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第4話 皇叔母様
しおりを挟む静王・謝淵が目を覚ましてから、十日が過ぎた。
王府の空気は明らかに変わっていた。
医師たちは「奇跡だ」と何度も言い、家臣たちは胸を撫で下ろしている。
帝国最強の将軍が戻ったという事実は、それだけで王府に力を取り戻させていた。
ただし、謝淵本人はまだ完全には回復していない。
長く眠っていた体は思うように動かず、歩くことすら困難だった。
それでも彼は毎日、少しずつ起き上がる時間を増やしていた。
寝殿の窓際。
沈薬は薬碗を手にして立っていた。
「殿下、薬です」
謝淵は背もたれに寄りかかりながら沈薬を見た。
目覚めたときより、顔色はかなり良くなっている。
ただ、その視線は相変わらず鋭い。
「また苦いのか」
低い声で言う。
沈薬は少し笑った。
「ええ。残念ながら」
謝淵は沈黙した。
沈薬が差し出す薬碗を見つめる。
しばらくしてから、諦めたようにそれを受け取った。
一口飲み、すぐに眉をひそめる。
「……毒のようだ」
「毒ではありません」
沈薬は平然と答えた。
「御医の処方です」
謝淵はもう一口飲んだ。
そして薬を飲み終えると、沈薬に碗を返す。
「お前」
沈薬は顔を上げる。
「はい」
「毎日これを飲ませていたのか」
「はい」
謝淵は沈薬を見つめた。
沈薬は気づいていないが、彼女の目の下には薄く疲れが残っている。
謝淵は短く言った。
「無理をするな」
沈薬は少し驚いた顔をした。
「大丈夫です」
「慣れています」
その言葉に、謝淵の目がわずかに動く。
だが何も言わなかった。
沈薬が薬碗を片付けようとしたとき、外から声がした。
「王爺」
顧文修だった。
「宮中から使者が来ています」
謝淵の眉がわずかに動く。
「内容は」
「陛下が宴を開かれるそうです」
顧文修は続ける。
「王爺の回復祝いとして」
沈薬の手が止まった。
宮廷の宴。
つまり皇族や貴族が集まる場。
そこには当然、あの男もいる。
皇太子・謝景初。
謝淵は沈薬を見た。
「行けるか」
沈薬は少し考えた。
逃げる理由はない。
むしろ、避ける必要もない。
「はい」
沈薬は静かに答えた。
「問題ありません」
謝淵は頷いた。
「ならば出る」
顧文修が頭を下げる。
「承知しました」
その夜。
沈薬は久しぶりに宮廷の装束を身につけた。
深い紅色の衣。
金糸の刺繍。
鏡の前に立つと、阿蘭が嬉しそうに言った。
「王妃様、とてもお綺麗です!」
沈薬は少し笑う。
「そう?」
「はい!」
阿蘭は目を輝かせた。
「きっと皆びっくりします!」
沈薬は髪飾りを整えながら、静かに思う。
前世、この宮廷でどれだけ傷ついたか。
それでも今は、不思議と心は穏やかだった。
静王府の馬車が宮門をくぐる。
沈薬と謝淵は並んで大殿へ入った。
その瞬間、周囲の視線が一斉に集まる。
ざわめきが広がった。
「静王だ」
「目覚めたのか」
「奇跡だ……」
謝淵は気にした様子もなく進む。
沈薬も静かに歩いた。
やがて、ある視線にぶつかる。
玉座の下。
皇太子の席。
謝景初。
彼は盃を持ったまま、沈薬を見ていた。
その目に浮かぶのは。
驚き。
沈薬はわずかに目を細めた。
前世では見慣れた顔。
だが今は、ただの他人だ。
宴が始まる。
皇帝が謝淵を見て言った。
「弟よ、よく戻った」
謝淵は礼をする。
「陛下のおかげです」
皇帝は笑った。
「いや」
そして沈薬を見た。
「王妃のおかげだろう」
周囲の視線が沈薬に集まる。
沈薬は静かに礼をした。
「恐れ入ります」
宴が進む中。
沈薬は視線を感じていた。
皇太子。
謝景初。
彼は何度も沈薬を見ている。
やがて!謝景初が立ち上がった。
「叔父上」
その声に大殿が静まる。
謝淵が視線を向ける。
謝景初は笑った。
「目覚められたと聞き、嬉しく思います」
礼儀正しい言葉。
だが瞳の奥には、別の光があった。
謝淵は淡々と言う。
「気遣いは無用だ」
謝景初は肩をすくめた。
そして、沈薬を見た。
「それにしても」
ゆっくりと口を開く。
「叔父上は幸運ですね」
沈薬の眉がわずかに動く。
「眠っている間に、こんな美しい妃を得るとは」
周囲から小さな笑いが漏れる。
沈薬は黙っていた。
謝景初はさらに言った。
「沈薬」
名前を呼ばれ、沈薬は顔を上げる。
謝景初は微笑んでいた。
「久しぶりだな」
沈薬は静かに礼をする。
「皇太子殿下」
謝景初は盃を持ち上げる。
そして、わざとゆっくり言った。
「いや」
にやりと笑う。
「今は違うか」
大殿の空気がわずかに変わる。
謝景初は言った。
「皇叔母様」
一瞬、沈黙が落ちた。
それは侮辱の言葉。
誰もがそう思った。
沈薬はゆっくりと顔を上げた。
そして、微笑んだ。
「はい」
静かな声だった。
「その通りです」
謝景初の笑みがわずかに止まる。
沈薬は丁寧に礼をした。
「これからもよろしくお願いします」
「皇太子殿下」
沈薬の声は穏やかだった。
だが、その言葉ははっきりと線を引いていた。
あなたと私は、もう別の立場。
その事実を、謝景初は初めて、はっきりと突きつけられた。
周囲がざわめく。
沈薬は平然としていた。
そのとき、隣で、低い声が響いた。
「景初」
謝淵だった。
謝景初が顔を向ける。
謝淵の瞳は冷たかった。
「言葉には気をつけろ」
短い一言。
だが、その威圧は十分だった。
謝景初はしばらく沈黙した。
やがて笑う。
「失礼しました」
そして席に戻った。
だが、彼の視線はまだ沈薬に向けられていた。
沈薬は気づいていた。
その目の奥にあるものを。
興味。
違和感。
そして、ほんのわずかな苛立ち。
沈薬は盃を持ち上げた。
胸の奥で静かに思う。
そう。
私はもう、あなたの妃ではない。
沈薬はゆっくりと盃を口に運んだ。
今の自分は、皇叔母様。
その立場が、何よりの盾だった。
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