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第1話 賜婚宴
しおりを挟む沈薬が目を覚ましたとき、耳に最初に届いたのは、玉杯が触れ合う澄んだ音だった。
高い天井に響く楽師の調べ。香炉から立ちのぼる白い煙。絹の衣が擦れる柔らかな気配。
――ここは。
沈薬の指先が、かすかに震えた。
朱塗りの大殿。黄金の柱。皇族と貴族たちが列席する豪奢な宴。
見覚えがある。
いや、忘れるはずがない。
これは――
賜婚宴。
沈薬の喉がひどく乾いた。
胸の奥から、冷たいものがじわりと広がっていく。
どうして。
どうしてここにいるの。
ついさっきまで、自分は――。
脳裏に、血の匂いが蘇る。
東宮の冷たい石床。嘲笑。踏みにじられる尊厳。
皇太子の無関心な視線。
そして。
静まり返った夜の中、ひとりで迎えた最期。
沈薬は確かに、あの場所で死んだ。
それなのに。
視線を落とすと、自分の手はまだ若く、傷ひとつない。
指先に嵌められた玉の指輪。将軍家の遺品。
この指輪を持っていた頃の自分は、まだ十八だった。
――つまり。
沈薬は静かに息を吸った。
時間が戻っている。
しかも。
よりによって、この日へ。
皇帝が自ら縁談を下賜する、あの宴へ。
沈薬の唇がかすかに歪んだ。
運命とは、なんと皮肉なものだろう。
この宴で、自分は選んだ。
皇太子・謝景初を。
それが、地獄の始まりだった。
東宮へ嫁ぎ、最初は穏やかな日々だった。
だがやがて皇太子は、別の女を寵愛し始めた。
柳雪蘭。
柔らかな微笑を浮かべる、美しい女。
だがその裏で彼女は、沈薬を徹底的に追い詰めた。
侍女を買収し、噂を流し、孤立させた。
皇太子はそれを知っても止めなかった。
それどころか、面倒そうに言ったのだ。
「くだらない争いで、私を煩わせるな」
あの冷たい声。
沈薬の指が、きゅっと握られた。
東宮で過ごした日々は、まるで長い冬だった。
凍りついた庭。
誰も訪れない寝殿。
そして最後は。
静かに、誰にも看取られずに死んだ。
沈薬はゆっくりと顔を上げた。
宴の上座。
そこに皇帝が座している。
その傍らには、皇太子。
謝景初。
彼は若く、美しい。
黒髪は艶やかで、玉のように整った顔立ち。
貴公子のような微笑を浮かべている。
誰もが理想の皇太子だと称える男。
だが沈薬は知っている。
その微笑の奥にあるものを。
冷たい空洞のような心を。
そのとき、皇帝の声が大殿に響いた。
「沈薬」
沈薬は席を立ち、恭しく礼をした。
「はい、陛下」
皇帝・謝玄徳は、沈薬をじっと見つめた。
「将軍家は帝国に大きな功を立てた」
沈薬の父は戦場で命を落とした。
皇帝はその恩義を忘れていない。
「そなたは孤児となったが、朕はその忠義を惜しむ」
沈薬は静かに頭を下げた。
「恐れ入ります」
皇帝は続ける。
「ゆえに朕は、そなたに縁談を与える」
大殿がわずかにざわめいた。
「皇族の中から、望む者を選ぶがよい」
前世と、同じ言葉。
沈薬の胸がわずかに痛んだ。
このとき、自分は迷わず皇太子を選んだ。
だが今は違う。
沈薬はゆっくりと視線を動かした。
皇族の席。
そこに一つ、空席がある。
静王。
皇帝の弟。
謝淵。
帝国最強の将軍と呼ばれた男。
だが数ヶ月前、戦で重傷を負い、昏睡状態に陥った。
医師たちは口を揃えて言った。
目覚める望みは薄い。
つまり。
その席は、ほとんど死人の席だ。
沈薬がそこを見た瞬間、会場の誰かが囁いた。
「まさか……」
沈薬は一歩進み出た。
視線が一斉に集まる。
皇太子の瞳も、沈薬を捉えている。
前世では、その視線に胸を高鳴らせた。
だが今は何も感じない。
沈薬は跪き、静かに言った。
「陛下」
「申してみよ」
沈薬は迷わなかった。
「静王殿下を望みます」
一瞬。
大殿の空気が凍った。
「……静王だと?」
ざわめきが広がる。
誰もが信じられない顔をしている。
それも当然だ。
昏睡状態の男と結婚するなど、普通はあり得ない。
皇帝も、わずかに目を細めた。
「理由を聞こう」
沈薬は顔を上げた。
「静王殿下は帝国の英雄です」
声は静かだった。
「その方の妃となることは、光栄です」
沈薬の本当の理由は、誰にもわからない。
ただ一つ。
皇太子の妻にはならない。
それだけだった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて、ふっと小さな笑い声が響いた。
皇太子だった。
「なるほど」
謝景初は盃を軽く回しながら言った。
「孤児には、似合いの夫だ」
周囲から小さな笑いが漏れる。
沈薬の胸に、怒りは湧かなかった。
むしろ、どこか懐かしい。
この男は、前世と何も変わっていない。
皇帝は沈薬をしばらく見つめていたが、やがて頷いた。
「よかろう」
その一言で、運命が変わった。
「沈薬を静王妃とする」
太監が高らかに宣言する。
宴は再び賑やかさを取り戻した。
だが沈薬の胸の奥では、静かな炎が灯っていた。
これでいい。
皇太子の隣に座る未来は、もうない。
東宮の冷たい庭も。
あの孤独な死も。
すべて遠ざかっていく。
沈薬はゆっくりと席に戻った。
そのとき、皇太子の視線を感じた。
謝景初は興味深そうに沈薬を見ている。
まるで珍しい玩具を見るような目。
「沈薬」
不意に彼が声をかけた。
沈薬は振り向いた。
「はい、皇太子殿下」
謝景初は微笑む。
「これからは――」
わざとらしく間を置き。
「皇叔母様だな」
周囲がくすりと笑った。
沈薬は一瞬だけ彼を見つめた。
前世なら、胸を痛めただろう。
だが今は違う。
沈薬は静かに微笑んだ。
「ええ」
そして丁寧に礼をする。
「どうぞ、よろしくお願いいたします」
「皇太子殿下」
沈薬の心は、ひどく静かだった。
もう、あなたの妻ではない。
もう、あなたに踏みにじられることもない。
沈薬は杯を持ち上げた。
その夜、彼女の運命は、確かに変わった。
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