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第6話 記憶の断片
しおりを挟む東宮は、夜になると静まり返る。
昼間は官吏や侍女の出入りで賑わう宮殿も、深夜には別の顔を見せる。
灯籠の光が長い廊下に揺れ、風が瓦をかすかに鳴らしていた。
皇太子・謝景初は一人、書案の前に座っていた。
手元には開いたままの文書。
だが視線は、そこには向いていない。
盃の中の酒をゆっくり回している。
その表情はどこか不機嫌だった。
「……沈薬」
ぽつりと呟く。
その名を口にした瞬間、胸の奥に奇妙な違和感が走る。
あの女、静王妃。
自分の叔父の妻。
宴の夜の光景が思い出された。
堂々と礼をして言った。
「皇太子殿下」
そして皇叔母様。
あの言葉。
謝景初は盃を飲み干した。
なぜだろう。
沈薬を見るたび、胸の奥がざわつく。
見慣れないはずの顔なのに。
どこかで、何度も見てきたような気がする。
そのとき、ふいに頭が痛んだ。
「……っ」
謝景初は額を押さえた。
視界がぐらりと揺れる。
そして景色が変わった。
――冬の庭。
白い雪。
東宮の奥庭。
誰かが跪いている。
細い体。
黒い髪。
震える声。
「殿下……」
謝景初はその光景を、上から見ていた。
自分が立っている。
目の前にいる女を、見下ろしている。
「もう一度、申し上げます」
冷たい声が響く。
自分の声だった。
「東宮の争いごとで、私を煩わせるな」
女は顔を上げた。
沈薬。
その瞳には、悲しみと諦めが混ざっていた。
そして、視界がまた揺れる。
暗い部屋。
誰もいない寝殿。
沈薬が一人、寝台に座っている。
頬は痩せ、顔色は青白い。
彼女はゆっくり立ち上がった。
そして小さく呟く。
「……もう、いい」
その声はとても静かだった。
謝景初は何か言おうとした。
だが、声が出ない。
次の瞬間、景色が崩れた。
謝景初ははっと息を吸った。
「……!」
気づくと、東宮の書斎だった。
盃が倒れ、酒が机に広がっている。
謝景初はしばらく動かなかった。
今のは。
夢?
いや。
あまりにも鮮明すぎる。
あの庭。
あの言葉。
あの顔。
沈薬。
謝景初はゆっくり立ち上がった。
胸がざわつく。
妙な感覚だった。
まるで、自分が忘れていた何かが、少しだけ戻ってきたような。
そのとき、扉がノックされた。
「殿下」
入ってきたのは柳雪蘭だった。
皇太子の側室。
白い衣に身を包み、柔らかく微笑んでいる。
「まだ起きていらしたのですね」
謝景初は椅子に座り直した。
「眠れない」
柳雪蘭は近づき、酒を新しく注いだ。
「何かお悩みですか」
謝景初は盃を受け取りながら言った。
「沈薬を知っているか」
柳雪蘭の手が一瞬止まった。
だがすぐに微笑む。
「静王妃様ですね」
「宴で拝見しました」
謝景初は彼女を見た。
「どう思う」
柳雪蘭は少し考えるふりをした。
「とても……お綺麗な方ですね」
柔らかな声。
だがその瞳の奥には別の光があった。
「ですが」
柳雪蘭は静かに言う。
「少し不思議です」
「何がだ」
「殿下」
柳雪蘭は首をかしげた。
「沈薬様は、以前から殿下をお慕いしていたと聞いています」
謝景初の眉が動く。
「だが」
「なぜ突然、静王殿下を選んだのでしょう」
謝景初は黙った。
確かに。
それは不自然だった。
沈薬は皇太子を選ぶはずだった。
誰もがそう思っていた。
それなのに。
彼女は昏睡している男を選んだ。
柳雪蘭は静かに笑う。
「きっと、何か事情があったのでしょう」
謝景初は盃を飲んだ。
そして呟く。
「……事情か」
その言葉と同時に。
また頭の奥が痛んだ。
雪の庭。
沈薬の顔。
冷たい声。
「煩わせるな」
謝景初は盃を強く握った。
柳雪蘭が心配そうに言う。
「殿下?」
「……なんでもない」
謝景初は目を閉じた。
沈薬。
あの女は。
本当に初めて会った女なのか。
なぜ。
あんな夢を見る。
なぜ。
胸がこんなにざわつく。
謝景初はゆっくり目を開けた。
そして静かに言った。
「雪蘭」
「はい」
「沈薬のことを調べろ」
柳雪蘭は少し驚いた顔をした。
「静王妃様を?」
「そうだ」
謝景初は低い声で言った。
「何でもいい」
「最近のことでも、昔のことでも」
柳雪蘭は微笑んだ。
「承知しました」
だがその胸の奥では、別の感情が芽生えていた。
皇太子が他の女に興味を持つ。
それは面白くない。
だがもし沈薬が邪魔になるなら。
排除すればいい。
柳雪蘭は優雅に礼をした。
「殿下の望み通りに」
彼女が去った後。
謝景初は一人、窓の外を見た。
夜の宮廷。
遠くに静王府の方向がある。
謝景初は小さく呟いた。
「沈薬」
その名を口にするたびに、胸の奥の何かが、少しずつ動いていた。
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