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第一章
第一話
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腰が痛い。
江藤雫は寝返りを打ち、鈍く重い腰をそっと摩った。
そして寝返った先にある男の寝顔を見た瞬間、昨夜の出来事が一気に蘇る。泣き明かした自分を思い出して、恥ずかしい。喉はカラカラに乾いている。
それでも腕の中から抜け出せば、きっと彼は目を覚ますだろうと思い、雫は迷った。
カーテンの隙間から差し込む朝日。雀の鳴き声。
そろそろ出勤の時間ではないだろうか。
雫は控えめに男の肩を揺らした。しかし、抱きしめる腕の力がむしろ強まる。
そうじゃないんだけど、と思っていると、男のまぶたがゆっくりと開いた。
「……朝?」
「はい、朝です」
雫の返事に、男――晶はふっと笑って腕を緩めた。
「おはよ、雫くん」
「おはようございます」
「声がすごいな。水飲む? あ、その前に歯磨くか。昨日の歯ブラシ使って、ちゃんと歯ブラシ立てにあるから」
「ありがとうございます」
起き上がりながら頭を下げると、晶は雫の頭を軽く撫でた。
「可愛い頭してんね」
「……別に」
愛想のない返事しかできない。でも、甘やかすような仕草に胸の奥がじんわり温かくなる。
雫はその気持ちを悟られないように、痛む腰を隠しつつ洗面へ向かった。
サイズの合わないスウェットは袖が長く、水がかかるのを避けるために捲り上げる必要がある。鏡に映るのは、真っ赤に腫れた瞼の、浮腫んだ顔。冷水で洗っても変わらない。
どうすれば良いか考えながら歯を磨いていると、晶が洗面に現れた。
「俺も歯磨いていい?」
雫は頷き、少し身を引く。
隣に並んで歯を磨くと、祖母と並んだ朝の記憶がふいに蘇った。目頭が熱くなる。たまった鼻をすすれば、晶が柔らかく問いかける。
「どうした?」
小さな変化をすぐ拾う。どうすればいいかわからなくなる。
今まで雫は、孤独とだけ一緒に、静かに生きてきた。でも今は違う。すぐそばに晶がいる。だから弱くなるのだ。
雫は首を横に振ったが、晶は納得していない様子だった。
口をすすいで洗面所を出ようとした瞬間、手首をそっと引かれる。
目で「ここにいて」と訴えられ、雫は言われるままに立ち止まった。
「よし。これでいい」
身支度を済ませた晶に手を引かれ、リビングへ行く。
次の瞬間、不意に抱きしめられた。
「大丈夫。俺がいるよ」
その声に、雫はどうしようもない安心を覚えた。
もし晶がいなければ――自分は昨夜、家の近くの川へ飛び込んでいたかもしれない。
最悪の一日だった。でも晶のおかげで、人の温もりを思い出せた。
小柄な雫は、逞しい晶に抱かれると、ちょうど胸元に耳が触れる。心音が心地いい。温かさが冷え切った心を溶かしていく。
「俺、今日仕事だけど……雫くんは?」
「二限からです」
「そっか。大学までどれくらい?」
「一時間くらいです」
「じゃあ、それまでゆっくりしていけばいいよ。家のものは何でも使って」
「これ以上迷惑かけられません……」
恐縮する雫に、晶は優しく目を細めた。
「俺はもう君を信頼してる」
「まだ出会って一日ですよ?」
「迷惑なんて思ったことないよ。雫くんを一人にしたくないのは……俺のエゴだ」
雫は息を呑み、ぎこちなく頷いた。本当は、その申し出が嬉しくてたまらなかった。
「じゃあ朝ごはん作るか。トーストでいい?」
「あ、手伝います。冷蔵庫のもの、使っていいなら」
少しでも役に立ちたかった。
晶が冷蔵庫を開けると、卵が二つだけ、他は飲み物しかなかった。
雫は卵を手に取って、晶に見せた。
「この卵、いつのですか」
「わかんない」
気まずそうにする晶に、雫は溜息をついた。
「……毎日何食べて生きてるんですか?」
「コンビニ弁当?」
雫の瞳が鋭さを帯びる。
この人にまともな食生活をさせなければ――そんな強い気持ちが芽生えた。
「今日の夕飯、僕が作ります」
「マジ?」
驚く晶に、雫は少し照れながらも続けた。
「何が食べたいですか」
「うーん……回鍋肉とか?」
「わかりました。ちゃんと作って置いておきます」
「ううん、一緒に食べようよ」
その言葉に、雫の胸が跳ねる。
また一緒にいられる――そう思うだけで、心も身体も軽くなる。
トーストが焼ける音が響いた。
「はいよ。バターはあるし、ちゃんと期限も大丈夫」
「ありがとうございます」
誰かと朝食を食べるのは、祖母が亡くなって以来、二年ぶりのことだった――。
祖母が生きていた間は、二人して朝起きて、散歩をして、朝食を食べて身だしなみを整えて、学校へ行っていた。
でももう二年前に他界してからは、雫を朝起こしてくれる存在も居なくなって、散歩することも無くなった。
祖母はもういない。歩いている時、空いた左側を見て、苦しくなるのだ。
もう、車や自転車から守ってあげようと思う人間がいない。
もう。
「雫」
ハッとして顔を上げる。
そこには、穏やかに笑う晶がいた。
「大丈夫、俺がいるよ」
「……」
雫はすぐには頷けなかった。もう誰のことも信頼したくなかった。だって、晶にまで裏切られたら、雫は生きていけない。
返事をしないでいる雫に、晶はただ柔らかく微笑むだけだった。
「いつか、信じてくれたら嬉しいなあ」
一つの棘もない、ただただ雫を慮る言葉。
信じたい、信じられない。
雫の心は、ずっと揺らいでいた。
江藤雫は寝返りを打ち、鈍く重い腰をそっと摩った。
そして寝返った先にある男の寝顔を見た瞬間、昨夜の出来事が一気に蘇る。泣き明かした自分を思い出して、恥ずかしい。喉はカラカラに乾いている。
それでも腕の中から抜け出せば、きっと彼は目を覚ますだろうと思い、雫は迷った。
カーテンの隙間から差し込む朝日。雀の鳴き声。
そろそろ出勤の時間ではないだろうか。
雫は控えめに男の肩を揺らした。しかし、抱きしめる腕の力がむしろ強まる。
そうじゃないんだけど、と思っていると、男のまぶたがゆっくりと開いた。
「……朝?」
「はい、朝です」
雫の返事に、男――晶はふっと笑って腕を緩めた。
「おはよ、雫くん」
「おはようございます」
「声がすごいな。水飲む? あ、その前に歯磨くか。昨日の歯ブラシ使って、ちゃんと歯ブラシ立てにあるから」
「ありがとうございます」
起き上がりながら頭を下げると、晶は雫の頭を軽く撫でた。
「可愛い頭してんね」
「……別に」
愛想のない返事しかできない。でも、甘やかすような仕草に胸の奥がじんわり温かくなる。
雫はその気持ちを悟られないように、痛む腰を隠しつつ洗面へ向かった。
サイズの合わないスウェットは袖が長く、水がかかるのを避けるために捲り上げる必要がある。鏡に映るのは、真っ赤に腫れた瞼の、浮腫んだ顔。冷水で洗っても変わらない。
どうすれば良いか考えながら歯を磨いていると、晶が洗面に現れた。
「俺も歯磨いていい?」
雫は頷き、少し身を引く。
隣に並んで歯を磨くと、祖母と並んだ朝の記憶がふいに蘇った。目頭が熱くなる。たまった鼻をすすれば、晶が柔らかく問いかける。
「どうした?」
小さな変化をすぐ拾う。どうすればいいかわからなくなる。
今まで雫は、孤独とだけ一緒に、静かに生きてきた。でも今は違う。すぐそばに晶がいる。だから弱くなるのだ。
雫は首を横に振ったが、晶は納得していない様子だった。
口をすすいで洗面所を出ようとした瞬間、手首をそっと引かれる。
目で「ここにいて」と訴えられ、雫は言われるままに立ち止まった。
「よし。これでいい」
身支度を済ませた晶に手を引かれ、リビングへ行く。
次の瞬間、不意に抱きしめられた。
「大丈夫。俺がいるよ」
その声に、雫はどうしようもない安心を覚えた。
もし晶がいなければ――自分は昨夜、家の近くの川へ飛び込んでいたかもしれない。
最悪の一日だった。でも晶のおかげで、人の温もりを思い出せた。
小柄な雫は、逞しい晶に抱かれると、ちょうど胸元に耳が触れる。心音が心地いい。温かさが冷え切った心を溶かしていく。
「俺、今日仕事だけど……雫くんは?」
「二限からです」
「そっか。大学までどれくらい?」
「一時間くらいです」
「じゃあ、それまでゆっくりしていけばいいよ。家のものは何でも使って」
「これ以上迷惑かけられません……」
恐縮する雫に、晶は優しく目を細めた。
「俺はもう君を信頼してる」
「まだ出会って一日ですよ?」
「迷惑なんて思ったことないよ。雫くんを一人にしたくないのは……俺のエゴだ」
雫は息を呑み、ぎこちなく頷いた。本当は、その申し出が嬉しくてたまらなかった。
「じゃあ朝ごはん作るか。トーストでいい?」
「あ、手伝います。冷蔵庫のもの、使っていいなら」
少しでも役に立ちたかった。
晶が冷蔵庫を開けると、卵が二つだけ、他は飲み物しかなかった。
雫は卵を手に取って、晶に見せた。
「この卵、いつのですか」
「わかんない」
気まずそうにする晶に、雫は溜息をついた。
「……毎日何食べて生きてるんですか?」
「コンビニ弁当?」
雫の瞳が鋭さを帯びる。
この人にまともな食生活をさせなければ――そんな強い気持ちが芽生えた。
「今日の夕飯、僕が作ります」
「マジ?」
驚く晶に、雫は少し照れながらも続けた。
「何が食べたいですか」
「うーん……回鍋肉とか?」
「わかりました。ちゃんと作って置いておきます」
「ううん、一緒に食べようよ」
その言葉に、雫の胸が跳ねる。
また一緒にいられる――そう思うだけで、心も身体も軽くなる。
トーストが焼ける音が響いた。
「はいよ。バターはあるし、ちゃんと期限も大丈夫」
「ありがとうございます」
誰かと朝食を食べるのは、祖母が亡くなって以来、二年ぶりのことだった――。
祖母が生きていた間は、二人して朝起きて、散歩をして、朝食を食べて身だしなみを整えて、学校へ行っていた。
でももう二年前に他界してからは、雫を朝起こしてくれる存在も居なくなって、散歩することも無くなった。
祖母はもういない。歩いている時、空いた左側を見て、苦しくなるのだ。
もう、車や自転車から守ってあげようと思う人間がいない。
もう。
「雫」
ハッとして顔を上げる。
そこには、穏やかに笑う晶がいた。
「大丈夫、俺がいるよ」
「……」
雫はすぐには頷けなかった。もう誰のことも信頼したくなかった。だって、晶にまで裏切られたら、雫は生きていけない。
返事をしないでいる雫に、晶はただ柔らかく微笑むだけだった。
「いつか、信じてくれたら嬉しいなあ」
一つの棘もない、ただただ雫を慮る言葉。
信じたい、信じられない。
雫の心は、ずっと揺らいでいた。
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