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第2話 昏睡の夫
しおりを挟む賜婚宴から三日後。
沈薬は輿に乗り、静王府へ向かっていた。
外では楽の音が鳴り、婚礼の行列がゆっくりと進んでいる。
赤い絹で飾られた輿の中、沈薬は静かに目を閉じていた。
前世では、この婚礼は東宮へ向かう道だった。
今日は違う。
向かう先は、静王府。
帝国最強の将軍と呼ばれた男の屋敷。
しかし今、その主は――眠っている。
目覚める望みも薄いと言われるほどの重傷で。
沈薬はゆっくりと息を吐いた。
不思議と、不安はなかった。
むしろ心は穏やかだった。
少なくとも。
東宮よりは、はるかにましだ。
やがて輿が止まり、外から声が聞こえた。
「静王府に到着しました」
侍女が輿の幕を開ける。
沈薬は外へ降りた。
目の前には壮大な王府の門がそびえている。
黒い瓦屋根。
重厚な朱門。
門の上には「静王府」と書かれた大きな扁額。
沈薬は静かに見上げた。
ここが、これから自分の住む場所。
門の前には、多くの家臣たちが並んでいた。
だが、誰も祝宴のような笑顔は浮かべていない。
それも当然だ。
主は昏睡。
花嫁は孤児。
この婚姻は、祝福よりも同情の色が濃い。
年配の男が前へ出た。
落ち着いた眼差しの文官だった。
「王妃殿下」
深く礼をする。
「私は静王府軍師、顧文修と申します」
沈薬も丁寧に礼を返した。
「沈薬です。これからよろしくお願いします」
顧文修は沈薬をじっと見つめた。
その目には、わずかな警戒がある。
それも当然だろう。
昏睡している主に、突然嫁いできた女。
しかも皇帝の賜婚。
政治の思惑を疑うのも無理はない。
沈薬は気にしなかった。
「王妃殿下」
顧文修が静かに言った。
「王爺は奥の寝殿で療養中です」
「今すぐお会いになりますか」
沈薬は頷いた。
「ええ」
迷いはない。
沈薬は顧文修に案内され、王府の中へ入った。
静王府は広かった。
庭には古い松が立ち、池には蓮の葉が揺れている。
だが全体に静まり返っていた。
まるで屋敷そのものが息を潜めているようだ。
廊下を歩きながら、沈薬は思った。
前世、静王の名はよく聞いた。
謝淵。
戦場で負け知らずの将軍。
北方の大戦で帝国を勝利へ導いた英雄。
しかしその戦いで重傷を負った。
そして、昏睡。
寝殿の前で、顧文修が立ち止まった。
「ここです」
扉が静かに開かれる。
薬の匂いが漂ってきた。
部屋の中央。
大きな寝台がある。
その上に、一人の男が横たわっていた。
沈薬はゆっくりと近づいた。
そして、思わず息を飲む。
静王・謝淵。
噂には聞いていたが、想像以上だった。
長い黒髪が枕に広がり、顔立ちは彫刻のように整っている。
まるで眠る神像のような美しさ。
しかし、その体には包帯が巻かれ、戦の傷跡がいくつも残っている。
胸はかすかに上下しているが、それだけだ。
沈薬はしばらく黙って立っていた。
顧文修が言う。
「御医によれば、命に別状はありません」
「ですが」
言葉が途切れる。
「いつ目覚めるかは、誰にもわかりません」
沈薬は頷いた。
「そうですか」
顧文修は沈薬の顔を見た。
普通なら絶望するだろう。
だが沈薬は、ただ静かだった。
「王妃殿下」
顧文修が慎重に言った。
「もし望むなら、王府の別殿でお過ごしください」
「ここに通う必要はありません」
沈薬は首を振った。
「いいえ」
そして寝台の横に座った。
「私は王妃です」
その声は静かだったが、揺るがなかった。
「夫の看病をします」
顧文修の目がわずかに動く。
沈薬は謝淵の手を見た。
大きく、硬い手。
剣を握り続けてきた手だ。
沈薬はそっと、その手に触れた。
冷たい。
だが確かに、生きている。
沈薬の胸に、不思議な感情が湧いた。
この人は、前世、自分とは何の関わりもなかった。
ただ遠い存在だった。
それが今は、夫。
沈薬は小さく息を吐いた。
「……初めまして」
眠る男に向かって呟く。
「沈薬です」
もちろん返事はない。
だが沈薬は構わなかった。
「突然の婚姻で驚かれたでしょう」
少しだけ笑う。
「目覚めたら、きっと怒られますね」
部屋の隅で、侍女たちが驚いた顔をしていた。
昏睡の男に話しかける花嫁。
普通なら奇妙な光景だ。
だが沈薬は気にしない。
沈薬は静かに続けた。
「ですが」
「私はここにいます」
そして。
心の中で付け加える。
少なくとも。
あなたは、私を踏みにじらない。
それだけで十分だ。
その夜、沈薬は寝殿を離れなかった。
御医から薬の煎じ方を聞き、侍女と共に世話をする。
包帯を替え、薬を飲ませる。
眠る男の世話は、思ったよりも大変だった。
だが沈薬は黙々と続けた。
深夜。
灯りが静かに揺れる中。
沈薬は再び謝淵の手を握った。
「……聞こえていますか」
小さく呟く。
「もし聞こえているなら」
沈薬は少しだけ目を伏せた。
「目を覚ましてください」
静かな願いだった。
「私は」
「この人生を、きちんと生きたい」
もう一度、同じ地獄へ戻るつもりはない。
沈薬はゆっくりと謝淵の手を包んだ。
そのとき、ほんの一瞬。
指先が、かすかに動いた気がした。
沈薬の瞳が見開かれる。
だが次の瞬間には、また静かに戻っていた。
沈薬はしばらくその手を見つめていた。
そして小さく呟く。
「……気のせいですね」
だが眠る静王の胸は、わずかに深く呼吸していた。
まるで遠い闇の底から、何かが戻ろうとしているように。
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