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第10話 皇叔母様の勝利
しおりを挟む静王府の庭は静かだった。
午後の陽が竹林を透かし、淡い光が石畳に落ちている。
だがその穏やかな景色とは裏腹に、空気は張り詰めていた。
門の外から、足音が近づいてくる。
重く、速く。
そして門が開いた。
現れたのは――
皇太子だった。
護衛も数名いるが、彼自身の気配がすべてを支配している。
庭にいた侍女たちは一斉に跪いた。
沈薬は静かに立っていた。
その隣には謝淵。
二人の視線が同時に皇太子へ向く。
皇太子はゆっくり歩いてきた。
その目は沈薬から離れない。
まるで長い旅の果てに、ようやく探していたものを見つけたかのようだった。
「沈薬」
低く、はっきりとした声。
沈薬は答えない。
ただ静かに言った。
「皇太子殿下」
その呼び方。
距離をはっきり示す呼び方だった。
皇太子の眉がわずかに動く。
「やめろ」
彼は言った。
「そんな呼び方は」
沈薬は穏やかに微笑む。
「では何とお呼びすれば?」
皇太子は一瞬黙る。
そして言った。
「前と同じでいい」
沈薬の目がわずかに冷たくなる。
「それはできません」
沈黙。
風が庭を通り抜けた。
竹の葉がさらさらと鳴る。
皇太子はゆっくり言った。
「沈薬」
その声には、押し殺した感情が混ざっていた。
「なぜだ」
沈薬は答えない。
皇太子は続ける。
「お前は私を愛していた」
沈薬の瞳が揺れた。
確かに、前世ではそうだった。
若かった。
愚かだった。
皇太子の言葉一つで心が揺れた。
だが、沈薬は静かに言った。
「それは前世の話です」
皇太子の目が見開かれる。
沈薬は続ける。
「私は確かにあなたを愛していました」
庭が静まる。
侍女たちも息を止めている。
沈薬の声は落ち着いていた。
「ですが――」
彼女は一度だけ謝淵を見る。
そして言った。
「あなたは私を捨てました」
皇太子の顔が固まる。
沈薬の言葉は淡々としていた。
「冷宮へ送られました」
「罪もなく」
「誰にも会えず」
「最後は一人で死にました」
その言葉は静かだった。
だが重い。
皇太子の唇が震える。
「……違う」
沈薬は首を振る。
「違いません」
彼女の瞳は澄んでいた。
もう過去に縛られていない目。
「殿下」
沈薬はゆっくり言った。
「あなたが覚えているのなら、分かるはずです」
皇太子の目が揺れる。
沈薬は最後の言葉を落とした。
「私はもうあなたを愛していません」
沈黙。
それはまるで雷の後の静寂のようだった。
皇太子の肩がわずかに震える。
「……嘘だ」
彼は呟いた。
「沈薬が私を愛さないはずがない」
沈薬は答えない。
皇太子の目が謝淵へ向く。
その視線には、はっきりとした敵意があった。
「叔父上」
低い声。
「あなたのせいだ」
謝淵は静かに見返す。
皇太子は笑った。
「沈薬を奪った」
謝淵は短く答えた。
「違う」
皇太子の眉が動く。
謝淵の声は落ち着いていた。
「彼女が選んだ」
沈薬を見る。
その視線は優しかった。
「私はただ、彼女の隣にいるだけだ」
皇太子の拳が握られる。
沈薬は静かに言った。
「殿下」
皇太子が振り向く。
沈薬はゆっくり頭を下げた。
「どうかお帰りください」
その言葉は穏やかだった。
だがはっきりとした拒絶だった。
皇太子はしばらく動かなかった。
沈黙。
風。
竹の葉。
やがて、皇太子は笑った。
だがその笑いはどこか空虚だった。
「……そうか」
彼は沈薬を見る。
長い時間。
そして言った。
「最後に一つだけ聞く」
沈薬は黙っている。
皇太子は問う。
「沈薬」
「お前は幸せか」
沈薬は迷わなかった。
「はい」
その声は柔らかかった。
そして隣を見る。
謝淵。
沈薬は微笑んだ。
「とても」
その瞬間。
皇太子の目が閉じられた。
長い沈黙の後。
彼は背を向けた。
「……分かった」
低い声。
皇太子は歩き出す。
門へ。
護衛たちも続く。
門の前で一度だけ止まった。
振り返らないまま言う。
「沈薬」
その声はもう静かだった。
「今世は……負けだ」
そして皇太子は去った。
門が閉じる。
静寂。
沈薬はゆっくり息を吐いた。
長い夢が終わったようだった。
その時、謝淵が言った。
「沈薬」
沈薬が振り向く。
謝淵は少しだけ困ったように言う。
「私は……」
言葉を探している。
沈薬は首を傾げた。
謝淵は珍しく迷った顔で言った。
「良い夫になれているだろうか」
沈薬は一瞬驚いた。
そして、思わず笑った。
「殿下」
沈薬は言う。
「十分すぎるほどです」
謝淵は少し安心したように息を吐いた。
沈薬は庭を見渡す。
竹林。
光。
静かな風。
もう冷たい宮廷の記憶は遠い。
沈薬は思う。
前世では、愛を間違えた。
だが今世では違う。
沈薬は謝淵を見る。
この人の隣で生きていく。
それが自分の選んだ未来だ。
沈薬は小さく微笑んだ。
そして言った。
「殿下」
「これからもよろしくお願いします」
謝淵も静かに頷いた。
こうして。
沈薬の二度目の人生は――
ようやく、本当の意味で始まったのだった。
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