西からきた少年について

ねころびた

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アーカス侯爵領(99〜)

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 また夜に──との予定は、日が傾く頃に繰り上げられた。ソロウたち冒険者が、急に焦って出発を早めたがったからだった。

 今朝、渇望していたフカフカのベッドへ入った途端に疲れすぎて眠れない現象に陥った彼らは、急に現実を思い出したような気分になった。
 世間知らずな少年と、筋肉頼りの貴族と、遊び盛りの魔狼。彼らだけで、どうやってまともな冒険が出来ようものか。
 ダンジョンでは、現実を否定するように、リュークたちの状況を具体的に想像することすら避けていた。不思議なことに、命の危険は無いと感じていたからだ。しかし、今になって津波のように不安が押し寄せてきた。それで居ても立ってもいられなくなった彼らだったが、どうにか無理矢理仮眠をとり、目を覚まし、再び談話室に皆を集めたところで現在に至る。

「──それで、なんだか心配で堪らなくなってしまって。ごめんなさい、勝手なのは分かっているのだけど……」

 叱られる少女のように縮こまって言うミハルに、フルルや兵士らは顔を見合わせたり肩を竦めたりした。全員が集まる前からハンモックに揺られているヴンダーは、虚ろな表情で天井を見上げている。

「ミハル、我々は一向に構わない」ソファーの近くに立つ兵士の内、中年らしき威厳のある声が言った。「寧ろ、早く出発できるならその方が良い。ただ、君らにはしっかりと休んでもらわねば、疲弊したままでは困るのだ」

「そうよね……。だけど、あのダンジョンの、少なくとも地下五階層までは強い魔物の気配はなかった。きっと内部が広すぎて、魔物が強化されるのに時間がかかるのよ。だから、普通のダンジョンよりはゆっくり休憩できるわ。それよりも、早く行ってマッピングを進める方が良いと思うの」

「ミハルの言う通りだ」ギムナックが言った。「あのダンジョンの広さは異常だ。ここで体力を回復したところで、どうせ潜れば皆動けなくなるまで探索を続ける羽目になる。それなら早く行動を開始した方が良い」

 ギムナックが話す間にもミハルの顔色はどんどん悪くなる。それを見た若い兵士が首を傾げた。

「昼のうちに物資も揃いましたし、いつでも出発できますが……大丈夫ですか、ミハル?」

「ええ。でも、早くしないと……。ああ、どうしましょう。三人とも、ちゃんとご飯は食べているのかしら? 変な罠にかかったりしていないかしら……?」

「し、心配いりませんよ。リューク少年のバッグには、食料も水もたっぷり入っているじゃありませんか」

「それが問題なのよ! リュークのバッグに入れた『ご飯セット』には『チョイワライダケ』が入ってるし、『救急セット』には色んな薬品が揃ってるの。そんなものを好きなだけ飲み食いしていたらと思うと心配で──」

 然も有り得る、と腕を組んで頷く者がちらほら。

 チョイワライダケとは、笑い茸ワライダケほどの効果はないが、食べると仄かに笑いが込み上げてくるキノコである。長旅で気分が落ち込んだときやイラつきを感じたときに、スープなどに少量混ぜて食べると気分を明るく保てるので、主に長期任務を受ける冒険者や、自我を保ったまま騒ぎたい若者たちに重宝されている。

 残念ながらミハルの心配は的中していて、グランツが腕を切り落とされても笑っていたのが、まさしくこれを大量に食べていたせいである。厄介なことに、チョイワライダケは美味なのだ。また、そもそも気分の落ち込むことのない辺境伯グランツがチョイワライダケのことを覚えていなくても誰も責めることはできない。
 なお、リュークには〈毒耐性〉なるスキルが備わっており、このスキルによってキノコの効果は毒として無効化されたので、リュークが笑っていたのはキノコのせいではない。そして、リンはあまりキノコを食べなかったし、リュークが居れば基本的にいつもご機嫌なので、チョイワライダケの影響は無いに等しかった。


「領主様がちゃんと見てくれてるんじゃないのか? もしそうじゃないなら、リンが食糧を食べ尽くしてしまうよ!」

 フルルが慌てた様子で立ち上がった。

「リンは大食いなんだ! あの、だって、その……」

 隣に座っていたソロウは、そこで言い淀んだリンの手首を引いて座らせた。

「知ってるよ、フルル。リンは魔狼なんだろ? 俺達は知ってるが、問題はない」

「……えっ?」

 フルルは真っ赤な瞳を持つ目を見開いてソロウを見上げた。ソロウはフルルを安心させようとしてその目を見つめ返していたが、思いのほか長く続いたその状態に、ふと疑念に駆られて眉を寄せた。


「……まさか、知らなかったのか?」


 フルルは目を丸くしたまま大人たち一人一人を見やった。全員が信じられないという顔で固まっている。

「魔狼、って……リンは獣人の子だろ?」

「お、おいおい……冗談はよしてくれ。リンは、お前はそのことを知ってるって言ったんだぜ」

「あ、あたしは……その……リンが狼になれることは知ってるよ。でも、それってあれだろ? 〈進化〉して、変身できるようになったんだろう? そうじゃなきゃ、あたしの鑑定スキルでリンの情報が見れないのはおかしいじゃないか。それで、〈獣化〉してるときは〈人化〉のスキルを持ってるんだよね? リンは、ヨシュア様が……」

 フルルは酷く混乱している。ソロウも他の大人たちも混乱していたが、それぞれ気持ちを落ち着かせるために深呼吸したり、本棚に並ぶ背表紙を眺めたり、元天才魔法使いの潜むハンモックを見つめたりしてやり過ごした。

「リンは、親を目の前で殺されたって……偶然居合わせたヨシュア様が保護したんだって……。えっ、ていうか、魔狼って魔物なんだよね? 魔物って人になれるのか?」

 どうやら、フルルは本当に知らなかったようである。参ったな、と髭を撫でたソロウは、何となしに正面のレオハルトを見た。
 レオハルトは、やはり何にも動じていない。ただ平淡な口調でこの場を進行することに決めたようだった。

「フルルは、リンが魔物であれば助けないのですか?」

「っ、まさか! 助けるよ! リンはあたしの家族なんだから!」

 長い前歯を見せて噛み付くように言ったフルルに、レオハルトは微かに目を細めた。

「では、行きましょう。あのダンジョンは非常に退屈です。中へ入っても、話す時間はたっぷりありますから」

 おお、と思わず拍手しかけたソロウ。ギムナックもミハルも同じく称賛の眼差しをレオハルトへ向けている。

 兵士たちはとても誇らしげに頷いている。

 片隅のハンモックの揺れが止まった。
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