く、神夢久羅の静寂を裂くように轟いた重く踏みしだく足音。鳴り響く獣除けの呪鈴。

彼はすぐさま気配の方角へと駆けた。

その遥か先には、黒い纏いに身を包んだ不可思議な衆の姿があった。

侵入者は五人。

太阿神國の東南に位置する属国、依太國よりたいこくの尖兵達である。

皆一様に黒き作務衣に身を包み、その奥から土のように浅黒き地肌が、時折その身を覗かせている。

彼ら五人は、”化外の民”と呼ばれる忌避されし民族である。

古の狂い神に属した神民の末裔として蔑まれ、依太の地の枯れ草すら疎らな辺境にて、細々と暮らす者達であった。

「何なのだ、この一帯は…。」
五人の内、先頭に立ちつつ前衛を務める隊の長は、瞳だけを左右上下に忙しなく泳がせつつ呟いた。

「報告にはない。気配から察するに尋常の空間ではないと思うが…」
その声に反応する中衛の男もまた、自らに宿る異能の覚を研ぎ澄ませ非常に備えていた。

「戻るか?」
「回るか?」
左右の翼を務める双子が、息を揃えた。

「いや、地形によればこの森を越えれば神都に達する。」
殿に立ち、古ぼけた地理書を片手にそう発したのは、まだあどけなさの残る童児である。

五人の歩みは先ほどより、一層の慎重さを見せた。どこまでも蔓延る森閑が彼らを包んでいる。

そして。

かさりと、小さな音が微かに鳴った。

「……何か、来るぞ」

旋毛から爪先まで全身の触覚を研ぎ澄ました前衛の長、特腕とくかいなが、ぼそりと呟く。

「どこだ?」

鋭き視覚を誇る中衛、細眼さいがんは、神夢久羅の神秘濃密な木々の影により、その力を封じられたかのように、焦れた声を返す。

「近づいてきている。」
「すごい速さで。」

利鼻の鼻腔に突如渦巻いたのは、接近する何者かの持つ異様な神格の香気と土獣の匂いが混ざった奇怪な臭気である。その混濁した情報が、彼の嗅覚をかえって鈍らせていた。
一方、聴覚に優れた冴耳は、何者かの走り寄る獣のような足音を、その位置と共に捉えていた。

左右の双子がそう放つと同時に、殿の童、口縄が舌を突き出し、はたと目を閉じた。

「北西だ。それも木の上。」

彼の異能は、大気に含まれる万象を、舌にて嘗め取り、味覚で見分ける技である。
その技術が、この森に渦巻く何者かの気配を察知していた。

「我々が気づかぬ間にここまで近づけるとは、只者ではない…。」
口縄の青い顔と共に伝播した張り詰める弦のような緊張が、特腕の警戒を強めた。

「方角に向かい、横陣を組むぞ。中央は俺と細眼で固める。」

長の指示に従い、若武者たちは陣形を象った。その手には、各々が得意とする獲物を有し、未知なる存在の、ますます濃くなっていく気配に警戒を強めていた。

そして必然として、それは現れた。

ヤチホコは神夢久羅の木々を伝い、枝から枝へ、風よりも静かに進み、ついには彼らの頭上に陣取る。

唯一その朧げな姿を捉えた細眼は、苔と枝に覆われたヤチホコの異様な佇まいを禍津まつろいの民と見誤った。

「怪しき者よ、名を申せ!神都に巣食うマツロイか!」

細眼の声が響くと同時に、特腕は弓を番え、他の兵らも獲物を構える。

身の丈は凡そ六尺かそれ以下。野生に塗れている点を除けば、何の変哲もない青年の出で立ちである。だが、神樹の密とした影の中で唯一ヤチホコの姿を視認できていた細眼は、僅かながら見逃すことの出来ない不気味さを捉えていた。

無造作に逆立つ硬質の頭髪。鬱蒼とした森の中においても浅黒い肌、何処か土や木に似た色。その色をいっそう濃く見せる吸い込まれるような二つの黒い眼。一貫して冷酷な表情を保つヤチホコには、依太國随一の精鋭ですら畏怖させる威厳が漂っていた。

ヤチホコは一言も発さず、ただ足元で猛る侵入者を眺めていた。黒き作務衣の纏いの下から覗く、あどけなさの残る童顔が天照のように丸く光る眼を向けている。同じく黒纏いの頑強な体躯たいくの若武者の構える弓が、キリリと鳴いた。

得腕の警戒を伝える鳥肌は、全身余すことなく総立ちになり、恐怖と悪寒を孕んだ冷や汗が背筋に伝っていた。頭上の木陰に溶けるように潜む、野蛮かつ面妖な者が、人とは思えぬただならぬ神格を零していることに、少なからずおののいていた。

その畏れが、彼の判断を鈍らせた。

特腕は他四人の態勢が整う間を与えず、一息に矢を放った。

気息一閃。

天照の神威かむい宿る陽牙石ようがせきを先端に取り付けた神器、神室義かむろぎの矢は、寸分の狂いもなく神夢久羅の森に巣食う異様な若者の眉間に突き刺さった。

勢いよく流血を噴霧ふんむし、のけぞった獲物はゆっくりと枝の隙間にかかり…。

細眼が捉えた幻の決着は、そこで途切れた。

ヤチホコの眉間に神器が到達する、その間際。神域の森に、閃光走る。

手始めに特腕と細眼。

脅威を身に向けた者、視認を果たし、それに加担した者。以上異国の精鋭二名の口から、臓腑ぞうふよりせりだした吐瀉としゃが勢いよく噴き出す。

利鼻は思わずその場から三歩ほど飛びのいた。

音もなく地に伏した両名の間に、今しがた頭上の枝から見下ろしていたはずの野生児の姿が佇んでいたからである。

ヤチホコの身体に溢れる力は、常人のそれをはるかに凌駕していた。

ほぼ予知に近いほどの精度を誇る直感。黒天に走る雷のごとき速度。

木肌を蹴り、土壌へと垂直に急加速したヤチホコの両腕は、神器が木の幹に突き刺さるより早く、両人の水月(みぞおち)に深々と突き刺さっていた。

精鋭衆筆頭二名の卒倒に、後に残る三名。慌てふためき、逃亡を図るも。

逃げの態勢に入るより早く、ヤチホコの体が虚空を舞った。

直状の閃光が三筋ほど流れ星のように瞬き。

三人は成すすべなく、気づけば神夢久羅の土を舐めていた。
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