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神夢久羅の章
五人の生贄
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薄曇りの天が、森の奥まで沈黙を注ぎ込んでいた。
神夢久羅の大木に括り付けられた五人の男たち。
利鼻、細眼、口縄、冴耳、特腕は、縄目の内で荒い呼吸を繰り返していた。
縄は蔓と獣腱と神木の樹皮で編まれており、決して人間の手によるものとは思えぬほど緻密に、かつ本能的に結ばれていた。
まるで蜘蛛が糸で獲物を包んだような、冷たく野生的な手際である。
ヤチホコは焚き火の傍で、兎の骨を砕き、その髄を吸っていた。生き臟を啜る音が、ゆっくりと冴耳の聴覚を苛む。
「……殺さぬのか」
特腕が呻いた。
臓物を這いずり回る痛みが、喋る度にその勢いを増していく。
ヤチホコは言葉を返さず、焼けた骨を火中へ放り、静かに立ち上がった。
その眼には、久方ぶりの理性が確かに宿っていた。燃え盛っているのは復讐の焔であり、人としての温かみではない。
細眼は目の前のヤチホコの滾るような怒りの標的を図りかねていた。
口縄はとうに、その怒りが自らに向けられているものではないことを悟っていた。
「おまえたちは、神國の民か…?」
低く絞った声。焚き火の煙が絡みつくような、陰りある響きでヤチホコは問う。
「……違うな。俺たちは、依太國の先遣。五骸衆だ」
答えたのは口縄。
唇に血が滲んでなお、舌を湿らせながら喋るその声には、どこか誇りのようなものが伺い知れる。
「太阿神國以外に、国があったのか」
「あるさ。西には太貢國。北には太尽國。いずれも太阿神国を支える、属国という名の、従属者だ」
「つまり……天照御所はまだ、健在か」
ヤチホコの声には、僅かに含みがあった。
怒りでも、悲しみでもない、何事かを待ち受けるような期待。
あの惨劇の侵略より七年。
天照はあの禍き陽に取り変わったように、姿を見せなかった。曇天の幕からついぞ姿を出すことがなかったのである。
だが、天照御所には未だ生き永らえている国が存在していた。
これは、天照の加護が弱々しくも生きており、天照が完全に赫母胎に屈服してはいないことを示していた。
天照の神域を何食わぬ顔で穢していった赫母胎。
その魔の手には今のヤチホコでは足元にも及ばないとそう確信していた。だが、真陽の神威が生きているとするのなら。
彼のなかで、長く停滞していた時間が再び動き出したような、期待にも似た展望が開けていく。
「健在…だと…?」
口縄が嘲笑気味に低く呟いた。
「貴様は…この森から出たことがないと見えるな…」
「貴様は…他の國の惨状を知らぬと見えるな…」
双子である利鼻、冴耳の声が立て続けに響く。
「七年前…。天照御所が鈍色の雲に包まれたあの日。日照聖都よりの使者が途絶えたあの日から…。我が祖国は絶望的な飢餓に見舞われたのだ。」
口縄は故郷の荒れ果てた大地を思い出していた、天照が閉ざされ、不安と焦燥にほだされ、徐々に狂乱に転ずる依太の神民を。
「もとより神都の重税によって豊かではなかった祖国は、天照の消失により衰退の一途を辿った。若者は飢えに嘆いて諍いを起こし、老いた者は暗い諦観の中、次々と倒れていった。赤子が飲む乳を探し泣き叫ぶ傍らで、とうに母親は事切れている。そんな地獄を、我々は何年も潜り抜けてきたのだ。」
特腕はかつての依太を思い出していた。貧しくとも、豊かであった海沿いの鮮やかな国土。岸壁を守る珊瑚礁の一つ一つに豊かな魂が、依太を覆うように守っていた。
ヤチホコは依然何も語らず、憮然とした表情で括り付けられた五人を焚き火の向こうで眺めている。
その様子を意にも介さず、口縄は続けてまくしたてた。
「しびれを切らした祖国の神官は幾千の依太軍を、神都に送った。」
その語りの最中、五骸衆長兄、特腕の頭がぐらりと揺らぐ。
ヤチホコは反射的に視線を合わせた。
焚火が生み出す光と影の、丁度中間に縛り付けられていた特腕の朧げな輪郭が、力なくうなだれている。
そして、ヤチホコは彼の様子に釘付けとなった。
作務衣の中から、いく筋も血潮がダラダラと流れていた。
特腕は、全身の毛細血管を怒りとともに破裂させたのである。
皮膚の下で充血した血の塊が、毛穴から、汗腺から、とめどなく滲み出ていた。
ヤチホコが暫し呆気に取られていると、続いて次兄、細眼の爛々とした眼の奥底から、勢いよく彼自身の血が吹き出す。
その光景を呆然と眺めるヤチホコは、安寧なる神都にて産まれ、生を昇華する自然において、その生を営んでいた。
それ故に、彼らの行動は完全にヤチホコの理外に在った。
”自決”という末路。”生贄”という概念。それらによって成される”呪術”という禁忌。
「長い遠路の果て、神都の成れ果てを目にし戻ってきたのはたったの数名。それ以外の幾千の同胞は数日とかからぬうちに、全て魔都の餌食になったのだ」
双子である冴耳、利鼻両名、自身の異能が宿る器官が、根元からスッパリと刃物で切れたかのようにこそげ落ちた。
四人の血溜まりが、中央に縛られた最年少、口縄の足元に迫っていく。
ヤチホコは思わず眉をひそめ、その場から後ずさりした。
野生において研ぎ澄まされた勘が、凶兆を諭していたのだ。
四人の痛みに呻く声の中で、口縄が怨怨と恨み言を語り続ける。
「我々の赫怒はそこにはない…許せんのは神都の連中が犯した罪だ。我々から奪った資源を分かち合うこともせず、一握りの神格高き神民に貪らせていたとは…何たる屈辱!何たる無念!」
口縄の叫びの最中、虫の息であった四人は次々と禁忌である呪神降ろしの呪言を唱えだした。
それに呼応して、四人の血沼が螺旋を成し、木の根絡まる土壌の奥底へ渦巻いていく。
神夢久羅の地を穢された怒りが、ヤチホコの全身を貫くようにこだまする。
「フハハハ!怒れ怒れ!貴様の憤怒など我らの地獄にて育まれた激情の、足元にも及ばんわ!!」
口縄が高らかにせせら笑った。
「これは、神都に巣食う禍津ろいの畜生共へお見舞いするつもりであったが、もう良い。」
口縄の瞳には、歓喜と狂気の入り混じる光が輝いていた。ヤチホコは感覚を研ぎ澄ませ、自身の身に起こるであろう受難に精一杯備えていた。
「貴様が誰だか知らぬが、ただならぬ神格からするに、恐らく天照神格高き、貴族の成れの果てであろう?ならば、同罪よ。」
ヤチホコは彼らの誤りを正そうとは思わなかった。
ただ、目の前に渦巻く見たことの無い瘴気に、怒りすら忘れ本能的に戦いた身体が、舌を硬直させ、言葉を遮っていたのだ。
「貴様の神格高き魂を喰らい、魔都に渦巻く禍津陽ごと飲み干し。その上に我が依太、否、焔神の真名を冠する神国を築かん。」
化化化化化と、四人の骸から不気味な嘲笑い声が響いた。
赤黒くうねる細長い舌を滑らせ、口縄は古の禁忌を呼び出した。
"啜り、這いよれ、夜刀神
降りて 力を授けよ
古より続く怨嗟の渦
今こそ晴らさん"
彼の発した呪言が、黒天に高く舞い上がった。
その刹那、口縄は長く突きだした舌を噛み切り、その場で果てた。
ヤチホコはしばらくその場に杭を打ち付けられたかのように立ち尽くしていた。
焚き火の燻る音がさざめく神夢久羅の一角には、巨木に括り付けられた五人の無残な骸が残っていた。
神夢久羅の大木に括り付けられた五人の男たち。
利鼻、細眼、口縄、冴耳、特腕は、縄目の内で荒い呼吸を繰り返していた。
縄は蔓と獣腱と神木の樹皮で編まれており、決して人間の手によるものとは思えぬほど緻密に、かつ本能的に結ばれていた。
まるで蜘蛛が糸で獲物を包んだような、冷たく野生的な手際である。
ヤチホコは焚き火の傍で、兎の骨を砕き、その髄を吸っていた。生き臟を啜る音が、ゆっくりと冴耳の聴覚を苛む。
「……殺さぬのか」
特腕が呻いた。
臓物を這いずり回る痛みが、喋る度にその勢いを増していく。
ヤチホコは言葉を返さず、焼けた骨を火中へ放り、静かに立ち上がった。
その眼には、久方ぶりの理性が確かに宿っていた。燃え盛っているのは復讐の焔であり、人としての温かみではない。
細眼は目の前のヤチホコの滾るような怒りの標的を図りかねていた。
口縄はとうに、その怒りが自らに向けられているものではないことを悟っていた。
「おまえたちは、神國の民か…?」
低く絞った声。焚き火の煙が絡みつくような、陰りある響きでヤチホコは問う。
「……違うな。俺たちは、依太國の先遣。五骸衆だ」
答えたのは口縄。
唇に血が滲んでなお、舌を湿らせながら喋るその声には、どこか誇りのようなものが伺い知れる。
「太阿神國以外に、国があったのか」
「あるさ。西には太貢國。北には太尽國。いずれも太阿神国を支える、属国という名の、従属者だ」
「つまり……天照御所はまだ、健在か」
ヤチホコの声には、僅かに含みがあった。
怒りでも、悲しみでもない、何事かを待ち受けるような期待。
あの惨劇の侵略より七年。
天照はあの禍き陽に取り変わったように、姿を見せなかった。曇天の幕からついぞ姿を出すことがなかったのである。
だが、天照御所には未だ生き永らえている国が存在していた。
これは、天照の加護が弱々しくも生きており、天照が完全に赫母胎に屈服してはいないことを示していた。
天照の神域を何食わぬ顔で穢していった赫母胎。
その魔の手には今のヤチホコでは足元にも及ばないとそう確信していた。だが、真陽の神威が生きているとするのなら。
彼のなかで、長く停滞していた時間が再び動き出したような、期待にも似た展望が開けていく。
「健在…だと…?」
口縄が嘲笑気味に低く呟いた。
「貴様は…この森から出たことがないと見えるな…」
「貴様は…他の國の惨状を知らぬと見えるな…」
双子である利鼻、冴耳の声が立て続けに響く。
「七年前…。天照御所が鈍色の雲に包まれたあの日。日照聖都よりの使者が途絶えたあの日から…。我が祖国は絶望的な飢餓に見舞われたのだ。」
口縄は故郷の荒れ果てた大地を思い出していた、天照が閉ざされ、不安と焦燥にほだされ、徐々に狂乱に転ずる依太の神民を。
「もとより神都の重税によって豊かではなかった祖国は、天照の消失により衰退の一途を辿った。若者は飢えに嘆いて諍いを起こし、老いた者は暗い諦観の中、次々と倒れていった。赤子が飲む乳を探し泣き叫ぶ傍らで、とうに母親は事切れている。そんな地獄を、我々は何年も潜り抜けてきたのだ。」
特腕はかつての依太を思い出していた。貧しくとも、豊かであった海沿いの鮮やかな国土。岸壁を守る珊瑚礁の一つ一つに豊かな魂が、依太を覆うように守っていた。
ヤチホコは依然何も語らず、憮然とした表情で括り付けられた五人を焚き火の向こうで眺めている。
その様子を意にも介さず、口縄は続けてまくしたてた。
「しびれを切らした祖国の神官は幾千の依太軍を、神都に送った。」
その語りの最中、五骸衆長兄、特腕の頭がぐらりと揺らぐ。
ヤチホコは反射的に視線を合わせた。
焚火が生み出す光と影の、丁度中間に縛り付けられていた特腕の朧げな輪郭が、力なくうなだれている。
そして、ヤチホコは彼の様子に釘付けとなった。
作務衣の中から、いく筋も血潮がダラダラと流れていた。
特腕は、全身の毛細血管を怒りとともに破裂させたのである。
皮膚の下で充血した血の塊が、毛穴から、汗腺から、とめどなく滲み出ていた。
ヤチホコが暫し呆気に取られていると、続いて次兄、細眼の爛々とした眼の奥底から、勢いよく彼自身の血が吹き出す。
その光景を呆然と眺めるヤチホコは、安寧なる神都にて産まれ、生を昇華する自然において、その生を営んでいた。
それ故に、彼らの行動は完全にヤチホコの理外に在った。
”自決”という末路。”生贄”という概念。それらによって成される”呪術”という禁忌。
「長い遠路の果て、神都の成れ果てを目にし戻ってきたのはたったの数名。それ以外の幾千の同胞は数日とかからぬうちに、全て魔都の餌食になったのだ」
双子である冴耳、利鼻両名、自身の異能が宿る器官が、根元からスッパリと刃物で切れたかのようにこそげ落ちた。
四人の血溜まりが、中央に縛られた最年少、口縄の足元に迫っていく。
ヤチホコは思わず眉をひそめ、その場から後ずさりした。
野生において研ぎ澄まされた勘が、凶兆を諭していたのだ。
四人の痛みに呻く声の中で、口縄が怨怨と恨み言を語り続ける。
「我々の赫怒はそこにはない…許せんのは神都の連中が犯した罪だ。我々から奪った資源を分かち合うこともせず、一握りの神格高き神民に貪らせていたとは…何たる屈辱!何たる無念!」
口縄の叫びの最中、虫の息であった四人は次々と禁忌である呪神降ろしの呪言を唱えだした。
それに呼応して、四人の血沼が螺旋を成し、木の根絡まる土壌の奥底へ渦巻いていく。
神夢久羅の地を穢された怒りが、ヤチホコの全身を貫くようにこだまする。
「フハハハ!怒れ怒れ!貴様の憤怒など我らの地獄にて育まれた激情の、足元にも及ばんわ!!」
口縄が高らかにせせら笑った。
「これは、神都に巣食う禍津ろいの畜生共へお見舞いするつもりであったが、もう良い。」
口縄の瞳には、歓喜と狂気の入り混じる光が輝いていた。ヤチホコは感覚を研ぎ澄ませ、自身の身に起こるであろう受難に精一杯備えていた。
「貴様が誰だか知らぬが、ただならぬ神格からするに、恐らく天照神格高き、貴族の成れの果てであろう?ならば、同罪よ。」
ヤチホコは彼らの誤りを正そうとは思わなかった。
ただ、目の前に渦巻く見たことの無い瘴気に、怒りすら忘れ本能的に戦いた身体が、舌を硬直させ、言葉を遮っていたのだ。
「貴様の神格高き魂を喰らい、魔都に渦巻く禍津陽ごと飲み干し。その上に我が依太、否、焔神の真名を冠する神国を築かん。」
化化化化化と、四人の骸から不気味な嘲笑い声が響いた。
赤黒くうねる細長い舌を滑らせ、口縄は古の禁忌を呼び出した。
"啜り、這いよれ、夜刀神
降りて 力を授けよ
古より続く怨嗟の渦
今こそ晴らさん"
彼の発した呪言が、黒天に高く舞い上がった。
その刹那、口縄は長く突きだした舌を噛み切り、その場で果てた。
ヤチホコはしばらくその場に杭を打ち付けられたかのように立ち尽くしていた。
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