ヤンデレ不死鳥の恩返し

リナ

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九話

★魔王と二匹の獣

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 フオオオオ…

 灰色の霧が廊下を埋め尽くしていた。しかも霧の合間をユラユラと人影が歩いていく。

「あれは…」

 人影は制服を着た学生だった。皆呆然としていて意志のようなものが感じられない。のろのろと足を引きずる姿はまるでゾンビ映画のワンシーンのようで、
 (ヘブンの禁断症状に似てる…)
 ほとんどの中毒者は俺が殴って病院送りにしたし、土曜日にわざわざ登校する学生がヘブンに手を出すとは考えにくい。別の原因だと思いたいが、それはそれで意味が分からない。俺と同じように学生達を見ていたユウキがスッと眉をひそめた。

「ライ、あの霧って」
「…ああ、グレイのだな」

 廊下に充満する灰色の霧はどう見てもグレイのものだ。何度も見てるし見間違えようがない。いつもと違う点といえばその“濃さ”と“学生達が霧の中で気絶せず歩いてる”事だろうか。

「皆操れてるみたいに同じ方向に向かってるけど、まさかあれって“魅了”の力だったりするのかな…」
「“魅了”?」
「インキュバスの能力。生気を効率良く得るために自分に惚れさせて思考力を奪うんだ。店長さんから聞いてない?」
「いや、何も…」

 そもそもグレイがインキュバスだと知ったのはほんの一週間前、温泉旅行の時だ。詳しい話なんてできていない。俺の戸惑う様子にユウキが苦笑を浮かべた。

「まあ…本人の口からは言いにくい能力だからね。インキュバスは体そのものが媚薬なんだ。体液に触れれば男女問わず欲情するし、肌が触れあうだけでも“魅了”の力で虜にさせてしまう。それこそあんな感じに、精神的奴隷になっちゃうわけだ」

 廊下を進むゾンビ学生を視線で指す。

「近づかなければ防げる能力だし本来はそこまで厄介じゃないんだけど、今回は例外だ。俺の予想だけど…霧は店長さんの肉体と同じ効果を持ってる」
「霧に触れた瞬間グレイの言いなりになるって事か」
「そゆこと。霧が“魅了"の応用と考えれば廊下の状況にも納得がいくからね。今回はやけに濃い霧が出てるからその効果も強まってるのかも」

 薄い時は眠らせるだけ、濃い時は体を操作する程の“魅了"がかかる。見て判断できるのはいいが、霧に気を取られて背後がとられてもいけない。なかなかに嫌な状況だ。

「遠隔でこんな大量の人間を意のままに操れるなんて…流石店長さん、期待を裏切らないチートっぷりだ」
「グレイは一体何をしようとしてるんだ」

 薬を流して金を巻き上げるだけでなく、学校に乗り込んで無抵抗の学生達を襲うなんていくらなんでも捨て身すぎる。

「わからない。いや…一つ思い当たる事はあるけど」

 そういってユウキが意味ありげに俺の方をみてくる。俺が「馬鹿な」と首を振ると大きなため息で返された。

「とにかく“あの人”と話をつける為にもこの霧を切り抜けないと。霧に触らずにね」
「空でも飛べってか?」
「はは、まあできなくはないけど、どこに店長さんが潜んでるのかわからない状況で隙は見せたくない。一旦柴沢に連絡して、応援を呼ぼう。緊急事態だし突入も考え――……あれ?」
「?」

 どうした、と一緒になってユウキのスマホを覗き込めば「圏外」と表示されていた。すぐに俺の方のスマホも確認したが…ダメだった。こちらも圏外。

「嘘でしょ。さっき時雨の爺とは電話できてたのに…二台とも圏外って…」
「一時的な通信エラーか?」
「ありえないよ。こんな町中で通信が使えなくなるわけがない。まさか…」

 《あーあー、テストテスト》

「「!」」

 ユウキの嫌な予感を裏付けるように突然、校内放送が流れ始めた。それは…俺達もよく知ってる声で、思わずユウキと顔を見合わせてしまう。

 《おーい、狐ヶ崎ユウキ。聞こえてるかぁ?お前が学校に来てるのはわかってんだ。二度は言わねえからしっかり聞けよー》

 (この声…ソルだ…!)
 グレイもだが、追われてる身で高校に乗り込んでくるなんて流石すぎる。怖いものはないのだろうかと半ば呆れた。

 《見りゃわかると思うが、校内にいたガキ共はみーんな魔王の奴隷になった。一秒ありゃ集団自殺だって可能らしいぜ。おお、怖い怖い。でだ、哀れなガキ共を殺されたくなかったら十分以内に体育館に来な。もちろん、一人でだ。ビビッてお仲間を増やしやがったらガキ共の命はねえからな。んじゃ待ってるぜ~》

 始まりと同じく終わりも唐突だった。いきなり放送は切られ、再び教室が静けさに包まれる。ふと窓の外、校庭の方を見れば雨の中ゾンビ学生達が歩いているのが見えた。皆同じ方向…体育館へと向かっている。

「してやられたね。あの口ぶり…全部仕組まれてたってわけだ。通信妨害も、追試で呼び出されたのも狼男さんの仕業か。ちゃんと確認すべきだったな…」

 学校の中であれば組合員は表立って入ってこれない。たとえ霧が出てるのが見えたとしても…警察を呼ぶなんて真似は狐ヶ崎も龍神組もできないし、現状、グレイ達の独壇場という事になる。

「追っ手がヤクザだって事を逆手にとった良い作戦だね。敵ながらあっぱれだ」
「褒めてる場合か」
「ごめんごめん。外部の助けが期待できない以上俺ら二人で対処しないとだね。まずは人質の救出かな。うーん、二体二で人質背負ったままどこまでやれるか…」
「俺が別で柴沢さんを呼びに行くのは?」
「良い案だけど、却下。“あの人”は空を飛べる。いつどこに現れてもおかしくない敵がいるのに別行動をするなんて…今度は俺が正気じゃいられなくなる」

 フィンの事を指摘され、そうだった…と頭を抱えた。

「人質を取り返すのも大事だけど、最優先はライを守る事であり、奪わせない事。その為にはライの意思や人質の命は後回しにさせてもらうからね」
「…だが」
「残念だけど、話し合ってる時間はないよ。タイムリミットまであと五分もない。最短ルートで向かわないと」
「!」

 バッ

 ユウキが窓を全開にして、邪魔な机を横に押し退けていく。窓から身を乗り出すようにして校舎の壁を確認したと思えば「これならいけそう」と頷いた。

「おい、ユウキ何してんだ」
「廊下は霧のせいで歩けないからね。“外"から行こう」
「…外?」

 ぽふんと軽い音がしたと思えば…目の前に、全長三メートルは越えそうな真っ赤なトカゲが現れた。

「?!」

 あまりのサイズ感に本能のまま飛び退る。全身が固そうな鱗に覆われ背中にはギザギザの棘。ギョロっとした目がこちらに向き、ぞくりと寒気がした。爬虫類は苦手じゃないしユウキとわかっていればそこまで怖くないのだが…人間を丸呑みできそうな口を見てると…あまり近づきたくはなかった。

『さあ、ライ、乗って。この体なら校舎の壁を走れるから、体育館まで一瞬だよ』
「…大熊になった時みたいに我を失うとかは…ねえよな…?」
『安心して。変化は変化する対象の理性が引き継がれるんだけど、こんななりしててコイツ、妖精の一種だから。そこまで気性は荒くないんだ』
「なっ…こんなデカい妖精がいるのか…??!」
『らしいね。俺も図鑑で見ただけだけど。えっと…サラマンダー?だったっけか。って話してる場合じゃないんだってば、ほら行くよ』

 ぺたぺたと足踏みして背中を見せてきた。ギザギザのトゲがある背中は触れるだけで手が切れそうだったが贅沢はいえない。学生達を人質にされてるのだ。決意が鈍る前にその背中に乗った。



「ほー、流石は変化の一族、何でもありって訳か」

 体育館の扉の前で、ソルが退屈そうに待っていた。十メートル程の距離まで近づいたところでユウキは変化を解き人の姿に戻った。それを見たソルが「そっちは服を破かずに変身できて羨ましいねえ…」とぼやく。学生を人質にとるなんて相当追い詰められてると思ったが…普段通り過ぎて怖いぐらいだった。
 (まさかソルもグレイに操られてるだけ…とか?)
 疑うように見ていると、銀色の瞳と視線がぶつかった。

「おい、なんでてめえまで来てんだよ、ライ。オレは“狐ヶ崎一人で来い”っつったよなぁ?」
「…」
「玩具は人じゃねえからセーフとでも思ったかぁ?生憎、玩具でも奴隷でも一人分のカウントだ。余裕でアウトだっつの」

 ソルの馬鹿にするような台詞に顔をしかめ不快感を露にする。口を開けば舌打ちしか出なそうなので人質の為にも黙ったままでいるとソルは更に続けた。

「しかもなんだよ、その体。また退行してんのか?ガキは趣味じゃねえが中身がお前だとわかってりゃ興奮すんなぁ」
「…」
「無視かよ。おい狐ヶ崎、その玩具オレにも貸してくれよ。代わりに人質の何人かを解放してやってもいいぜ?くくっ」
「はあ、狼男さん。ライを玩具扱いしないでくれる?不愉快だよ」

 俺以上に苛立ちを強めたユウキが前に出る。ソルは腹を抱えて笑った。

「“ライを玩具扱いするな”だって?ははっ!ウケんなぁ!その台詞、てめえにだけは言われたくねえぜ。ヤクザのお坊ちゃんよぉ?」

 ソルの言葉にユウキの顔から表情が抜け落ちた。途端に暗い目になったユウキを見て、ソルはけらけらと笑う。

「……、」
「どうしたぁ、図星かよ?」
「…うるさい」
「ヤク使って玩具にして、随分楽しんだらしいじゃねえか。言いなりになった人間の何が楽しいんだかオレには全く理解できねえが、そんなに自分のテクに自信がねえならオレが教えてやろうか?」
「…結構だよ。無理やり突っ込んでライを血だらけにしたヘタクソに教わる事はない」
「アアッ?!んだとてめえッ!」

 ソルが射殺さんばかりに睨み付け、ユウキも一歩も引かず睨み返す。一気にピリピリと空気が張りつめてきて、慌てて間に入った。

「二人共いい加減にしろよ。そんな事より、学生達は無事なんだろうな」
「…あー、ガキ共はこんなかだぜ」

 親指で背後を指してニヤリと笑う。暗い体育館の中からは確かに人の気配がした。すでに校庭には誰もいない。人質の学生達は全員体育館に集められたらしい。

「ふん、狼男さん、あんた達の方がよっぽど酷い事をしてるじゃないか。無関係の学生に手を出して、挙げ句の果てに人質として利用するなんて…自分のしている事を理解できてるの?」

 口調は穏やかなままだが、ユウキは明らかに冷静さを失っていた。逆にソルは笑みを浮かべていてどこか余裕すら感じられる。
 (ソルの奴、やけにユウキを煽っている気がする…)
 非武闘派のソルではヤクザの息子のユウキには勝てない。そんなのソルが一番わかってるはずなのに…まるで、計画通りだと言わんばかりにソルはニヤニヤと笑っていた。

「はっ!ンなもん承知の上だ」

 言いながらソルは背後の体育館の扉に手をかけて

 ガタアン!!

 重い音を立ててそれを閉じる。学生達が逃げないように閉じ込めたのか。…もしくは、関係ない学生達を巻き込まないように封じたのか。

「オレはガキが嫌いだし喧嘩も嫌いだ。だが狐ヶ崎ユウキ、てめえには借りがある。何よりその玩具はてめえのもんじゃねぇ…いい加減返してもらうぜ」
「玩具玩具って…それ以上俺の大事なものを貶めるなら…殺すよ」
「はっ!やってみな!!虎の威を借りてるだけの狐っ子が…身ぐるみ剥いで泣かしてやるよ!!」

 上着を脱ぎ棄てて、両手を地面に下ろし四つん這いになるソル。すでに狼の耳と尻尾が生えていて、体も一回り大きくなっていた。

 グルルルゥッ

 軽トラぐらいの大きさにまで拡大し完全な狼の形となったソルは、銀色の毛を逆立てて、獰猛に舌なめずりして見せる。
 (嘘だろ…)
 あんなに幻獣を嫌っていたソルが自ら狼化するなんて。

「…ライ、危ないよ、下がって」

 声のした方を見ると、すでにユウキは人型ではなく、栗色の毛を美しくなびかせる狐に変わっていた。ソルより少し小さいが、しなやかに動く体には無駄がなく素早さはこっちの方が高そうだ。

『狼男さん、同じ獣型の幻獣としてのよしみだ。対等な姿で戦ってあげる』

 雨の中、銀色の狼と栗色の狐が対峙する。肌を刺すほどの殺気を放ちながら威嚇しあう二匹に、無意識に俺は後退っていた。

『年は下だけど、幻獣としての歴は俺の方が上だからね…格の違いを見せてあげるよ』

 “かかってきな”

 ユウキが尻尾をしならせて挑発するのを合図に、ソルが牙を剥いて飛びかかった。それをひらりと避けたユウキががら空きの首に噛みつく。

 ガブ!!

 鋭い牙がそのまま首の骨を砕くかと思ったが、銀色の毛に覆われていて届かなかったのか、ソルはユウキの体を挟むようにして体育館の壁に体当たりした。グシャアッとおよそ人間が出してるとは思えない衝突音が響く。

「ソル!!ユウキ…!だめだっ!やめろ…っ!!」

 二匹が持つ鋭い牙や爪は凶器だ。一歩間違えれば致命傷を負わせてしまう。噛みつき、引っ掻き、もつれ合う二匹はすでに血だらけで見てられなかった。

「やめろって!」

 耐えきれず前に出れば「邪魔をするな」とソルが振り向きざまに引っ掻いてくる。辛うじて肉を削がれるのは避けたが薄皮が切れ、ぽたたっと血が滴った。

 ピクリ

 血の匂いに反応して二匹の獣がこちらを向く。どちらも目が血走っていて人としての理性が残ってるかは…わからなかった。というより、殺気を感じてそれどころじゃなかった。俺のなけなしの本能がここにいてはいけないと告げてくる。
 (ヤバイ…!!)
 逃げなくてはと周囲を確認したが…体育館は閉まってるし何より学生達がいるから巻き込めない。さっきまでいた校舎も校庭を突っ切るのに一分はかかる。
 (…てなると、あっちか!)
 柴沢が待機しているであろう校門の方へ走りだす。

 ダッ

 背後に恐ろしい足音を感じながら無我夢中で走った。校門までなら十秒もかからない。二匹に追い付かれる前に柴沢と合流できるはずだ。

 ハッハッ

 あと少しというところで、耳のすぐ後ろで獣の荒い息が聞こえた。
 (やばい、追いつかれる!)

「あらまあ、予定と大分違うわねぇ」

 のんびりとした声が響き、ハッとする。

「?!」

 校門の下にグレイが立っていた。二匹の獣に追われる俺を見てくすりと妖艶に笑ってくる。
 (はあ?!なんでここにっ)
 引き返そうにも後ろに下がるわけにもいかず…

 ドスッ

 背後から物凄い強さで体当たりされ、倒れこむ瞬間、視界の端に銀色の毛が見えた。

「うわっ…!?くそっ!どけ…っ!」

 逃げようともがくが、上に乗った体は重すぎてびくともしない。

「このっ…くっ…ああっ…?!なにっ」

 潰される苦しさに呻いてると、べろりと項を舐められる。逃げる間も無く舐めた箇所に牙が食い込んできた。
 (噛み殺される…!)

 ドンッ

 間一髪、栗色の狐…ユウキが俺の上にいた狼を体当たりで吹き飛ばした。

「ユウキ!」

 もつれるように転がった二匹はすぐにまた互いの喉笛を狙って噛み合う。二匹の意識が俺からそれたのはよかったが、あの様子ではどちらかが動かなくなるまでやりあう事になる。止めなくてはいけないが、自分の身も守れない状態で何ができるのかと絶望した。

「仕方ないわねぇ…」

 呆れた様子でグレイが二匹に近づいていく。まるで子犬の喧嘩でも仲裁するかのようなテンションで手を伸ばし、

 ガッ

「おやすみ」

 二匹の首根っこを掴み地面へと伏せさせた。二匹は呆気なく意識を手放す。あんなに暴れ回っていた二匹を一瞬で黙らせてしまうなんて、殺されてないか心配になった。それほど容赦のない落ち方だった。

「…さて、これでやっと静かに話ができるわね」

 グレイが振り返って言う。立体駐車場や昨日見た時と同じ黒コートにパンツスタイルのグレイ。元々背が高くて威圧感はあったが、前髪が上がっていて顔がよく見える状態だと(しかもメイクもしてない)中性的な要素は消え、“男"にしか見えなかった。

 “全く知らない男が目の前にいる"

 そう感じた体が、考えるより先に足を動かそうとする。

「ライ様!」

 焦ったような声が聞こえ慌てて振り返る。柴沢だった。校門の向こうから顔を出し銃を構えていた。

「あら、まだ起きてた子がいたのね」

 その柴沢の首にグレイの手が添えられる。
 (え?!)
 まるで瞬間移動でもしたのかと疑いたくなるレベルの早さだった。俺も柴沢も状況が理解できずただただ目を見開く。グレイは愁いを帯びた目で柴沢を見下ろし「おやすみなさい」と囁いた。途端に糸が切れたように柴沢が倒れ込む。同じく地面に転がった銃を蹴って校門の方へ飛ばした後、グレイは優雅な動作で向き直ってきた。

「ふう。これで最後だといいんだけど…流石に疲れてきたわね」

 そう言って肩を揉みほぐす仕草をする。
 (これで最後ってまさか…)
 俺の嫌な予感に応えるようにグレイは微笑みを浮かべた。

「応援を呼ばれると面倒だから学校周辺の組合員を全員眠らせてもらったわ。皆武器を持ってるから骨がおれたけど、おかげであんたと話す時間ぐらいは作れそうね」
 
 ありえない。高校を霧で支配した後、外で待機していた組合員を全滅させた。しかも十分もかからずに?…あまりにも桁違いすぎる。幻獣としての能力も、身体能力も、全てが異次元だ。

「そんな顔しないで、ライ」

 グレイが戸惑うように見てくる。俺の怯える姿が居たたまれないのか、腕を広げて敵意はないとアピールした。

「大丈夫、あんたを傷つけるつもりはないわ。ただ話を――」
「来るな!!」

 気付けば走っていた。



「ハア、ハア、ハアッ…!」

 こんなにも誰かを恐ろしいと思ったのは初めてだった。正気を失った獣二匹に襲われる事より恐ろしい事なんてあるわけがないのに…逃げる足が止まらなかった。

「ライ、なんで逃げるの?あたしはあんたを助けに来たのよ」

 グレイの戸惑う声が追いかけてくる。俺は恐怖に追いたてられるまま校舎へ逃げ込み…靴箱の裏に隠れた。

「…ッ、ッ」

 呼吸を止め必死に気配を殺す。霧によって全ての人間が体育館に集められたのか、校舎内はシィンと静まり返っていた。心臓の音すら聞こえてしまいそうな程の静けさに焦りを強める。
 (…だめだ)
 こんな場所ではすぐに見つかってしまう。次の隠れる場所を探さなくてはと視線を泳がした時だった。

 グシャア

「!!?」

 俺が隠れていた棚を除いた、前後の棚が通路を埋めるように倒れた。一気に逃げ場を失くした俺を嘲笑うようにグレイが降ってくる。

「ライ、血の匂いをさせながら隠れても無駄よ」
「っ…!来るなっ!!」
「お願い、そんなに怯えないでちょうだい…何もしないから」
「あんたの言葉なんて信じられるか…ッ!」
「どうして?」

 純粋な疑問をぶつけるようにグレイが詰め寄ってきた。そして、俺が背にしてる靴箱の棚に手を置き、前屈みになる。

「どうしてあたし達から逃げるの?」

 壁ドンの状態で囁かれ、心臓が痛いぐらい跳ね上がった。目の前の両目は真っ直ぐこちらに向けられている。殺意も、敵意も感じない。…だからこそ怖かった。俺相手では構える必要すらない、そう言われてる気がして。

「あんたは龍神組と組んでるんだろ…?!ヘブンの事も、あんたが元凶だって聞いた…!ずっと…俺の事を騙してたのか??」
「…」

 グレイは感情の読めない顔で黙りこむ。その沈黙がまた恐ろしかった。いっそさっさと殺すか眠らすかしてほしい。恐怖に震えながら待っていると…十秒ほどして、やっとグレイが重い口を開いた。

「ええ、その通りよ。あたしは龍神組と組んでいた」
「!」
「そして…ヘブンを作った」
「!?!」

 (つ、作った…?)
 信じられないと首を振ると、グレイはまるで証明するかのようにヘブンについて語り始めた。

「あたし達インキュバスの体液を調合過程でうまく混ぜると“魅了”に近い事ができるのよ。入れる体液によって“魅了”の効果は強くも弱くもなる。そこらのインキュバスなら少し惚れさせる程度で可愛いものだけど…あたしのなら肉体の動きも操作できる催眠洗脳薬の完成よ」

 “グレイがヘブンを作った”

 それはつまり、学生達を洗脳させ金儲けの為に利用したと言ってるのと同じだ。
 (そんな……)
 ユウキから聞かされていた事ではあったが、いざ本人の口から説明されるとショックが大きかった。心のどこかではまだグレイがそんなことをするはずがないと信じてたんだろう。でもその期待は今砕かれてしまった。

「許せねえ…あんたのせいでどれだけの学生が苦しんだと思って…!」
「言い訳するつもりはないわ。取り返しのつかない事をしたのは確かよ。今だって多くの人を傷つけてしまったし、後戻りはもうできない」
「じゃあ自首しろよっ!こんな所で暴れて何になるっ!」
「安心して、これ以上暴れる気はないわ。あんたさえ回収できればあたし達の目的は達成する」
「?!」

 ガシっ

「さあ、来てもらうわよ」

 そう言ってグレイに腕を掴まれる。とっさに腕を振り上げたが、食い込んだ指は一定の締め付けを保ったままびくともしなかった。力いっぱい暴れてみても無駄だった。

「放せっ!!」
「あまり長居すると面倒臭いのが集まってきちゃうの。良い子だから大人しく従って、ライ」
「知るか!嫌だって…言ってる、だろ!!」

 思いっきりグレイの顔面を殴りつける。しかしグレイは表情一つ変えなかった。腕を掴む力も少しも緩まない。まだ壁を殴ってる方が変化があるかもしれない。呆然と無力感を味わわされていると、少しだけ声を低くしたグレイが窘めてくる。

「ライ、暴れて怪我するのはそっちよ」
「うるさい!俺はあんた達と行く気はないっ!放してくれ!」
「狐ヶ崎ユウキに何を吹き込まれたのか知らないけど、あたし達は別にあんたを食い物にしようとは思ってないわ。むしろ逆よ。あんたを助けに来たの」
「黙れ…あんたに何度騙されたと思ってるんだ…!」

 何を言われても信じられるわけがない。そう睨みつければ、グレイは傷ついたような顔をした。

「それに関してはごめんなさい。今回の事であたしも…振り回される苦痛を知ったわ。誰のかもわからない思惑に乗せられて、でもそう動くしかないもどかしさを味わって、本当に不快だった」
「…」
「きっとライもこんな気持ちだったのよね。他にも色々…悪い事をしたと反省してるわ。本当にごめんなさい」
「……」
「もう二度と駒のようには使わない。あのおバカ二人からも守るわ。…契約だってしたっていい。だからもう一度だけあたしを信じてちょうだい」

 肩を掴まれ必死に説得される。その様子に、嘘をついている感じはしなかった。だが、ここで信じられる程俺もちょろくない。黙って首を振り“拒絶”を伝える。グレイは眉を寄せ、目線を合わせるように膝を曲げた。

「どうしてもダメ?」
「…」
「フィンがいないから嫌なの?」
「…っ!!」

 フィン。その名前を聞いた瞬間、動揺が走る。俺の様子を同情するように見ていたグレイが更に顔を近づけてきた。

「ライ…」

 ガッ

 その胸ぐらを掴んだ。

「寄り添うフリなんてやめろよ。さっさと“魅了"でもなんでもやればいい。どうせ俺の意思なんて…あんたにとっては石ころより軽いんだ」
「…ライ」
「連れていきたいなら意思を奪って動かせ。あんたならそれができるはずだ」

 “俺”はあんたと行く気はない。そう言うように睨みつければグレイは顔をしかめて、大きなため息を吐いた。

「…わからず屋」
「うるせっーぅん?!ぐっ…!んんうっ…!」

 棚に叩きつけられるように押し倒され唇を奪われる。顎を砕かれるんじゃないかって強さで掴まれ、口を開けるように固定され、舌を入れられた。思わず歯を立てるが…顎を掴まれてるせいで噛みきれない。少し血の味が広がるだけでグレイが引く気配はなかった。

「ウウウぅー…っ!んぅ…!」

 血の味がするキスなんて不快以外の何物でもない。そのはずなのに、体が段々と熱くなってくるのを感じた。

「ぐっ、ウウッ…ンン!…ふっ、んぁ、ん…、」

 グレイが肩を撫でていく。それだけでイキそうな程気持ちよかった。いくらユウキに調教されたからってこんな刺激でイケるわけがない。あまりにも異常だ。インキュバスの体液に媚薬効果があるのは本当らしい。

「…言っとくけど、あんたに“魅了"を使うのはこれが初めてだから」

 グレイが冷たく怒りながら言った。
 (口調が…)
 女のような口調ではなく、温泉旅行の時に聞いた、素の方の喋り方になっていた。唯一の女の要素を手放したグレイは状況が違えば見惚れるほど格好よかっただろう。だが今の俺にとっては命の危険しか感じない。

「知った、事、か…っ」

 血の混じった唾を吐く。グレイは冷たい目で見下ろし、淡々と手の甲で拭ったと思えば…再び唇を奪ってきた。

「んんんーっ…!!」

 舌が触れるだけ、口の中を撫でられるだけで…腰が砕けそうになる。ユウキとやったばかりで敏感さの残る体が憎かった。あっという間に体は熱を思い出し、疼き始める。

「ンンっ、う、ん…っ」

 でも意識が遠ざかる事もなければ体が勝手に動く事もない。
 (“魅了”はまだ使われてない…)
 心を占める怒りが操られてない事を教えてくれる。安堵するのと同時に困惑した。どうしてさっさと従わせないのか。
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