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不安をなくすには
しおりを挟む『コハク……コハク!』
この声は……お父さん?
『どこに行っていたんだ。心配したんだぞ!』
泣いてる?お父さんが床に膝をつき視線を合わせ、まるで存在を確かめるかのようにわたしの頰を撫でながら、大粒の涙を流している。
『勝手にどこかへ行かないでくれ!コハクに何かあったら、コハクまで居なくなってしまったらっ、俺は……俺はっ』
あぁ、これは夢だ。わたしが小学生になる前、買い物の途中で迷子になった時の記憶だ。
『ご、ごめんなさい。き、気付いたら一人で……怖くて、そ、それで』
お父さんを探すために無策にもその場から離れ、店内を歩き回ってしまった。
『いや、本当に悪いのはコハクの手を離したパパだ。ごめんな、怖い想いをさせて……』
パパはそう言ってわたしと自分の涙を拭うと、いつもの明るい笑顔と声で手を差し出した。
『さぁ帰ろう。コハク』
その笑顔と声に安心したわたしは、パパと同じように笑顔でーー
「うん。今度は絶対、離さないでね。パパ」
差し出されたその手に手を伸ばした。
「コハク!!」
「ゔっ!……クシェル、様?」
突然の肩の痛みに目を覚ますと、何故かクシェル様が泣きそうな顔でわたしを見ていた。
「っど、どうしたんですか⁈何があったんですか!」
昨晩はあんなに幸せそうに笑ってくれていたのに、いったい何が⁈
結局わたしがクシェル様にあげられたモノが何だったのかは分からなかった。けど、確かにクシェル様は『ちゃんと貰った』って言ってくれて、喜んでくれて、眠りにつくその時まで幸せそうに微笑んで、わたしの頬を撫でてくれていた。
だから、少なくとも昨晩の段階では、クシェル様が不安や恐怖を覚えるようなことは起きていないはず。そんな過ちは犯していないはずだ。
と、するとーー
「怖い夢でも見たんですか?」
夢という単語にクシェル様は、顔を顰め明らかな反応を見せる。
しかし、わたしのその問いにクシェル様は答えを返す事はなく「すまない、忘れてくれ」とだけ言い残し、寝室から出ていってしまった。
「コハク!おはよう。あの後大丈夫だったか?何処も怪我してないか?何か無理強いされたり、変な事をされたりしなかったか?」
食堂に入るや否や、先に席に座って待っていたジークお兄ちゃんが駆け寄ってきて、服の上から軽いボディーチェックを受けた。
「だ、大丈夫だよ。何処も怪我してないし、無理も変なこともされてないよ」
「本当か?」
「うん」
「本当の本当に?クシェルの為にって我慢してたりもしてないか?」
ボディーチェックを終えて尚、疑り深く質問を重ねるジークお兄ちゃん。少し心配し過ぎだと思う。それともクシェル様のことが信用ならない、とか?
「本当の本当だよ……」
クシェル様がわたしにそんなことするわけないでしょ?と続けようとして、咄嗟に口を紡ぐ。何故なら、特殊な状況下だったとはいえ、今までに何度かそういったことがあったのも事実だからだ。
「き、昨日は本当にジークお兄ちゃんが心配するようなことは何もなかったよ!」
「では今朝は何かあったのか?」
ジークお兄ちゃんはそう言うと、視線を一人席に着き無言で俯いているクシェル様の方へと向けた。
「そ、それが……」
わたしは今朝の出来事をジークお兄ちゃんに耳打ちで伝えた。
「だからわたしは、怖いを夢でも見たのかな?と思ったんだけど」
聞いても答えは貰えなかった。
「んー……それか、コハクが寝言で何か言ったか、だな」
「寝言?」
「どんな夢を見たか覚えてないか?」
ジークお兄ちゃんにそう問われ、記憶を探る。しかし、残念ながら上手く思い出せない。
何かに手を伸ばしていたような気はするんだけどーーいったい何に?どういう状況で?肝心なところが思い出せない。
その歯痒さと、理由の分からない寂しさから、わたしは気付けば右手を握りしめていた。
「コハク?」
「あ、ごめんなさい。……覚えてない」
わたしが無言のまま目を伏せ、意味深に拳を握りしめたからだろう。ジークお兄ちゃんにまで不安な顔をさせてしまった。
わたしは慌てて握っていた拳を解くと、困ったように苦笑して見せた。あたかも先程の反応は、クシェル様のことに対する悔しさのみが原因だったかのように。
クシェル様に理由を聞いても答えは得られず、自分が見た夢も思い出せない。クシェル様が急に不安を抱いた原因が見つけられない。
だが、クシェル様の不安の内容は大体の検討がつく。そう、クシェル様があんな顔をする時は決まってーー
そんなことあるはずないのに。
少なくともわたしの意思でクシェル様から離れることは絶対にない。それこそ嫌いになるなんてことは絶対に有り得ない!
結局どんなに言葉を尽くし、態度で示しても完全に信じてはもらえない。安心させてあげられないんだ。
どれだけ沢山の幸せを得ても、それは所詮寝言一つで簡単に崩れてしまう程脆く儚いものでーーきっと今のわたし達の関係にも同じことがいえる。
そのことに改めて気付かされ、気づくとため息が漏れてしまっていた。
しかし、これはクシェル様だけの問題ではない。だってわたしも同じだから。わたしだって不意に考えてしまう。
二人が離れていってしまう可能性を、二人に嫌われ、拒絶される可能性を。常にその恐怖が付き纏う。
そんな事を考えながらの食事が楽しいわけもなく、ただ与えられたものを咀嚼し嚥下を繰り返した。食事が終わってもお互い気まずいままで、執務室で別れる時も「いってきます」「あぁ」と最低限の言葉だけ。
やはり難しいんだろうか。種族の違いだけでなく生まれた世界が違うというのは、こんなにも障害になるものなのか。
ーーいや、違う。そんなのはただの言い訳だ。ちゃんと分かってる。
仮に相手が同じ世界の同じ種族だったとしても結果は変わらない。わたしは必ず頭の隅でその最悪な可能性を考え続ける。考えずにはいられない。幸せの陰に常に不安と恐怖が付き纏う。きっとクシェル様も同じだ。
相手を信頼していないわけでは決してない。今の現状に不満があるわけでもない。ただ怖いんだ。相手に大きな信頼を寄せているからこそ、今がこの上なく幸せだからこそ、それだけその幸福が崩れ、終わる瞬間が怖くて仕方ない。
きっと今度は、あの頃なんて比にならない程の絶望が、底知れない暗闇がわたしを襲うんだ。そうなったらわたしは今度こそ自らの命を絶つだろう。そんなあるかも分からない未来が容易に想像してしまえるほど、それはわたしのすぐ側に在る。
ーーまるで呪いだ。
期待、信頼、幸せ、心の支え……それらを何度も何度も踏み躙られ失う度に増え、絡みついた呪い。
「それでも、わたしは」
クシェル様を救いたい。
この呪いとも言える考え方は治そうと思って治せるものではない。それはわたしが一番よく分かってる。でも、その苦しみが分かるからこそ、どうにかしてクシェル様をその呪縛から解放してあげたいと思う。
クシェル様には、心の底から安心してほしい。疑念も不安も感じる隙がないほど、濁りも揺らぎもなく澄み渡った完璧な幸せを手にしてほしい。
そのためにわたしは、何をすれば良いのかーー
「クシェル様の不安をなくすには、どうすれば……」
今日は一日ずっとそのことばかり考えている。しかし未だ答えが出ない。
「その原因を潰すしかないでしょうね」
入浴後のケアの後、クシェル様の部屋へと向かうまでのわずかな時間。
今日一日ずっと上の空だったわたしを静かに見守ってくれていたサアニャが、ハーブティーを差し出しながら、一つの答えを示してくれた。
「それはそうなんだけど……でも今回はその原因が分からなくて」
何をどう対処すれば良いのか分からないのだ。それに、出来ることなら今までのようなその場限りの解決じゃなくて、もっと根本的な解決につなげたい。
「簡単ですよ。先日からシイナ様に隠している事を吐かせて、とある可能性を否定してあげれば良い。……どうせ今回のはそれに起因した何かでしょから」
そう言ってサアニャはため息はつかないものの、明らかに呆れを含んだ視線を床に落とした。
「え?で、でもそれは詮索しないって約束したし……そんなやり方はきっとクシェル様も望ま」
「相手の望みに従うことが、必ずしも互いの幸福に繋がるとは限らないんですよ」
その言葉と共に向けられた同情めいた目に何故か『それはあなたもよく分かっているでしょう?』と、そう言われた気がした。
分かってるよ。ちゃんと分かってる。相手の望むように振る舞ったって、相手にとって都合の良い存在になったからって、必ずしもそれが幸せに繋がるわけじゃない。
だって幸せのあり方は人それぞれで、他人と自分とでは求めるものに違いがあるから。
「でも……それでもわたしは」
クシェル様の嫌がる事を無理強いしたくない。それが結果としてクシェル様の幸せに繋がったとしても。約束を違えるようなことは、信頼を裏切るようなことはしたくない。クシェル様が傷つく選択は絶対に選ばない!
これは完全にわたしの我儘だ。リスクも無しに、良い結果だけを得ようと欲を張り、一日中上の空でサアニャにも心配をかけた。
分かってる。サアニャの案が迅速かつ効果的な案だって。でも諦めたくない。諦めない。だって決めたんだ。自分に正直に生きるって、我慢しないって決めたんだ!
「難儀ですね……同じ痛みを知る者同士というのも」
ため息混じりに溢れた、サアニャのその小さな囁きは、わたしの耳に届くことはなかった。
「すみません遅くなりました!思いの外サアニャとの話が盛り上がってしまって」
余計な心配をかけないように、不安を増幅させないように、わたしは明るい声を意識して、クシェル様の寝室の扉を開けた。
「こ、コハク!その、少し話したいことが……あるのだが」
三人とも布団に入り横になろうとした時、クシェル様が意を決したかのように強い声でわたしを呼んだ。
どうやら、わたしがサアニャと話をしている間にこちらでも話し合いが行われていたようで、クシェル様は時折ジークお兄ちゃんと視線でのやり取りを行いながら、ポツポツと今朝の行動の原因について話し始めた。
そうか、わたしが夢の中で手を伸ばしてたのはパパ……お父さんだったんだ。
夢の内容を思い出そうとした時に感じた寂しさの理由が分かり、一人納得する。と同時に、寝言とはいえお父さんのことを『パパ』と呼んでいるのを聞かれていた事実に、恥ずかしさと居た堪れなさを覚えた。
いったいどんな夢をーーいや、そんなことよりも今はクシェル様のことだ!クシェル様の不安を取り除くことの方が大切だ!
「え、えっとつまりクシェル様は、わたしが前の世界へ帰りたがっていると思って不安になってしまった、ということですか?」
「す、すまない。今更そんなことでって……またかって呆れたよな」
怯えたように両手を胸の前で組み合わせ、目を伏せたクシェル様は、消え入りそうな声で再び「すまない」と謝罪の言葉を口にした。
その謝罪は何に対してのものかーー
「やっぱり、信じられませんか?」
「っ!ち、違う!決してコハクのことを信じていないわけではないんだ!本当だ!しかし、ど、どうしても」
「考えてしまう?」
わたしが離れて行く可能性を。
「っ!……ぁ……すまない」
やはりそうだ。クシェル様もわたしと同じだ。同じ呪いを背負ってる。
「大丈夫ですよ。わたしも同じだから分かります。呆れてもないし、傷付いてもいません。だから落ち着いてください。大丈夫、クシェル様は何も悪くありません。自分を責めなくて良い、謝らなくて良いんですよ」
指先が白くなるほどキツく握られたクシェル様の両手を上から包み、もう片方の手でクシェル様の背中を撫でさする。
すると徐々に身体の力が抜け、呼吸もいつもの穏やかなものへと戻っていった。
それを見届けたジークお兄ちゃんは静かに口を開く。
「良いよな……お前はコハクと同じ悩みを共有出来て」
しかし、その声はクシェル様の涙を拭っていたわたしの耳に届くことはなかった。
「ッハ!そうか!」
言葉や態度で示すのがダメならそういう状況を意図的に作り出せば良いんだ!
クシェル様もいつもの落ち着きを取り戻し、改めて就寝しようと横になり、二人の温もりに包まれたその瞬間、それは突然頭に降ってきた。
この先一生二人から離れられず、万が一、いや億が一にも元の世界に帰りたいと思っても、もう決して帰れない!そういう状況に自分を追い込めば良いんだよ!
不可逆的で誰の介入も、その後の自分の意思すらも意味を成さず、誰も解決できないような、そんな決定的な状況に!
そうしたら、クシェル様が不安に思う原因を根本から失くせる!
でも都合良くそんな状況作り出せるはずが……いや、ある。その可能性を秘めた策がたった一つだけ!
「クシェル様!」
いや、待て。これは可能性の一つに過ぎない。絶対じゃない。そんな不確かなものクシェル様に提案出来ない。それにーー
「ど、どうした」
クシェル様が望む関係性か分からない。もしかしたら、負い目を感じてしまうかも知れない。もっと慎重に行動しなければ。
「あ、えと、今はまだ……もしかしたら今度、大変なお願いをするかもなんですが、その時はどうか、引かないでくださいね?」
応援ありがとうございます!
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