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無限の迷宮(110〜)
126 良い杖
しおりを挟む部屋の中は殆ど暗闇だった。ヴンダーとリンの口にぶら下がるグランツを含めた全員が、リュークの「大丈夫」という簡潔な一言を信じて身を固くしながら中へ入った。扉が閉まると、そこはいよいよ真っ暗闇と言えるほど暗くなった。
それでレオハルトとミハルが急ぎ魔法で明かりを灯そうと呪文を詠唱し始めた途端のこと、小さな光の玉が三つ、四つ、十、二十と無数に広い範囲に浮き上がって、一行は星空に迷い込んだかのような不思議な体験に見舞われる。
足は下にあるものを確かに踏みしめて立っているのに、胸が、腕が、頭が、まるで星とともに舞い上がり夜を漂っているかのよう。満たされる。全てが息を呑むほど美しく、心底怖ろしい──。
「こっちだよ」
現実主義者の鑑のような淡々とした少年の声が一行を刹那の幻想から引き戻した。レオハルトでさえ、はっと我に返って酷く驚いた。周りを見ると、兵士も、フルルも、ヴンダーも冒険者らもすっかり呆けている。リンだけがグランツの入った寝袋を振り回して遊んでいる。
レオハルトは急激に自覚した動悸に胸をおさえつつ、知らず止まっていた呼吸を再開した。冷や汗が止まらない。〈魔王〉を前にしたときと同じようであって、まったく異なる。例えば、恐怖を感じさせないために幸福感のような何かを無理やり口に押し込まれたような。それか、恐ろしく感じるほどの多幸感であったかも知れない。
ほんの短い時間で考えた端から分からなくなってくる。ただ、危険だと思った。依存性のある快楽の一種だと。
今やソロウは魂を落っことしたような無表情だし、ミハルはひょっとすれば雨樋と見紛うほど止めどなく涙をたれ流していて、かと思えば隣に並ぶフルルとヴンダーも負けず劣らずの良い雨樋。兵士らの顔は鎧で見えないが、両手を組んで祈る姿や、片手を天へ差し伸ばしていたり、跪いているところをみれば、さぞ感動しているであろうことは察しやすい。ギムナックなど、未だ神に抱擁でもされているかの如き恍惚とした表情で宙に釘付けとなっているではないか。
分からぬでもないが、とレオハルトは思う。
(いや、まさか、こんなときに薬物中毒者の気持ちを理解する羽目になろうとは思わなかったが)
リュークがぽかんとした顔で皆を待っている。
レオハルトはまだぼんやりとしている彼らの肩を叩いて周りながら、もう一度部屋の中を見渡した。
──木だ。
「えっ、うわ、木の根で覆われてるのか!」
正気に戻ったソロウが仰天した。無数の光の玉が照らし出す広い部屋の中は、木の根とも枝ともつかない茶色で全面が覆われていた。部屋の中心と思しき位置に周囲どれほどの大きさになるか知れない巨大な幹が聳え立っている。床も壁も天井も隙間なく木で覆われており、大人たちのすぐ頭上に垂れ下がる細々とした枝もある。よく見れば、遥か上方に葉の緑色が潜んでいる。
リュークは木の枝でカリカリと大樹の肌を引っ掻きながら、転けるか転けないかの瀬戸際の足取りで歩いていく。
ここの木は本当にただの木だと思われた。微塵も動く気配がないし、あちこちに出ている小さな新芽は、長い時をかけて育っていく生命の一部でしかなかった。しかし、フルルは悲鳴を上げた。
「〈トレント〉だ! 階層主だよ!」
事実だった。この部屋を埋め尽くしているのはトレントだった。とはいえ、動かない木はただの木だ。
ようやく神の抱擁の余韻から脱したらしいギムナックは、そこら辺に漂う小さな光に触れようとした。もしかしたらこの光がトレントの攻撃で、それで幻覚を見せられたのかも知れないと思ったからだった。
残念ながら、ギムナックの大きな手は光を通過した。
「トレントに幻覚を見せる技なんてあったか?」
ギムナックと同じことを考えていたソロウが眉を寄せながら無精髭を撫でた。いや、とヴンダーがハンカチで鼻をかんで答える。
「ないですよ。厄介な再生能力と、麻痺効果のある悲鳴は上げますけど。幻覚攻撃なんて聞いたこともない」
「ちょっと、急ごうよ! あたしたち、今トレントの上に居るんだよ!」
フルルがヴンダーたちを飛ぶように追い抜きながら急かした。もっともである。何故こんなに落ち着いて会話しているのか。自分がなんとなくまだ夢見心地でいたことに気付いたソロウは、後ろからゾロゾロとついてくる面々に対し「急ごう」と声をかけて、リュークの側まで駆けた。
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