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第3話 奇跡の覚醒
しおりを挟む静王府に嫁いでから、七日が過ぎた。
沈薬は毎日、同じ時間に寝殿へ通っていた。
朝は薬を煎じ、昼は御医の診察に立ち会い、夜は包帯を替える。
昏睡している夫の世話は静かな戦いだった。
目覚める保証はない。
それでも沈薬は、一度も休まなかった。
寝殿にはいつも薬の匂いが漂っている。
窓から差し込む光の中で、沈薬は今日も謝淵の側に座っていた。
長い黒髪が枕に広がり、整った顔は眠ったまま動かない。
沈薬は薬碗を持ち、慎重に彼の唇へ近づけた。
「……苦いですよ」
小さく呟く。
もちろん返事はない。
沈薬は慣れた手つきで、薬を少しずつ飲ませた。
御医が言っていた。
意識がなくても、少量なら飲み込めることがあると。
沈薬は布で唇を拭いた。
「今日も静かですね」
ぽつりと呟く。
部屋には沈薬と、眠る男だけ。
沈薬はふっと小さく笑った。
「こうして話していると、まるで私が独り言の好きな人みたいですね」
返事はない。
それでも沈薬は続けた。
「ですが」
沈薬は窓の外を見た。
庭の松の枝が風に揺れている。
「ここは、静かでいい場所です」
前世の東宮は違った。
笑顔の裏に毒があり、誰も信じられなかった。
沈薬はしばらく黙っていた。
そしてぽつりと言う。
「……あなたは、どんな人なんでしょう」
謝淵。
帝国の戦神。
勝利を重ねた将軍。
しかし沈薬は、その人となりを知らない。
沈薬はそっと彼の手に触れた。
大きな手。
冷たいが、少しずつ温もりが戻ってきている。
「目を覚ましたら」
沈薬は小さく息を吐いた。
「きっと驚きますね」
昏睡中に結婚していたなど。
怒られるかもしれない。
沈薬は苦笑した。
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
「王妃殿下」
扉が開き、顧文修が入ってくる。
「御医が参りました」
白髪の老医師が後ろに続いた。
御医は慎重に謝淵の脈を取り、瞳を確認する。
沈薬は黙って見守った。
やがて御医は眉をひそめた。
「……不思議です」
顧文修が聞き返す。
「何がです」
「脈が、少し強くなっています」
沈薬の目が動いた。
「それは」
御医はゆっくり首を振った。
「回復の兆しかもしれません」
顧文修の顔に驚きが浮かぶ。
だが御医はすぐに言った。
「ただし、確証はありません」
「昏睡の患者にはよくあることです」
期待を抱かせないように言っているのだろう。
沈薬は静かに頷いた。
「わかりました」
御医たちは診察を終え、部屋を出ていった。
顧文修は少しだけ沈薬を見た。
「王妃殿下」
「はい」
「……お疲れではありませんか」
沈薬は首を振る。
「大丈夫です」
顧文修は何か言いかけたが、結局黙って礼をした。
部屋は再び静かになる。
沈薬は寝台の横に座った。
そして小さく呟く。
「聞きましたか」
「回復の兆しかもしれないそうです」
もちろん返事はない。
沈薬は苦笑する。
「でも」
「少し嬉しいですね」
沈薬は彼の手を握った。
「もし目覚めたら」
言葉を選ぶように沈黙する。
「……怒らないでください」
その瞬間だった。
沈薬の指の下で。
ぴくりと、何かが動いた。
沈薬の瞳が見開かれる。
「……え」
今のは。
沈薬は息を止めた。
もう一度。
じっと手を見つめる。
するとゆっくりと男の指が、わずかに動いた。
沈薬は立ち上がった。
「顧軍師!」
廊下に声をかける。
すぐに顧文修が駆け込んできた。
「どうしました」
「手が……」
沈薬が言い終わる前に。
寝台の上で、男の眉がかすかに動いた。
顧文修の目が見開かれる。
「王爺……?」
次の瞬間。
長いまつげが震えた。
そして、ゆっくりと瞳が開いた。
深い夜のような黒い瞳。
それが、初めて沈薬を映した。
部屋の空気が止まったようだった。
沈薬も、顧文修も言葉を失う。
謝淵はしばらく天井を見ていた。
やがて視線がゆっくりと動き、沈薬に止まる。
沈薬は思わず息を飲んだ。
その視線は鋭く、静かだった。
眠りから覚めたばかりとは思えないほど。
沈薬は慎重に言った。
「……聞こえますか」
男の喉がわずかに動く。
声は掠れていた。
「ここは」
顧文修がすぐに膝をつく。
「王爺!」
その声に、謝淵の眉がわずかに動いた。
「……文修か」
「はい!」
顧文修の声が震えている。
何年も共に戦ってきた主の覚醒。
感情を抑えきれないのだろう。
謝淵はゆっくりと周囲を見た。
そして再び沈薬に視線を戻す。
沈薬は静かに礼をした。
「静王殿下」
謝淵の瞳が細くなる。
「……誰だ」
沈薬は少し迷った。
どう説明すべきか。
だが結局、正直に言うしかない。
「沈薬と申します」
謝淵は沈黙した。
沈薬は続ける。
「そして」
少しだけ苦笑する。
「……あなたの妻です」
部屋の空気が凍った。
顧文修が咳払いする。
「王爺」
「昏睡中に、陛下の賜婚がありまして」
謝淵は沈薬をじっと見つめた。
その視線は鋭い。
沈薬は逃げなかった。
やがて。
謝淵はゆっくり瞬きをした。
「……そうか」
意外なほど落ち着いた声だった。
そして沈薬の手を見た。
彼女がまだ、自分の手を握っていることに気づいたのだ。
沈薬は慌てて手を離した。
「申し訳ありません」
謝淵は少しだけ沈黙した。
そして低い声で言う。
「いや」
「……離すな」
沈薬の瞳がわずかに揺れる。
謝淵はまだ沈薬を見ていた。
その視線は、どこか探るようだった。
「目が覚めたとき」
掠れた声で言う。
「誰かが、呼んでいた」
沈薬は息を止めた。
謝淵はゆっくりと続ける。
「……お前か」
沈薬は答えなかった。
ただ、静かに頷いた。
すると。
謝淵の指が、今度ははっきりと沈薬の手を握り返した。
その力は弱いが、確かだった。
顧文修は信じられないものを見るような顔をしていた。
沈薬はその手を見つめる。
温かい。
確かな温もり。
沈薬の胸の奥で、何かが静かに動いた。
謝淵は目を閉じる前に、最後に一言だけ言った。
「……沈薬」
沈薬は顔を上げる。
謝淵は小さく息を吐いた。
「……礼を言う」
そして再び眠りに落ちた。
だが今度は、それは昏睡ではない。
ただの、深い眠りだった。
顧文修は呆然と呟いた。
「……奇跡だ」
沈薬は何も言わなかった。
ただ静かに、謝淵の手を握り続けていた。
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