前世で私を捨てた皇太子が、今世ではなぜか執着してきます。でも私は静王妃なので『皇叔母様』と呼ばせます

由香

文字の大きさ
5 / 10

第5話 静王の優しさ

しおりを挟む

 宮廷の宴から三日後。

 静王府の庭は、穏やかな朝の光に包まれていた。

 沈薬は廊下を歩きながら、静かに息を吐いた。

 あの宴の夜、皇太子の視線は最後まで沈薬から離れなかった。

 何かを探るような目。

 違和感を覚えているような目。

 だが沈薬は深く考えないようにしていた。

 今は静王府での生活に慣れることが先だ。

 沈薬は寝殿の扉を開けた。

「殿下」

 室内では謝淵が窓際に座っていた。

 まだ完全には回復していないが、椅子に座れるほどには体力が戻っている。

 沈薬は少し安心したように言った。

「今日は起きていらっしゃるのですね」

 謝淵は沈薬を見た。

「少しだけだ」

 沈薬は薬碗を机に置く。

「無理はなさらないでください」

「御医もまだ安静にと言っていました」

 謝淵は沈薬の動きを黙って見ていた。

 彼が目覚めてから、沈薬は毎日世話をしている。

 薬、食事、包帯の交換。

 王妃というより、看病人のようだった。

 沈薬が振り向く。

「どうしました」

 謝淵は短く言った。

「……疲れているな」

 沈薬は一瞬驚いた。

「そんなことは」

 言いかけて、沈薬は少し笑った。

「少しだけ、かもしれません」

 謝淵は沈黙した。

 沈薬は薬碗を差し出す。

「殿下、薬です」

 謝淵はそれを受け取る。

 飲みながら、沈薬に聞いた。

「お前は」

「なぜ私を選んだ」

 沈薬の手がわずかに止まった。

 やはり聞かれると思っていた。

 皇族の中から結婚相手を選ぶ機会。

 普通なら皇太子を選ぶ。

 だが沈薬は、昏睡している男を選んだ。

 沈薬はしばらく沈黙した。

 そして静かに言った。

「理由はいくつかあります」

 謝淵は沈薬を見ている。

 沈薬は続けた。

「一つは」

「殿下が英雄だからです」

 謝淵は眉をわずかに動かした。

 沈薬は少しだけ笑う。

「帝国の誰もが尊敬しています」

「その方の妃になるのは、名誉です」

 謝淵は何も言わない。

 沈薬は視線を少し落とした。

「そしてもう一つ」

 沈薬はゆっくり言った。

「殿下は」

「私を傷つけないと思ったからです」

 謝淵の瞳がわずかに動いた。

 沈薬はそれ以上何も言わなかった。

 部屋はしばらく静かだった。

 やがて謝淵が低く言った。

「……妙な理由だ」

 沈薬は小さく笑う。

「そうですね」

 謝淵は薬を飲み終えた。

 そして沈薬を見た。

「だが」

 沈薬は顔を上げる。

 謝淵は短く言った。

「間違いではない」

 沈薬の目がわずかに揺れる。

 謝淵は続けた。

「私は」

「妻を辱める趣味はない」

 沈薬はしばらく黙っていた。

 胸の奥が、少し温かくなる。

 前世では。

 そんな言葉を聞いたことはなかった。

 沈薬は礼をした。

「ありがとうございます」

 そのとき。

 扉の外から声がした。

「王妃殿下!」

 阿蘭だった。

 沈薬が扉を開けると、阿蘭が少し慌てた様子で立っていた。

「どうしたの」

「宮中から使者が来ました」

 沈薬は眉をわずかに動かした。

「宮中?」

「はい」

 阿蘭は小声で言う。

「皇太子殿下からです」

 沈薬の心が静かに沈んだ。

 やはりあの男は、簡単には終わらない。

 沈薬は応接間へ向かった。

 そこには若い宦官が立っていた。

「静王妃殿下」

 恭しく礼をする。

「皇太子殿下から贈り物です」

 箱が差し出された。

 沈薬はそれを見た。

 開けると、中には翡翠の簪が入っていた。

 高価なものだ。

 沈薬は静かに言う。

「理由は」

 宦官は答えた。

「宴での無礼のお詫びだそうです」

 沈薬は少し笑った。

 あの男が謝罪?

 ありえない。

 沈薬は箱を閉じた。

「受け取れません」

 宦官は困った顔をした。

「ですが」

 沈薬は静かに言った。

「皇太子殿下にお伝えください」

 宦官が顔を上げる。

 沈薬は穏やかに言った。

「私は東宮の人間ではありません」

「静王妃です」

 その声は柔らかい。

 だが、はっきりしていた。

 宦官は頭を下げた。

「承知しました」

 使者が帰った後。

 沈薬はしばらく庭を見ていた。

 すると背後から声がした。

「皇太子か」

 振り向くと謝淵が立っていた。

「殿下」

 沈薬は驚く。

「歩いて大丈夫なのですか」

「少しなら」

 謝淵は沈薬の手にある箱を見た。

「贈り物か」

「断りました」

 沈薬は即座に答えた。

 謝淵は沈薬を見た。

「迷わなかったな」

「はい」

 沈薬は静かに言う。

「必要ありません」

 謝淵はしばらく沈薬を見ていた。

 そして言った。

「沈薬」

「はい」

 謝淵は少しだけ沈黙してから言った。

「ここは静王府だ」

 沈薬は彼を見る。

 謝淵の声は低く、落ち着いていた。

「誰も」

「お前を無理に笑わせない」

 沈薬の胸が、わずかに揺れた。

 謝淵は続ける。

「嫌なことは、断ればいい」

「私がいる」

 その言葉は短かった。

 だが沈薬の心に、静かに染み込んだ。

 沈薬はゆっくり頭を下げた。

「……はい」

 沈薬は思った。

 前世の自分は、ずっと耐えていた。

 誰にも守られず。

 だが今は違う。

 この男は、本当に、自分を守ろうとしている。

 沈薬は謝淵を見た。

 彼はまだ完全には回復していない。

 だがその背中には、確かな強さがあった。

 沈薬の胸の奥で、何かが少しずつ変わり始めていた。




しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?

ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」 その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。 「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」

あなたのことなんて、もうどうでもいいです

もるだ
恋愛
舞踏会でレオニーに突きつけられたのは婚約破棄だった。婚約者の相手にぶつかられて派手に転んだせいで、大騒ぎになったのに……。日々の業務を押しつけられ怒鳴りつけられいいように扱われていたレオニーは限界を迎える。そして、気がつくと魔法が使えるようになっていた。 元婚約者にこき使われていたレオニーは復讐を始める。

報われない恋の行方〜いつかあなたは私だけを見てくれますか〜

矢野りと
恋愛
『少しだけ私に時間をくれないだろうか……』 彼はいつだって誠実な婚約者だった。 嘘はつかず私に自分の気持ちを打ち明け、学園にいる間だけ想い人のこともその目に映したいと告げた。 『想いを告げることはしない。ただ見ていたいんだ。どうか、許して欲しい』 『……分かりました、ロイド様』 私は彼に恋をしていた。だから、嫌われたくなくて……それを許した。 結婚後、彼は約束通りその瞳に私だけを映してくれ嬉しかった。彼は誠実な夫となり、私は幸せな妻になれた。 なのに、ある日――彼の瞳に映るのはまた二人になっていた……。 ※この作品の設定は架空のものです。 ※お話の内容があわないは時はそっと閉じてくださいませ。

不実なあなたに感謝を

黒木メイ
恋愛
王太子妃であるベアトリーチェと踊るのは最初のダンスのみ。落ち人のアンナとは望まれるまま何度も踊るのに。王太子であるマルコが誰に好意を寄せているかははたから見れば一目瞭然だ。けれど、マルコが心から愛しているのはベアトリーチェだけだった。そのことに気づいていながらも受け入れられないベアトリーチェ。そんな時、マルコとアンナがとうとう一線を越えたことを知る。――――不実なあなたを恨んだ回数は数知れず。けれど、今では感謝すらしている。愚かなあなたのおかげで『幸せ』を取り戻すことができたのだから。 ※異世界転移をしている登場人物がいますが主人公ではないためタグを外しています。 ※曖昧設定。 ※一旦完結。 ※性描写は匂わせ程度。 ※小説家になろう様、カクヨム様にも掲載予定。

──いいえ。わたしがあなたとの婚約を破棄したいのは、あなたに愛する人がいるからではありません。

ふまさ
恋愛
 伯爵令息のパットは、婚約者であるオーレリアからの突然の別れ話に、困惑していた。 「確かにぼくには、きみの他に愛する人がいる。でもその人は平民で、ぼくはその人と結婚はできない。だから、きみと──こんな言い方は卑怯かもしれないが、きみの家にお金を援助することと引き換えに、きみはそれを受け入れたうえで、ぼくと婚約してくれたんじゃなかったのか?!」  正面に座るオーレリアは、膝のうえに置いたこぶしを強く握った。 「……あなたの言う通りです。元より貴族の結婚など、政略的なものの方が多い。そんな中、没落寸前の我がヴェッター伯爵家に援助してくれたうえ、あなたのような優しいお方が我が家に婿養子としてきてくれるなど、まるで夢のようなお話でした」 「──なら、どうして? ぼくがきみを一番に愛せないから? けれどきみは、それでもいいと言ってくれたよね?」  オーレリアは答えないどころか、顔すらあげてくれない。  けれどその場にいる、両家の親たちは、その理由を理解していた。  ──そう。  何もわかっていないのは、パットだけだった。

お前は要らない、ですか。そうですか、分かりました。では私は去りますね。あ、私、こう見えても人気があるので、次の相手もすぐに見つかりますよ。

四季
恋愛
お前は要らない、ですか。 そうですか、分かりました。 では私は去りますね。

あなたへの恋心を消し去りました

恋愛
 私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。  私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。  だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。  今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。  彼は心は自由でいたい言っていた。  その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。  友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。  だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。 ※このお話はハッピーエンドではありません。 ※短いお話でサクサクと進めたいと思います。

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

処理中です...