西からきた少年について

ねころびた

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無限の迷宮(110〜)

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 リュークは、木──もとい、トレントの無数の太い腕で塞がれた壁を穴が空くほど見つめていた。すぐ近くで少年の様子を眺めていたフルルは、本当にそこに穴が空くのではないかと思った。この向こうに扉があるのだろうか。早くしないと、トレントが動き出すかもしれない。毛の逆立つ耳をフヨフヨと動かしながら、急かすべきか否か悩む。
 フルルは、この小さな少年のことを見ていると、どうにも堪らない気持ちになる。可愛らしいのに恐ろしいような、触りたいのに触れないような、さっきまでの心地に少し似ている。少年の行動を制限すべきではないとも思う。理由は分からない。漠然とそう思うだけだ。

「どうした? 木が邪魔なら剣で切るか?」

 ソロウがやってきて声を掛けた。リュークは首を横に振った。

「トレントは、喋るのが遅いんだ。まだ『こんにちは』の『こ』の最初のとこなんだ」

 それは、とソロウは壁から離れるように仰け反った。フルルもつい一歩下がってしまう。どうせ壁だけでなく足場までトレントなので下がっても離れられるわけでは無いのだが。

「トレントって喋るのか……」

 ソロウの辟易した顔が面白かったのか、リュークは少し笑った。フルルはこっそり耳を澄ませてみるが、トレントの声らしきものは聞こえない。ただ、植物が水を吸い上げるときのゴポゴポ、ざあざあという音をずっと低く大きくしたのと、上の方で軋む音、たまにサワサワと葉の動く音がするだけだ。

「そいつは困ったな。俺達は急ぐっていうのに、挨拶だけであとどれだけ掛かるんだ」

「トレントは言いたいことがあるみたい」

「言いたいこと? 誰に?」

「みんなに」

 リュークが答えると、そいつは困った、とソロウはもう一度言って後ろの幹を振り返った。フルルは、リュークが魔物の言葉を解していることに驚くべきではないのかと言いかけて口を噤んだ。リンだって魔物なのに喋るし、リュークは大人たちより余程リンの言葉を解していることを思い出したからだった。

「俺ら、急いでるんだ。伝えたいことがあるなら引き留めるんじゃなくて一緒に来てくれ。ああ、もちろん攻撃は無しでな。もし小さくなれるなら俺が運んでやってもいい──……」

 冗談のつもりで喋っていたソロウだったが、ミハルとギムナックの視線に気付いて、表情を凍らせた。そして、建付けの悪い扉を少しずつ引き開けるように硬い動きでリュークに向き直ると、即座に発言を撤回しようと口を開いた。

「いや……」

 が、しかし──。

「小さくしたら持っていけるね」

 ソロウを尊敬の眼差しで見上げるリュークは、一抹の陰も見当たらない純真な笑顔を見せて、それから子供らしい柔らかな手で壁を叩いた。


 それだけで、文字通り天地がひっくり返った。


 床と天井が入れ替わり、つまり、おそらくトレントが謎の不可抗力によってねじ曲がり、波打ち、上下真逆となった。その衝撃によって、リュークたちは全員が空中に投げ出されてしまう。

「なんだ! 何が起こっている!?」ギムナックが声を裏返しながら叫び、フルルが「やめてー!」とオウムのように繰り返している。今度のレオハルトは空中にあってなお落ち着きがあり、仲間が揃っているか目で数えている。ミハルはヴンダーの首に抱きつき、ヴンダーは失神している。リンはグランツ入りの寝袋を振り回している。兵士らはただの鎧と化して動かなくなった。ソロウは深く後悔している。

 空中を舞っただけのはずが、いつからか落下を始めてしばらく経つことに誰もが気付きながら、「おかしい」と口に出すことを躊躇った。周りはトレントの枝に囲われている。全員が未だトレントの枝や根が作る空間の中に居るのに落下しているという怪異に、脳が追いつかないのだった。

 リュークが革袋に手を突っ込んだ。目当てのものは一つだけだ。それをしっかりと掴み、革袋からぬるりと引き抜く。


「えっ! リューク、それは……!」

 ミハルが驚いてヴンダーを投げ捨てた。


 案山子かかし
 リュークは案山子のついている棒を両手でがっしりと握り、振り上げ、何も無い空中に突き立てた。


 トレントの体が輝く粉となって霧散すると同時に、空中に白くて黒い亀裂が走るのが見えた。
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